2016-08-31

描像

シュレーディンガー描像は、オブザーバブルは時間発展せず、
状態が時間発展する、としており、ハイゼンベルク描像はその逆である。

センサと情報として捉えると、センサがオブザーバブル、
つまり演算子に対応し、情報が状態に対応する。
ある観測の確率分布が、センサと情報のいずれの時間発展に
由来するか、という違いである。

両者の定式化は等価なので、いずれの立場をとっても解釈は
可能だが、個人的にはシュレーディンガー描像の、センサは
変化しないという発想の方が好きだ。
生命が秩序のことなのだとすれば、時間発展する情報を、
センサというかたちで秩序立てられたものが抽象することで
秩序を形成しており、秩序あるものとしてのセンサは変化しない、
という方がわかりやすい。
このあたり、シュレーディンガーが「生命とは何か」で書いている
ことなので、シュレーディンガー自身の生命観が量子力学の
体系化にも影響しているのかもしれない。

ファインマンの経路積分は、これらの演算子形式とは違った
捉え方をするのだが、どのように位置付けられるだろうか。

風姿花伝

世阿弥「風姿花伝」を読んだ。

古典の文章は久々に読んだので、文意をとるのに
一苦労したが、高校時代に古文の授業をちゃんと
受けておいてよかった。

岩波文庫で100ページあまりの短いものだが、
芸術論がてんこ盛りである。
個々の芸術論はもちろんためになるのだが、
花傳第七別紙口傳において、
因果の花を知る事、極めなるべし。一切、みな因果なり。
世阿弥「風姿花伝」p.106
とあるのや、
いづれを誠にせんや。ただ、時の用ゆるをもて、花と知るべし。
同p.109
とあるのがよい。
また、全体的に語感が整っていて、読んでいて心地がよいのも
さすがである。

第一で、
この藝において、大方、七歳をもて初めとす。
同p.12
とあるのだが、カンデル神経科学第一章にあった、バイリンガルの
第2言語習得時期の違いによる、脳の活性化領域の違いを比較
した図を思い出した。
七歳あたりが、意味付け用の回路が確保できるかの境目に
なっているのだろうか。
それ以降は、あらゆる処理が理由付けによってしかできないのであれば、
いくら磨きをかけても、精度と速度の両面で敵わなくなってしまうのだろう。

LSD

ジョン・レノンが初めて幻覚剤LSDをキメてトリップした様子を語るインタビュー音声がアニメ映像化される


LSDを服用したときにジョンが体験していたのは、抽象過程において
生じるエラーのように思える。

a little red lightとa fire in the liftは、視覚センサにとっては
同じような現象だが、熱センサにとっては異なる現象であり、
通常時は別のものとして抽象される。
LSDを服用すると、それまで得られていた人体センサ間の
コンセンサスにずれが生じ、両者を取り違えてしまうのだろう。

この種の取り違えは、「金枝篇」の中でフレイザーが共感呪術と
呼んでいるものと共通点があるように思われるが、果たしてどうだろうか。
共感呪術では、雨、太陽、風等の自然現象を真似ることで、
雨乞いのような儀式を行う。
当人たちにとっては、水を撒くことと雨が降ることが同一視できる
からこそ、こういった儀式が成り立つのだろう。
歴史というバッファを利用して、その種の意味付けを排除してしまった
人類にとっては、意識的にそれを当人たちと同じように感じることは
おおよそ不可能だと思うが、幻覚剤による作用というのは、意識という
理由付けをある程度麻痺させることで、強制的にその状態にする
ようなものなのかもしれない。

生命のチューリングテスト

95光年先にある星から「謎の信号」を受信していたことが判明


ロシアの電波望遠鏡で、波長2.7cm、強度750mJyの信号を受信し、
地球外の文明からのものかは定かではないものの、調査に値する、
ということのようだ。

地球外生命体が存在するかという問題に答えるには、生命とは何か
という問題を先に解決しなければならない。
それは、人工知能を生命とみなすかという問題にも通じるが、
秩序立てることが生きることなのだとすれば、人工知能であれ、
遠い天体からの信号であれ、そこに生命を見出すことは可能である。

そもそも、情報の海から、意味付けや理由付けによってあらゆる概念を
象っているのだとすれば、生命もまた、そういった抽象過程において
生じるものであり、人工知能に生命は宿るのか、あるいは地球外生命体は
存在するのか、といった問題は、人間の無意識や意識に委ねられている。

生命のチューリングテストは、究極的にはコンセンサスに基づくしかない。
それは、現実というものの在り方の基本である。

2016-08-30

神話

エヴァを観ていると神話について知りたくなり、
  • J.G.フレイザー「金枝篇」
  • 矢島文夫「ギルガメシュ叙事詩」
  • 上村勝彦「インド神話」
  • J.C.ヴァンダーカム「死海文書のすべて」
  • 杉勇「シュメール神話集成」
  • 井村君江「ケルトの神話」
を買った。
毎度のことで明らかに買いすぎなのだが、
「本棚に入れておくのは、読んでもいい本です。」
by J=C.カリエール
なのでよいのだ。

「金枝篇」を読んでいると、各地に伝わる物語や信仰が
あまりに共通していることに驚く。
意味付けは、一つの個体のうちで大量のデータを獲得するが、
理由付けは、歴史というバッファを利用することで、大量の
個体を有するクラスタのうちで大量のデータを獲得するような、
意味付けの変種であるとも思えてくる。
それはやがて理屈なき伝統になることを目指しているように見える。

p.s.
amazonのプライム・ビデオからエヴァのTVシリーズが消えていた。
序破Qを観た後でもう一度観たかったからちょっとショックだ。
しかし、新しくカウボーイビバップが入っていたのは朗報である。

作用

ユクスキュルの「生物から見た世界」は読んだ記憶が
あるのだが、いつ頃どんなきっかけで読んだのかは
あまり覚えていない。

ユクスキュルが同書で提唱した環世界は、知覚と作用からなっている。
無意識や意識というものを、センサへの入力情報に対する
意味付けや理由付けという抽象過程として捉えることで、
ユクスキュルが言うところの機械操作係にあたるものを
想定することなしに、知覚の部分は説明できると思われる。

では、作用の方はどのように捉えるべきか。

無意識や意識が、機械操作係として先行して存在し、
外部に対して作用するという発想を棄却したい。
知覚にせよ作用にせよ、機械操作係というものは
無意識や意識が成立した後で、振り返って自らの先取制を
訴えるようなもので、どうもいちゃもんをつけている感が拭えない。

位置、方向、形状、特性等の、センサのプロパティの変化が作用である、
と捉えることは可能だろうか。
そもそもセンサ自体、情報を出力しているはずであるから、
情報の出力を作用とみなすのが素直かもしれないが、その出力情報は
センサのプロパティ変化に帰せられるのではないかと思う。

プロパティを意識が変化させているとみなすと、機械操作係が誕生して
しまうが、それは知覚の場合と同様の後出しである。
そうではなく、センサのプロパティ変化が、実装された意識にとっては
外部に作用しているように感じられる、という解釈が成立するか、
という問を立てたい。

そもそも、知覚と作用とを切り分ける必要はないのではないかという気も、
してこないでもない。

p.s.
amazonの履歴を調べると、K.ローレンツの「攻撃」の3ヶ月後に
「生物から見た世界」を購入しているので、たぶんそこからのつながりだ。
さらに、「攻撃」は貴志祐介の「新世界より」の影響のようだ。
書籍の購入履歴が残っていると、興味の変遷がわかって面白い。

2016-08-29

抽象の抽象

意味付けについての抽象が言葉を生み、
理由付けについての抽象が物語を生む、
と言えるだろうか。

数学や音楽はどのような位置づけになるだろうか。

2016-08-28

L.C.L.

