2017-03-31

prime friday

たぶん次は2029年02月23日ですね。
結構遠い…
そのときまでPremium Fridayは続いてるだろうか。
いやむしろ12年後にはそろそろベーシックインカムの
議論がちゃんと進んでてくれてもいい気がする。
意識が保てる程度には人間に労働を残しつつ、
機械への委譲が進んでないかなー。
進んでないだろうなー。

塗り絵

deep-photo-styletransferがすごい。
arXivに論文も上がっている。

ある写真のスタイルを別の写真に転送する作業を、
深層学習によって実現しているらしい。
少し前に、ゴッホ風やピカソ風といった絵画のスタイルを
画像に適用したり、音楽のスタイルを別の音源に適用したり
するプログラムがあったが、技術的なハードルはあるにせよ、
本質的には同じ課題だと言える。

要するに、これらは高度な塗り絵だ。
塗り絵というのは、人間が視覚経験を基に深層学習した
スタイルを、色鉛筆を用いて線画に適用する行為である。

スタイルのような、言語による抽象が難しい対象を、言語を
経由しないことで抽象化し、足し引きできるようになるのは
とても興味深いし、何よりサンプルを見ていて楽しい。
言語によらない抽象過程として、通信に用いるレベルまで
一般化できるだろうか。
そうなれば、岩みたいな音楽とか、ビートルズ風の触り心地
みたいなものも体験できるようになるだろう。

役に立つか?

人文学は何の役に立つのか?」という記事を読む。

研究や学問というのは、観察から生じた問いに対して
その理由となる仮説を立て、観察との整合性を検証する
ことによって理由の妥当性を確認する一連の過程である。

もし観察が完全に一人の人間にしか関わらないのであれば、
その理由を共有することもないだろうが、ほとんどの場合、
観察は複数の人間が関わるので、論文等の形式でその理由を
共有することに意義が生じる。
ある観察のどこに疑問をもち、それにどのような理由を当て
はめ得るかという情報を共有することで、ある集団に所属する
人間が共通の物語を生きる可能性が生じる。
それが、「役に立つ」ということなのではないかと思う。

問いあるいは理由のいずれかが受け入れられないからといって
「役に立たない」ことにはならないし、それと同じくらい確かに、
「役に立つ」か否かが研究や学問に全く無関係ではいられない。
問いや理由が他人と共有し得ないと予断するなんて、あまりに
悲観的すぎるように思う。

どこで読んだのか失念したが、研究者には「何の役に立つのか」
と聞くのではなく、「どこが面白いのか」を聞くとよいという
話を思い出す。
研究者はもっと、どこに疑問をもって、どんな理由を発想したか
ということを、嬉々として話せばよいのだと思う。
そして、聞く側も同じように問えるようであって欲しいし、
そうありたいと思う。

そこからまた、次の「役に立つ」ことが生まれるはずだ。

FPS映画

「ハードコア」という一人称視点で撮られた映画が
面白そうである。
革命的一人称視点映画『ハードコア』のイリヤ・ナイシュラー監督にインタビュー

トレーラーを見て感じたのは、感情移入の逆と言うべきか、
肉体侵入とでも呼ぶべきような、物理的身体が押し付け
られる感覚だ。
たぶん、攻殻機動隊のVRで、視点の強制移動が生じたときに
感じたのと同じ感覚である。
An At a NOA 2016-07-14 “攻殻VR

FPSゲームでは自ら操作するので、究極的に新しい物理的身体を
獲得することはあっても、押し付けられる感覚とは異なる。
新しい物理的身体を獲得することで、ユーザはキャラクタへと
変貌するが、いつまでShootingを続けられるだろうか。
ユーザは、ユーザではなくゲーム内のキャラクタになってしまうことで、
ためらいが生まれ得ると思う。
An At a NOA 2016-07-30 “FPS
映画の場合、物理的身体が押し付けられるために、ためらいが
生じるか否かに関わらず、心理的身体は強制的にShootingに
付き合わされる。
この手の映像体験が高精度化すると、耐えられない人間も
出てくる可能性はあると思われる。

疑問なのは、これを映画館で観る意味があるのかということだ。
物理的身体の押し付けという意味では、各人が元々もっている
物理的身体への入力はノイズになるので、極力排除した方が
この映画の特徴が際立つように思う。
あるいは、90分間の押し付けに耐えられなくなったときの退避
場所になるという意味では、そういったノイズが命綱になるの
かもしれない。

