2015-12-31

海街diary

Google Playで映画レンタル75%オフをやっていたので、
「海街diary」を見た。
是枝裕和監督の作品は「そして父になる」に続いて2作目だ。
撮影は同じく瀧本幹也さん、そして音楽は菅野よう子さんだ。

これは是枝さんなのか瀧本さんなのかわからないが、
2作品とも青や緑の印象が強い気がする。
あと、カメラワークとして、レンズが人物の目線よりも
下になっているカットが多い気がするが、
他の映画と比較したことがないので普通のことなのかもしれない。

「そして父になる」のときは、自分が父になるという想像に
ある程度の現実味があったこともあり、それに比べると
「海街diary」への感情移入度は下がったが、
4姉妹を始めとした微妙な感情の表現はさすがと感じる。
どこまでアドリブが入っているんだろう。

印象的だったのは花火のシーンだ。
あれ、一発撮りだったらしい。
イメージと技術のレベルの高さを見せられた思いだ。
他にも、食卓を囲うシーンや4人が窓から顔を出しているシーンなど、
昭和の名作を見ているように感じるカットが多かった印象だ。
意図的にそうしていたんだろうか。

2015-12-29

stool

洗面所の踏み台用にスツールを作った。
脚の間にちょうど無印良品のファイルボックスが納まる。

長さ1820mmの1x6材から4枚の板を切り出して組み合わせる。
時間がなくてボンドと金物で接合したのみであるが、
天板側にビス頭が出ない納まりにはこだわる。

そして、デスクライトを間接照明にしてf/5.6、6.5''で撮影。
概ね影は消えただろうか。

ピダハン

ダニエル・エヴェレストのピダハンを読み終えた。

ピダハン語の特徴のいくつかは日本語に似ていると感じた。
 ・目的語が動詞の前にくる
 ・語順が比較的自由である
 ・動詞の活用がなく、接尾辞をつけていくスタイル
 ・声調の違いが意味の区別に使われる
江戸時代には銭湯が混浴だったらしいが、
性に対して開放的である点にも共通点がみられる。
細かいことはわからないが、家族構成などにも
共通点があるのだとすれば、文化が言語に影響を
与えるという説への一助になるかもしれない。
鶏と卵であるが。

著者はリカージョンと表現しているが、
ピダハン語に従属節や関係節が見られないというのは
とても面白い。
真賀田四季の「接続詞は不要です。文脈に興味がありませんから。」
というセリフを思い出した。


川に入って行ったのと出てきたのは同じ人間なのか、という話や
ピダハンが折りにふれて名前を変え、前の名前で呼ばれても
自分のことだとは思わないという話。

意識はどうやって自らの連続性を認識しているのだろう。
記憶の連続性のみに依拠しているのであれば、
それは物理的に再現可能だろうか。
発想もまた、それまでの記憶を元にしているのであれば、
回路が実現されることで可能だと考えるのが科学的には自然だ。

自己同一性もまた、文化の影響を多分に受ける。
明日起きた後も、まだ自分は自分だろうか。

2015-12-28

daishou

代償の大小

社会

以下は、日本に限った話なのかもしれない。

・帰省しない人が増えている
・子どもを産まなくなっている
・産んだ後も仕事のため、保育園に入れる
・介護もしなくなっている
・近所付き合いは顕著に減っている
・見知らぬ人の子とのコニュニケーションを避けている
 特に、怒らなくなっている

これらすべて、社会性を減らすような傾向であると言える。
そしてそれは、個人が趣味や仕事のための代償として
払った対価である。

個人の集合が社会を作っているというのは、
個人という概念ができた後に想定された物語で、
実は社会を分割してできたものが個人なのではないか。

教育や社会保障のサービス化というのは、
家族という仕組みの継続のためには悪手になることもある。
お金さえ払えば何でもかんでもアウトソースできる。
育児、教育、しつけ、看病、介護。
そしてそのお金はアウトソースしたこれらの行為の裏で
せっせと働いて稼いだものである。