エヴァ新劇場版の序、破、Qをこの土日に観た。

特典映像のRebuild of EVANGELIONが興味深い。
実写ではできない表現手法だ。
視覚的には、映像が具体的なものになる過程である一方、
庵野秀明の考える世界観の抽象化が進んでいく過程とも言える。

そもそも、抽象過程によって構造が象られることで、意味という差異の
認識が可能になり、個々の具体ができあがるのだから、抽象の対極に
あるのは、L.C.L.還元のような解体の過程である。
「情報が存在している」という言及すら不正確さを含んでしまうような
在り方で、端的に情報が在るようなイメージだ。
それを抽象することが秩序を生み、それがすなわち生命である。
An At a NOA 2016-08-27 “ぼくらは都市を愛していた
この状態が、L.C.L.還元された状態だろうか。

バナナ型神話

知恵の樹の実を食べた人間は必ず死ぬようになり、
男には労働の苦役が、女には出産の苦しみが
もたらされたとされている。

獲得した知恵を駆使することで、労働からの解放に
手をかけつつも、自ら労働に拘泥してしまうのは、
知恵の樹の実の呪いだろうか。
あるいは、その究極に、知恵の樹から生命の樹への
転換があることを恐れてのことだろうか。

労働からの解放と出産の喪失が同時に起こり、
その代償として長命を獲得する。
当然、知恵は既に失った状態である。

バナナ型神話において、獲得した知恵を使うことによる、
石とバナナの再選択は可能なのだろうか。
森博嗣のWシリーズのテーマだと言ってもよいかもしれない。
(というか、「すべてがFになる」以来の、真賀田四季に関する
あらゆるストーリィに共通する問題である)
彼女は一人で歩くのか?
魔法の色を知っているか?
風は青海を渡るのか?

そして、現代社会における最大のテーマの一つでもある。

2016-08-27

蔵書印

この間デザインしたロゴを蔵書印にした。

40mm角の蔵書票に押したかったので外寸は25mmとした。
高さはその黄金比倍でおおよそ40mm。

真鍮削り出しで、表面はブラスト処理してある。
活版印刷に使う活字のイメージだったので、
本当は鉛と錫の合金で鋳物にしたいのだが、
ルーローの七角形の精度が必要なのと、手間を考えて却下。
次善の案として金属の3Dプリンタを使う手もあったが、
思ったよりだいぶ高かったので、結局切削にした。
切削も、ルーローの七角形を手加工するのがしんどいので
proto labsというサイトで発注した。
stlファイルを用意するだけなのでだいぶ楽。
形状的には背面が印面に嵌るようになっているので、
本当はもう一個オーダーしたい。

金属印はインクを弾いたりしないか心配だったが問題なし。
インクはCAPPAN STUDIOのマットブラックを使っている。

あとは紙を買ってこなければ。
神保町にある竹尾の見本帖本店に行けるといいんだけど、
平日しかやっていないのがつらい。
風光あたりの厚めの非塗工のものがよさげ。





ぼくらは都市を愛していた

神林長平「ぼくらは都市を愛していた」を読んだ。


やはり神林長平はよい。
世界観が近いので、読んでいてすっと入ってくる。

そもそも分子や原子や素粒子といったものも概念的な存在、
つまりフィクションであって、〈リアルな世界〉というのは、
そうした概念で説明可能なものだけで成り立っているわけではない。
神林長平「ぼくらは都市を愛していた」p.201
ここで言われる〈リアルな世界〉というのが、情報そのものである。
そこには時間も空間も含め、あらゆる概念が存在しない。
「情報が存在している」という言及すら不正確さを含んでしまうような
在り方で、端的に情報が在るようなイメージだ。
それを抽象することが秩序を生み、それがすなわち生命である。

理由付けという抽象により意識がみせる現実は、通信を介した
コンセンサスによってしかその現実性を担保できない。
これは別に、現実の虚構性として悲観するようなことではなく、
これこそがまさに現実の在るべき姿である。
ようするに大人たち、つまりヒト社会の常識は、〈人間は独りでは
生きていけない〉ものであると子らに諭しているのではなくて、
〈独りでは生きるな〉と命令し、強制していた。こうした感性は
〈田舎〉、すなわち〈自然〉と結びついたところから発生したものだろう。
同p.238
無意識=自然の状態において、現実を構成するための手段が〈田舎〉だった。
それは通信を強制するという常識によって現実を維持する。
その後、理由付けにより意識を実装したヒトが創り出した最高傑作が〈都市〉である。
ヒトがこの世に生み出してきた無数の人工物のなかの、最大にして、
もっとも強力な〈機械〉のことだ。千三百万の人間を、各各〈独り〉で
生かすことができる能力を持っている、マシン。
(中略)そのような機械が、動物であるヒトの常識=〈独りでは生きられない〉
に対抗できる力を〈個人〉に与えたのだ、わたしのような、娘のような、者たちに。
(中略)
わたしたちは、〈都市〉を愛した。
同p.239
情報震は、通信を阻害し、共通意識の場を破壊することで、現実を崩壊させた。
「…あなたの考える情報震とは、人類に共通する意識の場を分裂させるものだ。
〈人類を統合していた共通意識=統合意識〉の場が分裂し、各個人は、
その分裂したどれかの共通意識の場に参加するか、あるいは各人の
意識世界のみで生きるしかなくなった、そういうことなのでしょう」
「そう。人の、個人的な認知機能がおかしくなるのではない、人同士の関係性が、
破壊される。それが、情報震の被害だ。…」
同p.307
解説で松永天馬も書いているように、東日本大震災の折にも、様々な情報が
飛び交うことで共通意識の場は分裂した。
かつてはマスコミという巨大な共通意識の場が用意され、多くの人に支持されることで
現実は概ね一枚岩だったように思う。おそらく、戦時中のように情報統制されていた
時代はなおさらそうだっただろう。
情報技術の発展により通信の手段が増え、速度が増したが、それが返って混乱を生み
情報震を招くというのは何とも皮肉的だ。
もはや「〈都市〉はいま統合失調のような状態にある」(同p.309)のに、
それでも何とか共通意識の場を延命させようと、facebookやtwitter等で日々
発信を続け、受信した証を残していく。
猜疑心という自己の〈観念〉によって自滅の危機に追い込まれた生物種というのは
地球生命史上、おそらく初めてだろう。
同p.64
本当にそんな事態になりかねない。

〈都市〉にとっては、彼女がこの街で使おうとしたカードは、脅威だ。
なにしろそちらのマネー体系の侵入は、〈都市〉にとっては外部観念の
侵入であり、それを許せば、〈都市〉の世界そのものが揺らぐ
同p.344
火も、言語も、鉄も、貨幣も、資本主義も、原爆も、コンピュータも、かつて侵入してきた
「マネー体系」だっただろう。
この先、どんな「マネー体系」によって、今ある現実は変容させられていくだろうか。

『真の世界とは、人間の感覚や理解を超えて広がっていて、そこには、
因果関係も時空も物質もエネルギーもない、あるいはそれらがみんな
ごったまぜに存在する、混沌の場で、わたしたち人間は、そのごく一部を
意識し、意識することで、いわゆるわたしたちの小さな〈現実〉を生み出し、
その仮想的な世界、真の世界とはかけ離れた、遠いところで生きている』のだ
同p.354
「ミウ=未だ有らず」と「カイム=皆無し」という名前が、ゲートキーパーの上記のような
世界認識をよく表している。
〈皆無〉というものが、〈有る〉。これが、わたしたちが感じている現実というものです。
(中略)トウキョウというものは本来、ない。街もなかった。
いま、それを生み出しているのは、みなさん一人ひとりの存在です。これを自覚し、
わかることは、みなさんにとって、とても重要です。それを知ることこそ、人生を
生きていることの、意味なのだから
同p.358

p.s.
綾田ミウの戦闘日誌の日付と時刻。
年は西暦二〇〇〇年代として書かれているが、これを昭和だとすれば、
  • 二〇年〇八月〇六日〇八一五時:広島に原爆投下
  • 二〇年〇八月〇九日一一〇二時:長崎に原爆投下
  • 二〇年〇八月一五日一二〇〇時:終戦の玉音放送
  • 二一年〇七月〇一日一六一〇時:ビキニ環礁で初の原爆実験(クロスロード作戦)
  • 二九年〇三月〇一日:ビキニ環礁で水爆実験(キャッスル作戦)
これらもまたそれぞれが、侵入してきた「マネー体系」として、日本社会に情報震を
もたらしてきた。