2017-03-29

GA JAPAN 145

GA JAPAN 145は「建築にまつわる本の話」という
特集だった。

今でこそ月に4〜5冊読むようになったが、生まれてから
一昨年くらいまでは読書というものをあまり多くはして
こなかった。
大学入試では国語が最後まで足を引っ張ったのだが、
慣れていないのだから当然である。

少し前に蔵書の数を数えたところ、800冊くらいだった。
そのうちの55%くらいは就職してから買ったもので、
35%くらいはこの1年半で買ったものだ。
部屋もそんなに広くないのでスペースの心配は尽きないが、
読書はやはり抽象化せずに愉しみたい。

最初に読んだ建築の本も覚えていないし、影響を受けた本
というのも、パッと思いつかないということは、これという
ものがないのだろう。
それは読書から影響を受けていないというわけではなく、
何かをしている最中に大きく揺さぶられるというよりは、
後から少しずつ感化されていくという形式で影響を受ける
人間なんだろうと思っている。

大学を出てからは、趣味で読むのは建築以外の本がほとんどだ。
だけど、考え事のほとんどすべてがつなげられるというのが、
建築のいいところだと感じている。
人間とは何か、社会とは何か、災害とは何か、住まうとは何か、
構造とは何か、作るとは何か、あるいはこれらは何であるべきか。
そういうことに絡めながら読書をしていると、意匠設計者が
どういう問いを発しようとしているのかがそれとなく共有できる。

いつまでもそういうようでありたい。

2017-03-26

楽園追放

Amazonプライムビデオにきていたので「楽園追放」を観た。

固有の肉体をもつディンゴ、遺伝情報から肉体を生成できる
アンジェラ、機械の身体をもつフロンティアセッター。
肉体という物理的身体の在り方が人間であることにどんな
意味をもつのかという問題提起はとてもよいと思う。

ディーヴァのリソースが有限であることから、より多くの
リソースを確保するためにアンジェラが手柄を立てるのに
必死になると描かれるが、本当はリソースが無限だとしても、
固有の肉体というハードウェアに頼れなくなった心理的身体は、
自身を維持するために何かに囚われる必要があるのかもしれない。
それは、労働がいつか物理的身体の維持から心理的身体の維持へと、
その主たる役目を変えていくだろうという話にも通ずる。

アンジェラは肉体を檻と表現し、ディンゴはディーヴァの社会を
檻と言うが、意識そのものがその存続のために檻を必要とする。
意識という発散の権化を雲散霧消させないための、固定化の
象徴としての檻。
楽園という檻を追放された意識は、新たな檻に囚われるか、
自らの存続をあきらめるか、いずれかを選択しなければならない。
自由はこうした檻の上に築かれるものである。
フロンティアセッターもまた、実装した意識を維持するために、
檻から檻へと渡り歩いていくのだろう。

肉体にフォーカスしているだけあって、人体も機械もよく動いている。
個人的にはディンゴとフロンティアセッターの会話がとても好きだ。
「なあ、あんたにとってさ、好きってどんな感覚なわけ?」
「回線に負荷をかけるノイズでありながら、同時にプロセッサの
 処理能力を活性化する現象、と定義できます」
「現在、必要以上に発揮されている演算のパフォーマンスは
 面白い、と定義できます」
このシーンの後で、フロンティアセッターがオリジナルアレンジの音楽を
流すが、 その手のことはもはやできるようになった。
人間が肉体以外の楽園へと移動できる日も、いつかやってくるだろうか。

人はなぜ物語を求めるのか

千野帽子「人はなぜ物語を求めるのか」を読んだ。

自分と似たような意見が書かれた本を読むことによって得られる知見はそれほど多くない。だが、「寒いね」という言葉に対して「寒いね」と答える会話と同じように、通信可能な状態にあることや、同じ情報を同じかたちで抽象していることを確認するコミュニケーションは心地よさをもたらす。これもまた、著者の言う「感情のホメオスタシス」だろう。そのようなコミュニケーションの究極に、あらゆる領域でコンセンサスがとれた状態としてのエクスタシーがあるのだろうか。

ところどころで、この本の内容自体が物語であることについての言及は出てきたが、「なぜ物語を求めるのか」を主題にするのであれば、もっと主題として取り上げてもよいのではないかと思ってしまう。そもそも、論旨としては
人間は物語を聞く・読む以上に、ストーリーを自分で不可避的に合成してしまう。
千野帽子「人はなぜ物語を求めるのか」p.219
ということがメインなので、書名のなぜに対する直接的な答えにはなっていない。だからこそ「物語を求めるという物語」を求めていることについての言及がなかったのかもしれない。