貨幣のおかげで物々交換から解放されることで、
人間は他人との関係を少しずつ切り離すことに成功してきた。

国家としては、家族の形態がどうあろうが、あまり関係ないだろうか。
むしろ、貨幣のみでつながっている方が管理がしやすいとも言える。
先日、子育て給付金を廃止し、高齢者への給付金を行うという政策が
発表され、twitterなどでは一部から非難轟々だった。
でもこれって、構図としては仕事で稼いだお金で親を老人ホームに入れ、
代わりに子育てに時間を割くのと同じなのでは。
それを各家族でやるか、国家レベルでやるかの違いが非難を生んでいる。
個人が家族のつながりを減らしたいのであれば、
国家がその仕組みの肩代わりをすることを非難する資格はあるのだろうか。


時間は有限である。
その有限な時間を何のために使おうが個人の勝手である。
親も子も切り離し、趣味や仕事に邁進するのも、また一興なのかもしれない。

1,2,3,4,5

一時、二次災害によって大惨事になりました。
以上、四時のニュースをお送りしました。

2015-12-22

イエロークリスマス

文京区にはイチョウの木が多い。

今年は暖冬のせいもあってか、
未だに黄色い葉をたくさん残している木も
結構見受けられる。

クリスマスまであと2日。
イエロークリスマスになるのはほぼ間違いなさそうである。

2015-12-17

最高裁で夫婦別姓を合憲とする判決が出たようだ。

個人的にはどちらでもよいというか、
むしろ結婚を国に認めてもらう必要があるのは
何故だろうと考えてしまう。
国の側からすれば、結婚には出産を期待でき、
子を新しい国民として取り入れることが国の利益に
つながると想定できるため、結婚を制度として
組み込むメリットはある。
国からは対価として扶養控除等のかたちで
国民の側にもメリットを用意する。
相互から強化することで結婚制度を維持してきたが、
それが難しくなるのであれば、抜け出せばよいのでは。

また、親の姓を受け入れることに疑問をもたないのに、
入籍時にどちらかの姓を受け入れることに疑問を
もつあたりに整合性のなさを感じる。
親とも配偶者とも子とも別々の姓を名乗ることを許した世界まで
想像して夫婦別姓を唱えている人はどのくらいいるんだろうか。

出身地も方言も家系図も姓も、そういった付帯的な性質を
どんどん捨てて、人はさらにindividualになっていく。
一方で様々なハンドルネームを駆使して、ネットワークの世界では
どんどんdivideされていく。
最近の傾向としては通時的なつながりを減らすことで
共時的なつながりを増やしていくのが流行りなのかもしれない。

2015-12-16

同一

ダニエル・エヴェレットの「ピダハン」という
本を読んでいる。

まだ半分くらいであるが、科学を通して把握される
世界にとって、ピダハンの人々は極めて特殊だ。
著者によれば、数量詞や色名等、言語学の常識からすれば
言語一般に備わっている単語がなく、音素も圧倒的に少ない。

果たして西欧的な意味での意識をピダハンは
もっているのだろうか。
(意識の有無は別に優劣ではなく実装の問題であるから、
例えばLISPとFORTRANの設計思想の違いのようなものだ。)

コンピュータの世界でデータを圧縮する際には、
何をもって同一とするかが重要になる。

認識が入力された情報の圧縮なのだとすれば、
情報のどの部分を同一とみなすかがキーになる。
同一性に関する公理が定まれば抽象が可能になり、
差異から意味を取り出すこともできるようになる。

この「同一性に関する公理」こそが意識のあり方を
決めているのだとすれば、西欧人とピダハンとで
全く異なる世界を認識しているという事態も、
ありえないことではないと考えられる。
ノーム・チョムスキーの言う生成文法というのは、
「同一性に関する公理」がホモ・サピエンスにおいて
一通りであるという意味なのだろうか。
同一性の同一性はどうやって検定したらよいのだろう。