2016-08-24

苫小牧→函館→博多

土日は苫小牧と函館にいた。
そして今は博多にいる。

函館を訪れたのはもう7、8年振りだった。
大学のときに家族旅行で来て以来だ。
函館駅は、外観こそ変わらないものの、新幹線の開業に
合わせてショッピングモールが新しくなっていた。
それでも、朝市でイカやメロンを食べた後、十字街から
ハリストス正教会や元町公園へ抜け、八幡坂を下り、
金森倉庫まで歩きながら写真を撮っていると、
変わらない風景も多く、少し安心する。

帰りは台風11号とニアミスをしながら飛行機で東京へ。
月曜日には東京で台風9号に襲われる。
そして火曜日には福岡空港へと移動。
火曜の夜に博多の旧友が連れて行ってくれた店では
名物のイカがシケのせいで入荷しておらず。
なんだかここ数日間は、行く先々で台風に振り回されている。






2016-08-23

系統樹思考の世界

分類思考の世界」に続き、三中信宏の「系統樹思考の世界」を読んだ。


系統樹思考と分類思考がそれぞれ理由付けと意味付けに対応するだろう
という理解は、本書を通しても強化された。
分類思考に即した自然分類は、おそらく認知心理学的な研究の
延長線上に到達できるものだろうと私は推測しています。
三中信宏「系統樹思考の世界」p.124

系統樹思考は「ものの見方」として意識的に採用する必要があるということです。
同p.124
というかたちで、分類思考は無意識的な過程、系統樹思考は意識的な過程
として区別されている。

この本で取り上げられる系統樹思考の方はアブダクションと呼ばれており、
第三章では、アブダクションによる推測が何をもってベストとされるのかについて、
ジョセフソン夫妻の提案する諸条件が列挙されている。
その中の六番目、
(6)そもそも特定の仮説を選び出す必要性があるかどうかを検討すること。
同p.179
が面白いと思った。
人間は何かの必要性にかられて系統樹思考=理由付けをしているのだろうか。
本書でも、生存に有利だったのではないかという著者の意見が何度か出てきており、
それにも賛同はできる。
ただ、生命がつまり秩序なのだという理解の下では、生きることと意味付けや理由付け
という抽象過程は、どちらがどちらのためというものではなく、同値関係にあることになる。
こうやってコンセンサスを取りながら、この世を秩序あるものと
して理解しようとする姿勢が、つまり生きるってことだし、
人間ってことなんだと思う。
An At a NOA 2016-07-28 “なぜなぜ期

最節約的説明の説明の中で、
最節約的説明は必ずしも正しいわけではありません。しかし、そういう真実とは
無関係に、Zさんは最節約的説明Hを掲示し、おそらくその説明は共感をもって
他の保護者に受け入れられるでしょう(真相が明らかになるまでは)。
同p.184
とあるのが、正しさや真実のありようを端的に表している。
真実というものは他人の理解とは無関係です」という真賀田四季のセリフを思い出す。

2016-08-20

鶏卵問題

鶏が先か、卵が先かは、決められないのではなく、
決めるしかない、という類のものである。

鶏の卵から産まれたものを鶏と呼ぶのか、
鶏が産んだ卵を鶏の卵と呼ぶのかの違いである。

自分が裁量権をもっているのに、それに気付かず
責任転嫁するという状況はそこかしこに見られる。

2016-08-18

分類思考の世界

三中信宏「分類思考の世界」を読んだ。

ヒトは無意識のうちにオブジェクトを分類してしまう生きものである。
(中略)一方、分類したとしても、オブジェクトに関して何かが解明
されるというわけでは必ずしもない。そのとき、私たちヒトは、
オブジェクトが存在する現象世界を認識するためにのみ分類して
いると言わざるを得ない。
三中信宏「分類思考の世界」p.18
プロローグにて述べられる上記の文が全てだと言ってもよい。

「時空的同一性(spatio-temporal identity)」の認知能力こそ、
生物進化の過程がヒトに与えた能力だと著者が述べるように、
ある集合を同じものとしてまとめる根拠は、ものの方にあるのでは
なく、人間の意識の方にある。
私たちが無意識のうちにつねに発動する心理的本質主義という
生得的傾向が、グループ化された群の背後に隠された目に見えない
本質の存在を私たちに仮定させてしまう。
(中略)分類行為とは、単なる好奇心の発露ではなく、ヒトの祖先に
とっては文字どおり生き抜くための思考だっただろう。
同p.106
意味付けや理由付けがつまり「時空的同一性」の認知能力に他ならない。
そこには常に、同一性という正義が埋め込まれ、それが意味あるいは理由
という本質の存在の仮定を伴ってしまう。

第12章でB.W.オジルヴィー「記載の科学」を取り上げ、十六世紀までのただ単に
記載すればよかった時代が、大航海時代におけるコレクションの急激な膨張とともに
終焉し、十七世紀以降の分類の科学を生んだと述べている。
分類自体は意識的な行為なのかもしれないが、圧倒的大量のデータに基づく
抽象過程という点では、理由付けよりも意味付けに近いと言える。
意味付けは理由付け以上にセンサ特性の影響をもろに受けるので、
ニューギニア高地のエピソードに対する指摘として、
現地人の民俗分類体系における鳥の種と現代鳥類学における科学的分類体系の
もとでの種がみごとなほど一致するということは、種が実在することの証拠なのでは
なく、むしろ科学的な分類体系の根幹にヒトによる認知心理的なカテゴリー化が
共通して存在することの証左と言わねばならないのではないだろうか。
同p.270
とあるのはもっともである。

著者が指摘するように、進化的思考と心理的本質主義は相容れないため、
「分類される物」ばかりに着目していると、心理的本質主義は批判を免れられない。
しかし、「分類する者」に注目することで、
「種」は、「分類される物」の側にあるのではなく、ほかならない「分類する者」
の側にあるのだということが理解されるようになるだろう。
同p.295
としている点にとても共感できる。

あとがきで著者が述べているように、系統樹思考がアブダクションであるのに対し、
分類思考はパターン認識である。
これは理由付けと意味付けの違いに対応し、あるいはメトニミーとメタファー、
時間と空間の違いと言うこともできるのかもしれない。
いずれのタイプの抽象過程にも、本質の仮定はつきまとうが、
「分類するは人の常」
その業を甘んじて受け入れようということだ。
同p.301
分類は、意識が不在でも可能であるという意味において、極めて自然な行為である。
そういうことなのだ。