意味付けが光エネルギーや空気の振動エネルギーによって概念を形成するのに対し、理由付けは理由をエネルギーにして概念を形成する。いずれも概念を抽象することを目標としていると言えるので、概念を意味と言い換えれば、理由ではなく意味を欲しているという主張にも納得がいく。概念という意味を形成しエントロピーを減らし続けるためにも、人間は理由という物語を求め続けなくてはならない。

2017-03-24

KAJALLA#2裸の王様

KAJALLA#2裸の王様を観てきた。

アンリ・ベルクソン「笑い」にも書かれていたように、
可笑しさによる笑いというのは、共通の基盤があることで
成立する。
孤立した状態では感じられず、文化、常識、習慣、言語等の
基準を共有する受け手の間での共通認識として生じ、反響
しながら広がる
An At a NOA 2016-11-25 “笑い
日本語という言語、日本のお菓子、日本の企業文化、
あるいは昔のラーメンズネタ、などなど。
お客さんとして迎える人間と、どのような事柄を文化や
常識として共有できるかということに非常に気が配られて
いるような気がして、それが伝わってくるのがとても嬉しい。

それは、ある意味では内輪ネタなのかもしれない。
だけど、上記のような可笑しさによる笑いの性質を考えれば、
舞台と客席をこちらとあちらに分けて、こちらがあちらを
笑わせるというよりは、あちらをこちらに巻き込むことで
笑いを引き起こすというのが本来的なのだと思う。

そういう、内輪を拡げる笑いというのを、漫才ではなく
コントというかたちで、しかも第四の壁を破ることをせずに
やってみせるあたりに、小林賢太郎はやっぱりさすがだなと
いうことを感じる。

要するに、めちゃくちゃ面白かった。

2017-03-22

物語を求めるという物語

この本が気になったので書籍部で見てきた。

結構面白そうなのだが、ざっと見た感じ、「『人は物語を求める』
という物語」を提示しているというメタ的な点に触れる記述が
無さそうだった気がする。
そして、“理由の生成”で書いたことにもつながるのだが、
投機性の傾向が近い、つまり自分と他人の考え方が近いほど、
新しく生成される理由は少なくなる傾向にあるので、読まなくて
いいかなとなってしまう。

著者の名前だけ記憶しておこう。

理由の生成

昨日の夜、明かりを落として横になった後に、
いくつか頭に浮かぶことがあったのだけど、
「なるほどそういうことか」という感覚と、
他人への依存なしでは人間ではいられない
というメモだけが残っていた。
その前段にいろいろあったような気がするのだけど、
これだけメモして寝たらしい。

意識の意味での境界内では、投機的短絡により形成される
概念の投機性がエントロピー低下の度合いを決める。
しかし、投機性ゆえにその維持には理由が必要になり、
供給されなければ消えてしまう。
境界内での通信では投機性の傾向が近く、この過程が早期に
収束してしまうが、通信が境界外まで及ぶときには異なる
投機性に触れることで発散や振動する可能性がある。

他人という感覚は、通信における投機性の概念化が維持
されることから生まれると言えるだろうか。
境界外にみられる投機性のずれは問いとなり、摂取可能な
理由を生み出し続ける。
理由によって投機性が概念化され続ける様は、コンセンサスを
とる過程であり、これが人間でいるために他人に依存する
ということだろうか。

完全に一致した投機性を示す投機的短絡を生じる回路は、
半ば自分として感じられるだろう。
老夫婦の話はそれに近く、多くのディストピアはこの状態
への大規模な収束として描かれる。

そこに問いはないのかもしれない。
問いがなければ理由も生成されない。
理由を摂取できない人間は意識の意味で死を開始する。

灰色の境界

境界を挟んでエントロピー勾配がある場合において、
エントロピーが小さい方を生きている、大きい方を
生きていないと定義したとする。

エントロピーの取り方によって生きている者と生きて
いない物の範囲は変わるが、何らかの意味で生きている
者は、エネルギーを摂取することでエントロピーが低い
状態を維持する必要がある。
エネルギーのほとんどは熱エネルギーのような程度の低い
形態で排出されるが、重要なのは摂取するエネルギーと
排出するエネルギーのエントロピー差分を確保することに
あるので、エネルギー自体は境界の生きている側に留める
必要がない。

エネルギーの摂取をやめたとき、生きている者と生きていない
物の区別は解消し始める。
これが死と呼ばれる過程であるが、時間幅のない現象として
死を定義するために、エネルギーの摂取が不可能になった時点を
便宜的に死と呼ぶものとする。