2015-12-14

講義

「大学では授業のことを講義って言いますよね」
「授業と講義の違いはわかるかな」
「うーん、双方向性とかでしょうか」
「双方向な講義なんて絶滅危惧種みたいなもんだよ。単に箔を付けたいがためさ」
「大学の先生方も意外と体を気になさるんですね」
「まあそれは否定しないけど、箔を付けたがっているのは学生の方だよ」

2015-12-10

炒り豆に花が咲く

いりまめにはながさく
ながいはにくさりまめ
長い歯に腐り豆

擦り傷

「ズサーッ!イッテー!!」とかけまして、
「あ、すいません。ん?あっ!財布!!」とときます。
その心は、
どちらも
擦り傷痛んだ/スリ気付いたんだ
でしょう。

2015-12-08

聴いて極楽見て地獄

きいてごくらくみてじごく
くらくてくじきごごみてい
暗くて挫き午後未定

linuxのvimでクリップボード

先日コンパイルしたlinuxのvimを使っていて、
他のアプリケーションからコピーした内容はpできるのに
vimでヤンクした内容がペーストできないと思っていたら、
どうやら"*レジスタの他に"+レジスタがあるらしい。


:help x11-selectionによれば、
X11のglobal storeにはselectionとcut-buffersの2種類があるらしく、
selectionはアプリケーション毎に保持されるのに対し、
cut-buffersはXサーバ自体に保持される点のみが異なるようだ。

selectionの中身はペースト側のアプリケーションからの要求が
あったときにのみ渡され、
cut-buffersの中身は即座にXサーバからアクセス可能になるらしい。

さらに、:help quoteplusを読む。
X selectionsにはPRIMARY、SECONDARY、CLIPBOARDの
3種類があり、PRIMARYはvimではヴィジュアルモードに相当し、
CLIPBOARDはカット、コピー、ペースト操作用とのこと。

vimでは、PRIMARYには"*レジスタを、CLIPBOARDには"+レジスタを
使っているようだ(SECONDARYはill-definedであり、vimでは
使っていないとのことである)。
この項のExamples:を読むと、次のことがわかる。
 ・vimのヴィジュアルモードで選択したテキストは、
  他アプリケーションにおいて中ボタンで貼り付け可能
 ・他アプリケーションで選択したテキストは、
  vimにおいて中ボタンで貼り付け可能
 ・vimで"+レジスタに入れたテキストは、
  他アプリケーションのペースト機能で貼り付け可能
  (このとき、テキストを選択していた場合は上書き可能であり、
  PRIMARYとCLIPBOARDの内容が影響し合わないことがわかる)


ようやく把握した。

時間

時間とは、繰り返しの中に見出された順序のことである。


同じような事象が連続して繰り返されることは多い。
鼓動、日の出入り、月の満ち欠け、季節。
それが繰り返されているものだと認識することから、
時間概念は発生しうる。

脳に入力された信号が同じようなものであると認識できる能力に加え、
それを順序に並べ、要素間の発生間隔を記憶する能力も必要である。

時間概念なしでも、現在一日と呼ばれている時間間隔に合わせて
行動することは可能である。
それは、日射、気温、湿度、風等の外的要因への反応でしかなく、
意識が芽生える遥か昔からの習慣だろう。

段階的ではあるが、いろいろなものが繰り返されていることを知り、
それを順序付けることができたことで、時間という概念を抽象することができた。
あらゆる繰り返しの中に見出した構造を時間と名付け、
その構造体自身を扱えるようになったのも、人間を特徴付ける
抽象能力の賜物である。

ブルバキ的に言えば、空間が位相的構造をもつのに対し、
時間は順序的構造をもつ。
ここに決定的な違いがあるように思われる。
時間軸上の移動ができたとして、果たしてそれは空間軸上の
移動と同じ意味をもつことなどあるだろうか。