UP8月号

書籍部では、毎月中旬を過ぎるとUPがレジの向こう側に並ぶ。
タダでもらえるのだが、UPの購読料代わりとして、
もらうときは何か一冊本を買うようにしている。

UPで読んだ記事が面白くて本を買うことも多い。
有限性の後で」「社会心理学講義
「情念・感情・顔」あたりなんかがそうだ。

今月は春日直樹「アナロジーの非対称性から考える意図とパターン」
という記事が面白かった。
ここで言われている非対称性とは、既知の領域(=ベース・アナログ)
から未知の領域(=ターゲット・アナログ)へのアナロジーと、
その逆方向へのアナロジーの非対称性を指したものだ。
これは対称性バイアスによる錯覚であり、その錯覚を錯覚でなくなる
までに突き詰めると科学になるが、そうでなくてもアナロジーを
非対称性なままに活用する術を人類が身につけてきたのではないかと
筆者は指摘している。
その上で、
人類には動く事象の背後に何らかの意志を読みとる性向とともに、
その事象をパターン化する能力がそなわっている。
春日直樹「アナロジーの非対称性から考える意図とパターン」
UP8月号p.15
という指摘における「意志の察知」と「パターンの認知」の両者が、
お互いにベース・アナログとなってアナロジーを形成するところに
人類の生活が成り立つのではないかと提案する。
前者は心理的本質主義と言われるものだが、人間は無意味に耐えられない
ということにも通じ、理由律への希求だと捉えられる。
後者は意味付けや理由付けにおける抽象過程そのものだ。

両者は果たして切り分け可能なのだろうか。
抽象過程は圧縮過程であるから、必ず何らかの同一性の想定が含まれる。
パターン化と同一視はどちらが先に起こるのかを決められず、
一つの過程の両面なのではないかと思う。
あるいは、ウロボロスのように自分自身を参照しているような
ものではないかと思う。
だからこそ、「ロゴス=神」と言われるのではないだろうか。

ということで、春日直樹「科学と文化をつなぐ」を買った。

2016-08-16

超音波浮揚


「瞬間、心、重ねて」を彷彿とさせる。
超音波浮揚の技術、面白そうだ。

定常波の間ではなく、外に浮かすことで波長より大きい物体も
浮かせられるらしい。
超音波浮揚で波長より大きな物体を浮かせる技術を発表。
配管を使わない液体搬送などに応用の可能性


何かに使えないだろうか。

2016-08-14

理不尽な進化

吉川浩満「理不尽な進化」を読んだ。

多くの場合に誤解されがちな進化論を題材に、
その理解され方の理解を通して、「理解する」
とはどういうことなのかを考える本だと言える。

書名にも含まれる「理不尽」、あるいは「不条理」
「偶発性」という言い方も本文中で出てくるが、
この「理不尽」というものがやっかいなものであり、
本書の中心でもある。

ダーウィニズムは、先の三浦俊彦の言い方を借りていえば、
目的論的にしか理解できない事象を結果論的に説明する
ことを発明した。エリオット・ソーバーはこれを「目的論の
自然化」と呼んでいる。
吉川浩満「理不尽な進化」p.164
とあるように、理不尽さを取り入れることでダーウィニズムは
目的論的思考とは一線を画している。
それは、理由付けによって構築される理屈や理論のみでは
達せられない判断があることを示している。
これを目的論的判断と呼ぶとすれば、意味付けによる判断は
結果論的判断と呼べる。それはいかなる理解も供さないが、
判断は可能になる。
理由付けによって生じる「意識」が存在しない状態のことがすなわち
自然であるから、「目的論の自然化」というのはとても上手い
命名である。

第三章でグールドのスパンドレル論文を取り上げる箇所で、
「なぜなぜ物語」の話が出てくる。
グールドは適応主義の節度ない適用を「なぜなぜ物語」に
なぞらえ、それ自体はドーキンスやデネットらによって
反論され、結果的に適応主義を強固なものにしたようだが、
そもそも理由付けそのものが壮大な「なぜなぜ物語」である。
それが荒唐無稽であるかどうかは、コンセンサスによって
判断されるしかない(しかし、コンセンサスが成立していることが
重要なのであり、科学は如何にしてコンセンサスをとるべきか
に対して極めて慎重である)。
ある物事が理不尽か否かということもまた、妥当な理由付けが
できるか否かの違いでしかないと言えば、そう言えてしまう。
そこを暴こうとしたのがメイヤスーの「有限性の後で」だった
のかもしれない。「有限性の後で」の中でも偶発性と似たような語が
飛び交っていたように記憶している。

終章において、結果的には負けたことになっているグールドが、
それでも提起し続ける問題として、科学と歴史の関係が展開され、
「現在的有用性」と「歴史的起源」、「説明」と「理解」、
「方法」と「真理」等の言葉で対比される。
「説明と理解」の長い論争の解説をする中で、その違いが列挙されるが、
どちらも理由付けであるという点では相違ないように思われる。
歴史という「理解」の特徴として、
それが循環的な構造をもつことだ。これは、歴史を理解し語ろうと
する者もまた当の歴史に巻き込まれているという、単純だがしかし
根本的な制約条件による。
同p.312

歴史にはなにが語られるべき事柄なのかという前学問的・前科学的な
観点があるということだ。
同p.314
といったものが挙げられているが、科学という「説明」もまた、
自らを含む系を対象とし、人体というセンサを通して知覚したものを
対象とするという点では程度問題である(人体以外のセンサも日進月歩
拡張しているが、どういったセンサを開発するかという大本にはやはり
人体のセンサ特性が関わっていると思われる)。
この程度問題を重要視するかどうかは、どこに焦点を当てるかによるし、
本書の主題には適っているように思う。おそらく筆者も承知の上で区別を
している(p.320でローティを引いているあたりはそういうことだろう)。
ただ、意味付けと理由付けという観点からすると、「説明」と「理解」の
いずれも理由付けの側であるとは思う(あるいは「理解」は意味付けの側
なのだろうか)。

しかし、偶発性という概念にたいして、それ以上になにを求めることが
できるのだろうか。
同p.340
とあるのが、つまりは本書の最大の問なのではないかと思う。
「中身が空っぽでなければならない」それに対して、中身を詰めることでしか
抵抗できなかったことがグールドの敗着だと述べられているが、果たして
意識がこれを適切に扱う術はあるのだろうか。

思うに、いかなる理由律からも逃れた偶発性というのは、意味付けによって
支えられるしかない。
圧倒的大量の情報を受信し、特徴抽出をすることで、偶発性は空っぽのままに
抽象され得る。それは無意識の判断にしかなり得ないし、「説明」や「理解」
とは無縁のものだ。そのとき、
理不尽さとは、このような偶発性にたいする私たちの人間的・形而上学的反応
なのである。
同p.371
と述べられている、「どうしてこうなった/ほかでもありえた」という感覚からも
解放されるだろう。

こういったことは人工知能にはお得意の分野であり、自動運転やチェスだけでなく、
白血病の診断も行ったりと、着々と理不尽さは「解消」され始めている。
だが、無意味に耐えられない「人間」はそれによって何を得るのだろうか。
しかし、千の否ののちにもなお残るその「理不尽にたいする態度」は、自らの
足跡を消しながら進むライプニッツ主義パラダイムへの造反有理を伝える
胸騒ぎとして、私たちに働きかけることをやめないように思われるのである。
同p.417
という感覚が、理不尽さが「解消」し尽くされることによって、いつの日か
雲散霧消してしまうことは、果たして幸せだろうか、不幸せだろうか。
「人間」は、著者がp.410で挙げているような、お釈迦様、ニーチェの超人、
「すばらしい新世界」の従順な下層民になりたかったのだろうか。

そのときが来たら、こういった問いかけも、もはやできる状態にはないだろう。


p.s.
むしろ、お釈迦様や超人になることは、積年の夢だったのかもしれない。
無我の境地というやつだ。
それは、あらゆる理不尽さを「そういうものである」として受け入れる。
その段階から振り返ると、「ハーモニー」のエンディングはディストピアでなく、
認知症よりも意識の方がとなるのかもしれない。
人間と人工知能は、どちらが先に涅槃に入るだろうか。