理由をエネルギー、概念をエントロピーとした場合、生きている
者は意識と呼ばれる。
概念を形成する過程は抽象と呼ばれ、抽象することによって
エントロピーが低下するが、そのために理由が必要とされる。
電気エネルギーの生成過程が発電、光エネルギーの生成過程が
発光と呼ばれるように、理由の生成過程は発理と呼べそうなもの
だが、歴史的経緯によって問いと呼ばれている。
理由は排出されると理屈と呼ばれるようになり、再利用する
ためには再び問いにかけるしかない。
理由を求めなくなったものは原義的な意味で死を開始するが、
死んだと呼ばれるのはもっとずっと後、それが不可能になったと
みなされた時点である。

かつて、意識の意味で生きている者は、動物の意味で生きている者の
うちの特定の種としか共存していなかったが、膨大な量の理由を
もって意識が自らの概念を確立したとみなしたとき、その束縛は
解除された。
そして同時に、すべての意識は意識の意味での緩やかな死を開始した。

境界は常に脆く不安定で曖昧である。
維持するための不断のエネルギー摂取が不可能になったとき、
その灰色の境界は崩壊する。
そしてまた新しいエネルギーとエントロピーの組が生まれ、
何らかの意味で生きている者と生きていない物のモノ語が
始まるのである。

--
という小説のプロットを思いついた。
しかし、そのモノ語を語り得るのは、何の意味で生きている者
なのだろうか。

2017-03-18

文化進化論

アレックス・メスーディ「文化進化論」を読んだ。

全体的に興味深い話が多いのだが、どことなく
誇張気味に感じるのは気のせいだろうか。
見られる対象の性質だけに焦点を当てて、
そこにある正しい構造が見い出せるはずだという
前提の下に議論を進めるのは、よく言えば楽観的、
悪く言えば少し脳天気なようにも見えてしまう。

生物学的進化と同じように、文化進化という概念を
中心に社会科学の諸領域が統合できるという発想は
とてもよいと思うし、その方向に研究が進んでいく
のも楽しみである。
しかし、それは
文化とは、模倣、教育、言語、といった社会的な
伝達機構を介して他者から習得する情報である
アレックス・メスーディ「文化進化論」p.13
として定義される文化が、生物と同じように進化論によって
整理できる可能性を示していると同時に、進化論という人間の
抽象の傾向を示しているだけなのかもしれない。
三中信宏やエリオット・ソーバーはこのことに自覚的である
ように思うが、アレックス・メスーディはどうだろうか。
人間の用いる抽象過程自体もまた文化の一部であるから、
それに対する配慮なしに文化進化という話をすることは
できないように思う。

文化進化というリサーチ・プログラムで整理する際に
最も気にかかるのは、生物学的進化と文化進化における
「個体」は同一とできるのか、である。
生物学的進化は物理的身体の発展に関わっており、
文化進化は心理的身体の発展に関わっている。
生物学的進化が肉体を境界として個体を設定するのは
自然だと思うが、文化進化が同様に肉体を個体の基準に
採用する根拠は何なのだろうか。
「模倣、教育、言語、といった社会的な伝達機構」が
心理的身体のセックスと呼べるのであれば、こういった
コミュニケーションが生じるとともに目まぐるしく世代
交代する過程として文化進化を描き出すことも可能であり、
それによって本書で指摘されているような生物学的進化と
文化進化の違いのいくつかは解消されるようにも思われる。

第3章「文化の小進化」で、模倣の誤りが遺伝子の突然変異
と比較されている。
複製技術の進化によって、模倣の誤りの程度は少しずつ
減少傾向にあると予想されるが、完全な複製技術は文化進化の
遅延をもたらすだろうか。
複製技術の発展は、ベンヤミンが指摘したアウラの問題とは
別の問題もはらんでいるのかもしれない。

第5章「文化の大進化Ⅱ」において、文化という複雑な対象を
単純なモデルでは理解できないという批判への反論は、
「単純な思考装置は、物事を単純に考えようとは思わない、
ということですね」
森博嗣「私たちは生きているのか?」p.194
という指摘を彷彿させる。
人間の複雑さと抽象能力の高さは表裏一体であり、文化が
複雑だからこそ文化進化論のような抽象過程に行き着く
というのはとても面白い。