パブリックな時間が存在して、個々人がそこにアクセスしているという
古典的な時間概念は相対性理論とともに崩れ去った。
上記のような時間の発生過程を想像すると、
相対性理論を持ち出すまでもなく、絶対的な時間など存在しない方が
自然であり、コミュニケーションのために抽象された言語に近いものだと
考えられる。

時間はとてもプライベートなものである。

2015-12-07

辞書

辞書とは言葉から言葉への置換の集合であるが、
検索語を抽象するような置換になっている必要がある。

言語自体が事象に対する抽象になっているわけだから、
2段階の抽象ということだ。

抽象的な辞書を作りたい。
ということで、追加した→

2015-12-06

圧縮

人間が抽象能力によって特徴付けられるのだとすれば、
言語はその最大の成果であり、人体の外側から入ってくる
様々な情報の圧縮方式である。

宗教も、真なる命題を無反省に受け入れることで
原因ー結果のプロセスを短絡することだとすれば、
圧縮方式の一種である。

宗教、言語、意識等についての反省が可能であることに
気付いたのも、人間が死から十分に遠ざかり、
暇になったということの現れなのだろう。

2015-12-03

宗教

宗教とは説明の集合体である。

「○○は××である。」
あるいは
「○○なのは××だからである。」
のような命題のコレクションであり、
すべて真であることが前提されていることに
特徴がある。


脳の容量が増えることで、人間のパターン認識能力は
爆発的に発達し、それは空間的にだけでなく
時間的にも拡がった。
時系列で生じる事柄について次の段階を予測できることは
生き残る上で有利に働くため、
「原因ー結果」という因果律を求めるのは自然だと考えられる。

因果律に対する希求が宗教を生むのも、
極めて妥当性が高いと思われる。
不明瞭な事象に対し、上手く説明される一連の命題を受け入れることは、
当人にとって生存を引き延ばす安堵感へとつながる。

中世に比べるとヨーロッパにおいて教会の権威が落ちているのも、
科学というより説明能力の高い思想体系が発達した影響が大きい。
日本でキリスト教が普及しないのも、日本に入ってきた当時、
既に日本流に解釈された仏教や神道、あるいは「お上」等が存在し、
それらに囲まれてある一定レベル以上の暮らしを営んでおり、
西洋でキリスト教が生まれた当時に比べて生存への不明瞭さが
なかったからではないか。

「世界はどのようにして始まったか」というような不明瞭な事柄を
説明するために踏む段階の数を説明距離と呼ぶとすると、
説明距離の短さは宗教間の軋轢に繋がりやすい。
つまり、その事柄の説明があまりに短絡過ぎると、
他の解釈との相違が目立ち、対立に繋がると考えられる。

科学はおそらくこれまでに生まれたどんな宗教よりも説明距離が長い。
体系間の軋轢というのは説明距離の短い側から生まれることが多いため、
科学の側から既存の宗教を告発する事例というのはあまり聞かないが、
科学は静かに宗教の領域を侵食しつつある。
しかし、どんな説明もまた一つの解釈でしかないから、
科学が宗教を完全に駆逐するとは考えづらい。
それは、日本でキリスト教が普及しないのと同じ構図だ。

そもそも、自意識自体が無意識のうちに設定された、
不明瞭な事象に対する説明である可能性すらある。
この文章、「意識」が「無意識」のうちに設定される、という
わかるようなわからないようなものになっているが、
つまり、意識が介在せずに行動している状態において、
判断基準は不明瞭であった。
本能的判断のみによって行動している段階では
原因と結果が十分に近く、判断基準の不明瞭さには
気付かなくとも生存が脅かされることがなかった。
それに対し、判断対象の領域が拡がるとともにその不明瞭さが
明瞭になっていき、いつしかそれに対する説明を受け入れること
抜きにはいられなくなった。
そのときに仮想された判断基準としての「意識」なるものが
脈々と受け継がれているのではないかということだ。


いつか意識に対する別の説明が現れたとき、
人間にはそれを受け入れるだけの強さがあるだろうか。