2016-08-12

ロゴス

文体の科学」には「ヨハネによる福音書」の話が出ていた。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
「ヨハネによる福音書」
この「言(ことば)」の原文はギリシア語のλόγος (ロゴス)であり、ゲーテの「ファウスト」や種々の日本語訳を取り上げながら、この語をどのように訳すかといったエピソードが紹介されている。

Wikipediaでロゴスの項を引くと、
1. 概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味。
2. キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。
3. 言語、論理、真理の意味。
 転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」という意味で用いられることもある。
Wikipedia “ロゴス
とある。


ロゴスは理由付けによる抽象過程のことだと言える。
言葉自体、無意識や意識という抽象過程の抽象から生じる類のものである。
An At a NOA 2016-08-11 “文体の科学
から、ロゴスを「言(ことば)」と訳してよいのかは悩みどころだ。「語(ことば)」、「意(こころ)」、「力(ちから)」、「業(わざ)」、「理(ことわり)」等と、いろいろな訳出案が出てくるのも頷ける。

ロゴスが神であるということはつまり、大いなる原因としての神というのは、理由付けそのものということだ。原因を追うというあらゆる行為の最果てにあるものが、まさにその原因を追うという行為であるということは、これもまたウロボロスとなっており、古今東西の宗教というのはそういった構造をしているのかもしれない。

p.s.
そう言えば、髙田三郎作曲、高野喜久雄作詩の合唱曲「水のいのち」は宗教の循環パターンそのものだ。
おお 川は何か
川は何かと問うことを止めよ
高野喜久雄「川」
というのは、輪廻からの解脱と同じ構造である。髙田三郎による「演奏上の注意」の最後に、
尚、この組曲は、(中略)全五曲をこの順序で演奏し、この組曲本来の形をとることの方が、はるかに望ましいことを附言する。
とあるのももっともだ。


2016-08-13 追記
神=ロゴスがすべてを創造したという考えは、強ち間違いとも切り捨てられない。意味付けや理由付けという抽象過程抜きには、ただ情報しか存在しないのだとすれば、私達が認識するような有様として世界を形づくっている根源の一部は間違いなくロゴスだからだ。ただし、理由付け以外の抽象過程としての意味付けを見落としてしまったのでは片手落ちになってしまう。

2016-08-11

文体の科学

山本貴光「文体の科学」を読んだ。

紙の書物と電子書籍の関係について考えていたことと
共通する部分が多く、おーやっぱりこういうこと考える人も
いるんだ、と少し嬉しくなる。

文章の書き手がある主題について考えたこと(思想)と
その配置こそ文体の本質であり、これは他人が盗み取れる
ものではない。というのも、文体とは人がものを考える際に
設ける秩序と運動なのだから。
山本貴光「文体の科学」p.17
というかたちで文体のイメージを整理した上で、いわゆる文体だけでなく、
本の大きさ、デザイン、使われている紙、ページ上の文字の配置、
使われている書体やその大きさなどなど
同p.19
といった物質的な側面も文体の一部に含めている。もちろん、紙の書物
だけでなく、電子書籍やウェブサイト等も視野に入れて。
著者が指摘するように、これらはデザインとして語られることが多かったが、
それをまとめて整理するという発想にはとても共感できる。

文字の物質的な配置についてのエピソードとして、
書き手がページ・レイアウトを意識して、読者がページをめくるという経験を
考慮しながら原稿を書く場合もないではない。
同p.30
という京極夏彦の例を挙げている。京極作品は読んだことがないのだが、
森博嗣の作品でも同じことを感じる。だからこそ、森博嗣の作品を電子書籍で
読んだときに、どうしても改行や改ページの位置が気になってしまう。

数学に限らず、そのまま記せば長くなるものを、人間はあの手この手で
圧縮・短縮する。(中略)それは記憶の経済とでも言うべき興味深い
ことばの現象でもある。
同p.60
言葉自体、無意識や意識という抽象過程の抽象から生じる類のものである。
繰り返し使用される中で、常に圧縮・短縮されるというのは、使用頻度の高い
ものにより短い符号を割り当てるという、データ圧縮の基本と通じる。

第四章ではガリレオの「天文対話」を例にとり、
「知る」とはどういうことか、これが対話の隠れた主題なのだ。
同p.93
としている。天文対話において、最終的に天動説にも地動説にも決着しない
ことが面白い、というのには賛成だ。
どういうモデル化を採用するかによっては、天動説を正とすることも可能だろう。
しかし、よりシンプルで、より多くのことを説明可能なモデル化があれば、
コンセンサスはそちらに移行していく。正しさとはそういうものだ。

第九章の批評についての文章の最後で、多様な読み方が生じる理由として、
つまり、文章を読み解くということは、その文章と読み手の脳裡にある知識や
経験の記憶を結び合わせるということでもある。
同p.232
としている。本が固定されたものだとしても、人間の側が個人個人で異なり、
あるいは個人でも時々刻々変わることで、受け取り方は変わる。
終章において、
「同じ」テキストデータであれば、どのような表現形式で読んでも、「同じ」
読書を体験できるだろうか
同p.263
という問に対し、認知心理学や神経科学の観点からは否となるだろうという
展望を述べているように、そこには本の物質的な側面も当然関わるだろう。

もうすぐ絶滅するという紙の書物について」を読んで感じたことだが、
人間の意識が身体というセンサの特性に規定されるように、書物もまた
表現媒体に規定される。
意識を別の回路に移したときに、センサ特性が変わることで、元の意識と
同じところもあれば違うところも出てくるだろう。
同じように、一つの書物を紙の書物で読んだときと電子書籍で読んだときとでは、
同じように伝わることも、違うように伝わることもあると考えられる。
筆者が言うように、どちらがよいということではなく、そこを考えるのはとても
楽しいだろうということだ。


この本を読んでいて、游明朝体が藤沢周平の小説を組めるフォントを目指して
開発されたという話を思い出した(雪朱里「文字をつくる9人の書体デザイナー」)。
本職ではないが、タイポグラフィを始めとしたデザインの話は好きだ。
このブログにおいても、改行位置、空行の数、漢字とかなの別、cssによる見た目の
調整等、気が遣える限りのデザインを施している。
モバイル版にまで手が回っていないのが心残りだ。

2016-08-10

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの対談、
「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」を読んだ。

いたずらに紙の書物を礼賛するわけでもなく、ただただ
二人の紙の書物への愛情にあふれた会話を聞いているようで、
まさに原題のとおり、「本から離れようったってそうはいかない」
と思わせてくれるような本であった。

問題は失われる集団的記憶ではないのです。問題はむしろ
現在の不安定さなんだと私は思います。
U.エーコ、J=C.カリエール「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」p.90
というエーコに対し、
流動的で変わりやすく、更新可能ではかない時代を生きている
私たちが、しだいに長生きになるのは逆説的だという話は
すでにしました。
同p.91
と受けるカリエール。
長生きと情報量の拡大により、共時的にも通時的にも受け取る情報量が
増えているのは間違いない。
情報量の増加が理由付けから意味付けへの移行をもたらすのだとすれば、
人間が意識を保つには絶えず変わらなければならない。
結果として個々の秩序の存続時間が短くなり、不安定さを増すことは、
どんな種類の問題を引き起こすだろうか。
共時的な情報伝達においては、電子データの方が有利なのは確かだ。
電子書籍は、通時的な情報伝達をある程度切り捨てることでそれを獲得した。
しかし、存続時間の短い秩序が、それでも存在したことを通時的に伝達することに
意味があるのだとすれば、不安定な現代だからこそ生じた、紙の書物の役目も
あると言えるだろうか。
これが、攻殻機動隊S.A.C.で笑い男が紙の書物を収集していた理由かもしれない。
肉体を喪失しても、思考はネットを巡り、個を特定したまま、その存在を
維持し続けられると?
攻殻機動隊S.A.C. 第26話 “公安9課、再び STAND ALONE COMPLEX”

記憶には―それが個人の記憶であれ、文化という集団の記憶であれ―
二つの働きがあります。一つはある種のデータを保存する働き、もう一つは
(中略)無駄にかさばる情報を忘却の中に沈めこむという働きです。
同p.93
序文において、ジャン=フィリップ・ド・トナックが「文化とはすべてが
忘れ去られたのちになお残るものにほかならない」と述べているように、
常にある正義にフィルタリングされ、その正義すら忘れ去られた後で
発見されるものが文化になる。
本書では何回もこのフィルタリングの問題が取り上げられている。
我々は選択と単純化を繰り返しているのです。
同p.328

インターネットという大海に漕ぎ出すには一つの視点が必要である、
文化という仲介によらず自分自身の頭でフィルタリングしなければ
ならなくなった、グローバリゼーションがもたらしたのは共有経験の
細分化である、という話はとても興味深い。
出回っている情報の真偽が確かめにくくなり、近い将来我々自身が
情報提供者になると指摘したことは、既に世界各地で発生している。


結局、自分が電子書籍にはなく、紙の本にはあると思っているものが
何であり、それが何故なのかは未だによくわかっていない。
ただ、訳者あとがきにおいて、訳者の工藤妙子さんが、電子書籍を
生涯固有の肉体を持つことのない書物
同p.454
と表現していたのは参考になった。
人間の場合、人体というセンサなくしては意識が存在しないと思っているし、
仮に意識だけを別の回路に移せたとしても、センサ特性の違いがあるため、
元の意識と同一視できるかには疑問が残るとも思っている。
書物もまた、印刷された本という身体があることで、紙やインクの質感、重量感、
匂い、かたさ、等の特性により、その本たる有り様を獲得するのだという、
漠然とした期待が、紙の書物へと向かわせるのかもしれない。

ともかくも、
誰かに忘れられたくないと思うなら、書かなければなりません。
同p.335

本棚は、必ずしも読んだ本やいつか読むつもりの本を入れておくもの
ではありません。(中略)本棚に入れておくのは、読んでもいい本です。
あるいは、読んでもよかった本です。
同p.382
という巨匠の言葉を胸に、これからもまた紙の書物を買い、
こうして言葉を残していくのだろう。

2016-08-09

ホメオスタシス

「シン・ゴジラ」を観てから、Amazonでエヴァを観返している。

第15話で加持さんの「生きるってことは変わるってことさ」という
セリフに対し、赤木博士が「ホメオスタシスとトランジスタシスね」
と応える。

「今を維持しようとする力」と「変えようとする力」。

秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化
という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。

忘却や死は、固定化に対する最終防衛ラインだが、それを克服
しようという願望が生じるのは、獲得した秩序を維持したいという
欲求の故だろうか。
そういった矛盾性をはらむことで判断不能を回避するというのが、
生命の在り方なのかもしれない。

2016-08-08

高齢化

今日、イチローがMLBで3000本安打を達成した一方で、
天皇陛下のビデオメッセージが公開された。

天皇陛下のお言葉で、社会の高齢化とご自身の高齢化を
関連付けられていたのが印象的だった。

社会の高齢化においては、
 1.生産年齢人口を増やす
 2.生産年齢にあたる人間の負担を増やす
 3.負担を減らす
のいずれかを実行しない限り、破綻が生じる。
個人では1.や2.の選択肢は不可能なので、退位以外の選択肢は
必然的に3.になる。
しかし、天皇陛下としては、3.の先には象徴天皇でいられなくなる
未来が待っているというお気持ちのようだ。

社会における3.の選択肢は、例えば労働の機械化にあたる。
コンピュータの普及による記憶や思考のアウトソーシングもそうだ。
負担を減らしていったその先に、果たして人間がいるだろうか。
あるいは、人体はいたとしても、意識はあるだろうか。
人間あるいは意識がなかったとして、それは良いこととも悪いこととも、
現状では評価ができない。
評価は常に後からやってきてしたり顔をする。

ちょっと飛躍しすぎではあるが、天皇陛下のお言葉を聞いて
そんなことを考えた。
平成はあと何年続くだろうか。

ロゴ

約2ヶ月振りにロゴを変更。

以前のものと大本はほぼ同じだが、円環状に並べ、
最初と最後のAを重ねる。
ウロボロスである。
元々、最後のAは最初のAを指示しているのだから、
文意としても整合している。

ANATANOの7文字で正七角形になるので、
定幅図形であるルーローの七角形とした。
7は孤独である。
1/7を小数表示したときの循環部142857はダイヤル数だ。

最近、蔵書の目録を作っているのだが、蔵書印か蔵書票を
作ろうと先程思いついた。
このロゴは候補の一つになるかもしれない。

p.s.
そう言えば、イギリスの50ペンス硬貨がルーローの七角形だけど、
どんな経緯で決まったのだろう。

2016-08-07

社会らしさ

広島平和記念公園の『ポケモンGO』スポット削除で「平和」とは何か考えさせられた


平和が「たった一つの正義を通すこと」になってしまうことの先には、
いつか意識が不要な世界が待っている。
augmentされた現実、あるいはvirtualな現実までいかなくても、
人それぞれが意識をもち、少しずつ異なる現実を生きている限り、
唯一の正義というものは成立し得ないはずだ。
それは、「社会心理学講義」の中で、
犯罪と創造は多様性の同義語であり、一枚の硬貨の表裏のようなものです。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.269

犯罪のない社会とは理想郷どころか、(中略)人間の精神が完全に圧殺される
世界に他ならない。
同p.270
と書かれていた問題だ。
しかし同時に、
正しい答えが一つしかないと信じるからこそ、(中略)安定した規範が
生まれるのです。
同p.236
ともあり、集団は真理抜きには成立し得ないことも確かだ。

社会のコンセンサスとしての真理あるいは正義の卓越により
多様性が失われる様は、無意識的な動きの意識的な抑制が
人間らしさにつながることと、どこか似ている。
人間が構成する社会にもまた、社会らしさというものがあるはずだ。
それは、人間らしさとのアナロジーで言えば、多数の意識が
各々のコンセンサスに従って振る舞いつつ、社会全体のコンセンサスが
その行動を適度に抑制することによって得られるのだろう。

2016-08-06

人間らしさ

科学未来館で機械人間オルタの展示を見てきた。
期待したほどではなかったというのが正直なところだ。


人間らしさは、無意識と意識のどちらから生まれるか。
オルタの問題設定は、それが無意識なのではないかという考えに
あると思われる。
しかし、意識的な抑制を欠くその動きは、ひたすらに落ち着きがなく、
強いて言えば赤ん坊のそれに近い。ただ、赤ん坊でも外部情報を
受け取るセンサは備えているので、動きは必ずフィードバックの
影響を受ける。
オルタにはまるでそれが感じられない。たとえ視覚や聴覚のセンサを
積んでいたとしても、とてもそれを統合しているようには見えず、
現実を構成できていない。目を始め、あらゆる動きが虚ろなのだ。

意識的な動きだけでは、EX_MACHINAでアリシア・ヴィキャンデルや
ソノヤ・ミズノが演じた機械のようにしかならないし、無意識的な動き
だけでは、オルタのように落ち着きのないものにしかならない。
無意識的な動きの意識的な抑制が人間らしさの条件になると思う。
さらに、それがその場にいる感覚は、自分と同じ情報を受け取っている
という感覚に支えられる。これがない限り、たとえ物理的にその場にいて
人間らしい動きをしていても、別世界にいるようにしか見えないだろう。
幻覚を見ている人間のようであると言ってもよい。
少なくともこれら2点が改良されない限り、その場にいる人間らしさは
出ないように思う。


ついでに久々に常設展を見てきた。
今年の4月にリニューアルされたらしく、結構変わっていた。
小中学生へのアピールという側面が強いせいか、科学は判断のために
あるという感じが全面に出ていたように思う。理由付けの大本には判断が
あるので、それはそれでよいのだが、知識を得ることそれ自体の喜びという、
より贅沢な視点が控えめなのは、仕方がないだろうか。

帰りがけ、ゆりかもめで新橋に向かう途中、そう言えば海ほたるって近いんだっけ
と思ったが、全然遠かった。どうも、お台場と海ほたるのイメージが重なるのだが、
単にフジテレビの移転と海ほたるの竣工の時期が近いだけだったようだ。
そして新橋に近づき、新幹線や在来線が走る様子をゆりかもめから見下ろす。
どちらもシン・ゴジラを想起させ、何だか複雑な気分になった。

2016-08-05

知の編集工学

松岡正剛の「知の編集工学」を読んだ。松岡さんの書き物としては、千夜千冊をよく読むのだが、いつもあの知識量の多さと広さに驚く。そして、自分が読んだ本が取り上げられていると、松岡さんの書評を読むのがちょっと楽しい。


意味付けや理由付けという抽象がまさに情報の編集であり、その圧縮過程によって生命や自己が特徴付けられているという点において、この本に書かれていることのほとんどに同意できる。

一点疑問があるとすれば、情報のルーツについてだ。
「情報」は生命とともに生まれ、「編集」は生命とともに開始した
からである。
松岡正剛「知の編集工学」 p.78
個人的には、情報とは情報科学的な定義における、取りうる状態の数と関連付けられた量であるから、それは生命とは無関係に、端的に存在すると思っている。そこには何の秩序も意味もない。後に原子や分子へと分節される情報は、ただ在ることができる。それを秩序あるものへと「編集」することが生命そのものであるから、引用文の後半には賛成できる。でもその後で、
つまり、生命はもともと情報のプログラムを“ネタ”にして形成されたのだ。このことが超重要である。先に生命があって、あとから情報が工夫されたのではない。先に情報があって、その情報の維持と保護のために、ちょっとあとから“生命という様式”が考案されたのだ。
同p.80
と書いているので、順序としては同意見だ。

記憶の問題については、
私たちは「記憶の構造に情報をあてはめている」のではなく、おそらく「編集の構造を情報によって記憶していく」のではないか
同p.95
と書いている。これは、野矢先生的に言えば、自分の生きている物語を情報によって随時修正している、というようなイメージだろうか。編集によって抽象されたもの自体を記憶するのではなく、編集=抽象の繰り返しによって、その仕方を記憶している、という捉え方は、神経系の構造ともマッチするように思う。つまり、神経系では回路の接続は、その回路の使用頻度によって強化されるようだが、この回路のパターンの強化のされ方が、個々の事象ではなく、情報の処理方法と対応している方が自然だと考えられる。

第五章2節「物語の秘密」で展開される物語論が興味深い。ここで〈マザー〉と呼ばれている物語の原型は、理由付けにおける抽象パターンの原型であり、これが意識を意識たらしめていると思われる。さらに、
見落としてはならないのは、〈マザー〉から言語体系や国語がつくられていったということだ。
同p.255
として、例えば「平家物語」が語られていく中で日本語というシステムができあがっていったと書いている。理由付けの抽象パターンから言語のあり方が決まるのだとすれば、言語により意識が作られるのではなく、むしろ意識が言語を支えているということになるだろうか。

確かに、言語により思考することで意識は支えられているのだが、では何故言語が生まれたのかというと、それは理由付けという投機的短絡による秩序の生成自体に見出された秩序=〈マザー〉が大本であり、理由付けのウロボロスは意識となった後で、自身を表現するために言語を生み出し、言語を用いて自身を表現することを通して、さらに自身を強化してきた、ということになる。

第五章3節では、フレーゲや西田幾多郎を取り上げ、編集の述語性を強調している。
これは、「特殊」としての主語にたいして、述語が「一般」であることを強調したものである。そのため、人間の知識は、この「一般」の無限の層の重ね合わせとして理解されるしかないのだととらえられた。
同p.278
これは帰納と演繹の違いとして捉えてしまってよいのだろうか。意味付けにしろ理由付けにしろ、外部からの情報を抽象することは帰納による一般化であり、それを基に判断することは演繹による特殊化である。西田哲学が、
「意識の範疇は述語性にある」というとびぬけてすばらしい結論を出したのだ。
同p.278
とすれば、意識の本質は情報を抽象することにあるのだと理解できる。その後にどういう判断を下すかも、当然この抽象=帰納過程の影響を受けるので、全く不要ということではないのだろうが、どちらかというと情報を受けとり、抽象する段階の方がセンサ特性の影響を大きく受けるはずなので、イメージは共有できる。

第六章2節に出てくる7つの問題、
(1)自然「なぜ、自然は階層をもつように見えるのか」
(2)生命「なぜ、いつから、生命は相互作用の中に入ったのか」
(3)人間「なぜ、人間は自己を知ったのか」
(4)社会「なぜ、社会は組織を必要としたのか」
(5)歴史「なぜ、歴史は混乱を好むのか」
(6)文化「なぜ、文化は固有の言語を保持しようとするのか」
(7)機械「なぜ、機械は自立的にふるまおうとするのか」
同p.313
は常に考えていることと大部分が共通する。

(4)について、
そもそも組織とは「情報編集システムを体制化したもの」であるからだ。
p.317
としているのは、
集団を抜きに真理が存在しないのと同程度に、真理の共有なしには集団は存続できない。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
という意味において、真理とはすなわち情報編集システムのことだと解釈できる。

(5)について、
それは、結局のところ国家や民族や企業が、なぜ自己編集性を完結できないのかということにかかわっている。ようするに内部に矛盾が生じ、それが外部に流出したときに、執拗な交換を要求するために、そこに経済混乱と戦争混乱がおこるのだ。
同p.318
と書いているのを読んで、ゲーデルの不完全性定理が思い出された。
第1不完全性定理
 自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、
 証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理
 自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、
 自身の無矛盾性を証明できない。
Wikipedia “ゲーデルの不完全性定理
意味付けや理由付けによる体系を「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論」と呼べるのかはわからないが、もしそうだとすれば、無矛盾性により判断不能な命題が存在してしまうことは、厄介な問題になるはずだ。これを回避するために、矛盾性をはらむことを許容しているという可能性はあるだろうか。

(7)について、
それは人間が何かを節約したかったからだった。しかし、その節約をしたぶん、じつは機械が何かを過剰にためていく。ではいったい、そのことが私たちの望んだ編集性なのかどうか、ということだ。
同p.321
というのは、これから先の意識のあり方を自問することの必要性を説くものとして、意識の存続にとって非常にクリティカルだと思う。

2016-08-04

シン・ゴジラ

「シン・ゴジラ」を観た。
今日、改めてもう一度、震災後を生きた気がする。

途中、何度も泣いてしまうのだが、理由が言葉にならない。
悲しみ、怒り、焦り、無力感、悔しさ、やり切れなさ、畏敬の念。
津波が土手を越え、車を飲み込む。
原子炉建屋にヘリコプターから水を落とす。
コンクリートポンプ車による放水。
復興に携わる自衛隊やボランティアの方々の姿。
政治家や官僚が未曾有の事態に対応する姿。
そういった、東日本大震災の津波や原発、記者会見の映像、
あるいは震災1ヶ月後に目の当たりにした釜石の風景から
感じ取ったあらゆる感情が短時間の間にこみ上げてくる。
この感情を受け止めるために、泣かざるを得ない。

本来、第四の壁越しに見ることは、私からの乖離と、第四の壁の
向こうへの感情移入を促すことで感情を動かす。
ところが、震災のことをテレビやネットで第四の壁越しに見て
いたために、スクリーン越しであることが、かえって自分自身で
あることを強化する。
それによって人は、各々の物語によって泣く。
この手法をノンフィクションと呼ぶのであれば、「シン・ゴジラ」が
私に提示したものはまさしくノンフィクションであった。

ゴジラは、象徴的には原子力発電そのものとして捉えられる。
牧の残した、私は好きにした君も好きにしろ、というメッセージは、
1950年代に進められた原子力発電政策の結果、現代では
それが一般的になり、恩恵をもたらすと同時に脅威にもなり得る
ものにまで成長したことと符合する。
しかし、それは単に原子力発電だけでなく、それをとりまく
社会、経済、文化等の諸々の巨大化及び脅威化も含めて
象徴しているはずだし、だからこそ、ゴジラのエネルギー源が
核廃棄物ではなく、水と空気だけで生きられるという事実や、
凍結はさせたものの、それが再び動き出した時には時間の猶予は
僅かしかなく、熱核攻撃による殲滅という未来が待っているという
エンディングが効いてくると思う。
原子力発電の問題と同様に、社会、経済、文化の肥大化の問題も、
今のやり方をやめればそのうち消えてなくなるようなものではなく、
少ない時間的猶予の中で、一度立ち止まってでも議論をした方が
よいのでは、ということだと受け取った。

かたや死をもたらす官僚体制として、かたや生を永らえさせる外交や人脈として
描かれる巨大なネットワークも、ヤシオリ作戦によって凍結された問題の一つだ。
生まれ変わりではなく、単一の個体での進化が可能になったゴジラは、
物理的な戦争から経済的あるいは情報的な戦争に移ることで、物理的な領地や
国民の拡大だけではないかたちで、さらなる巨大化を遂げてきた国家でもある。

演出手法の観点では、場面転換で望遠レンズのカットを連続して
入れたりする箇所等、エヴァっぽい雰囲気は確かに強いが、
それよりも印象に残ったのは、群衆のリアリティだ。
記号的な恐怖よりも、スマートフォンをいじる姿や、twitterやニコ動のような
演出の方が、恐怖への現代的な反応としてはリアリティが強い。
あるいはそれは、記号が変容しただけなのかもしれないが。

とにかく、世界で唯一原爆を落とされた敗戦国に生まれ、そこで教育を受け、
2011年3月以降をそこで生きた人間にとっては、あまりにもリアリティが
あり過ぎ、それがとても堪える内容ではある。
だが、これを劇場のスクリーンという巨大な第四の壁越しに見ることで、
自分自身の追体験という貴重な体験ができるという点で、この映画は最高であった。


2016-08-08 追記
この映画を観て流した涙は、5年前流れなかった涙の代わりなのかもしれない。
政府の対応にいらつき、ACジャパンのCMにうんざりし、ボランティアの活動に
感銘を受け、基礎構造だけが残る元市街地に呆然とする。
震災後は日本中がただただ落ち着きがなく、泣く暇もないままに1年、また1年と過ぎ、
もう5年半が経とうとしている。この5年半という時間を巻き戻し、2時間あまりで
急速に再生することで、もう一度落ち着いて泣く機会をもらったような感覚だ。
この感覚を共有できる人間は、理屈抜きに「シン・ゴジラ」を傑作だと
評価するだろうし、そうでなければ分析的に評価するか、いまいちだと
切り捨てるかだ。
その意味で、この映画が震災を同時代として経験しなかった世代や海外の人間にも
評価されるのかはよくわからない。初代ゴジラのように、分析的に語られることで
評価を受けられたとしても、それは2016年の夏に、震災の5年後として、震災を
リアルタイムに自国のものとして経験した人間として観ることとは、やはり別な
ものになってしまう気がしてならない。

2016-08-03

抽象

どこで読んだのか失念したが、
「抽象とは、異なる事柄に同じ名を与えることだ」
という意味の話を読んだ憶えがある。

それが、「」のタイトルの由来であり、
「象」の一番最初のページに記載している、
人間を特徴付ける最大の能力は抽象である。
という文言の由来だ。

抽象とは、構造を取り出すことである。
構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。
意味とは、認識された差異である。
認識とは、入力された情報を圧縮することである。
情報とは、とりうる状態のことである。
圧縮とは、距離空間における距離の短縮である。
意識とは、理由付けを備えた評価機関である。
たくさんの情報の中から共通事項を見出し、
意味付けや理由付けによって抽象することこそが
人間の特徴である、という捉え方である。

よく、具体的に言ってくれ、という場面があるが、
本来は抽象的に言ってくれた方がわかりやすいはずだ。
論文の頭に付けるabstractがその代表例である。
この点に理解が得られないとすれば、concreteの対義語を、
abstractではなくobscureかなんかだと思っているせいなのだろう。

2016-08-01

パートナー

先日のパートナーシップへの補足として。


デイヴィッド・ブルックスの「あなたの人生の科学」の「はじめに」において、
「ゲーデル、エッシャー、バッハ」を書いたダグラス・ホフスタッターと、
脳腫瘍で亡くなった彼の妻のエピソードが語られている。
気づくと私は、涙を流しながら「ここに私が!私がいる!」と声に出して
言っていた。(中略)もはや二人は一体で、不可分だった。(中略)
キャロルは死んでしまったけれど、彼女の核の部分はまだ死んでいないのだと
悟った。彼女の一部はすでに私の中にいて、確かにまだ生き続けていた。
D.ブルックス「あなたの人生の科学 上」p.24
コンセンサスに基づいて個人の意識ができるのであれば、二つ以上の
身体間でのコンセンサスによっても、ある種の意識と呼べるものができる
というのは特別神秘的な話ではない。
ただし、異なる身体間でのコンセンサスを得るための情報通信量は
膨大であろうから、長年連れ添った夫婦のような間でしか見られない
のも納得がいく。
阿吽の呼吸で言葉少なにコミュニケーションを取り合う老夫婦は、
そのような間柄にあるのだと想像する。

partnerはラテン語のpartitionem(partitioの対格、単数)、さらには、
partio(share,part; divide)やpars(part, piece)に由来するらしい。
上記のようにして得られたコンセンサスは、私でもなければあなたでも
ないものになる可能性があり、それはお互いがある全体のpart=一部を
なすものとして存在するという意味で、partnerという全体をかたちづくる。

文京区

結婚式の余興練習に使う場所を確保しに、江戸川橋へ。
ちょうど一年振りくらいだろうか。

地下鉄で飯田橋駅を通る度に、「バ」と発音する映像を見ながら
「ガ」の発音を聞くと、「ダ」に聞こえるというマガーク効果についての
テキストを、大学の英語の授業で読んだことを思い出す。
あれはもう十年以上前だ。

受付での対応はスムーズにいき、何とか部屋を確保できた。
公共施設の予約をする度に、合唱団の卒業公演の会場予約で、
同輩と二人でじゃんけんした日のことを思い出す。
あれはもう七、八年前になるだろうか。

江戸川橋から本郷まで、気が向いたので歩いてみる。
途中、印刷博物館や勉強会で使ったオフィスビルの前を通り、
それぞれ行ったのは三、四年前だったかな、と思い出す。

神田川沿いから春日通りに抜けて、後楽園のあたりへ。
礫川公園で写真を撮ったのは、もう何年前だったか憶えていない。
東京ドームを見れば、中学生の頃家族で来た巨人ー広島戦のことや、
三年前のポールのライブのことを思い出す。

そこから本郷までの途中には、学生時代に三年間バイトした個人塾があり、
合唱団の演奏会の打ち上げに使っていた、今はなき大栄館の跡地では
マンションの工事が進んでいる。


特に文京区には、個人的な記憶が埋まっている場所がたくさんある。
身体というデバイスを介して、他の人には見えないものが見えるという
意味では、これもまた一種のAugmented Realityである。