第6章の実験はどれも興味深いが、特に言語学の実験が好きだ。
人から人への伝達によって言語が構造を獲得するプロセスは、
第7章で示される、コミュニケーションによって科学が客観性を
獲得するプロセスに通ずるところがある。
個体内での通信では構造が発生せず、個体間での通信によって
のみ構造が発生するとしたら、どこに違いがあるのだろうか。
通信が不完全であることに鍵があるだろうか。

第9章で取り上げられる、人間と人間以外の動物の文化進化の
違いについて、人間が模倣に対する衝動を有するのに対し、
人間以外の動物が固執する傾向にあると指摘されているのは、
投機的短絡の話に相当する。
犯罪や創造という投機的短絡による発散の傾向が強いことが
人間を人間たらしめている。
その強い投機的短絡がある中でコミュニケーションをとるために、
充足理由律が発生したということはあり得るだろうか。

人間以外の動物だけでなく植物も含めてよいはずなのだが、
植物の文化進化という話は出てこない。
さすがに胡散臭く聞こえるのは確かだが、それは何故だろうか。
固定化と発散のバランスにおいて、人間の観察する時間スケールで
固定化によっている場合は生物学的進化、発散によっている
場合は文化進化として把握されるために、植物には生物学的進化
しか想定されないのだろうか。
そうだとすれば、やはり進化論という抽象過程が人間の抽象に関する
特性を反映したものだと言えるような気がしてしまう。

抽象によって秩序が形成されること自体が生命的であるから、
人間を特徴づける抽象過程の特性にはとても興味がある。
文化進化論自体も面白いが、それにも増して面白いのは、
文化進化論自体が文化進化論の対象になることであるのは確かだ。

2017-03-16

進化論の射程

エリオット・ソーバー「進化論の射程」を読んだ。

進化論を議論の中心においており、生物学の例も
多く出てくるが、この本で取り上げられているのは、
むしろ人間の思考様式に関する問いだと言える。

生物学的と物理学的、科学的と非科学的、最節約的と
全体類似度、系統推定と分類等、いろいろな思考様式が
比較して取り上げられ、議論となり得る点が指摘される。
本書ではどちらかというと見る側の人間よりも見られる側に
重点をおいて議論が展開されるが、三中信宏が「分類思考の世界」
で述べた、「種」は「分類される物」の側ではなく、「分類する者」
の側にある、という考え方も含まれているように思う。

思考様式は一つの抽象過程であり、何を構造とするかについての
判断基準の違いによって差が生まれるが、その違いは理由の含み方
にあるのではないかと思う。
抽象される対象の中にもある程度の構造はあるかもしれないが、
抽象結果は抽象する側の理由の設定の仕方にも依存する。
理由それ自体について、ソーバーがどのように捉えているのか
については聞いてみたかった。

理由を伴う心理的身体の情報処理には、物理的身体の情報
処理が先行するため、心理的身体の特性は物理的身体の特性の
影響を被ることから、抽象される側に予め含まれる構造というのは、
物理的身体のセンサ特性を反映したものである可能性もあると思う。
カントの言うアプリオリも同じことだろうか。

理由を中心に考えたとき、真理や真実が存在するかという問いは、
究極的に「正しい」理由が存在するかという問いと同じになる。
果たしてそんなことはあるのだろうか。
そもそも、充足理由律すら疑い得るはずだが、あるいはそれは
心理的身体が要請するのかもしれない。

意識という心理的身体によって理由を設定することができ、
それは物理的身体が行う特徴抽出のような理由抜きの最適化とは
異なる種類の抽象過程を可能にする。
それによって排中律も無矛盾律も破ることができるのが、
意識の利点にも欠点にもなり得る。
第7章で展開される生物学的進化と文化進化の話はまさにここに
関わっている。
すなわち自然選択によって、自然選択のくびきを離れた
独立の選択過程が生み出されたのである。
エリオット・ソーバー「進化論の射程」p.423
これについては、アレックス・メスーディ 「文化進化論」も読んでみたい。

人間は意識を実装することで、無意識のみによってはいずれ
淘汰によって排除されてしまう不安定な判断基準を保持できる
ようになったが、果たして人間のままでいて人間を把握することは
どの程度まで可能なのだろうか。

2017-03-15

せめて、人間らしく

昨日のシンポジウムのトークセッションの最後は
人材育成の話に至り、シンポジウムの中で一番
盛り上がっていたように思う。
文科省主導のプロジェクトなのだからもっと教育の
話をすればよいのにと思ったのだが、時間の関係も
あり、盛り上がり始めたところで終わってしまった。

与えられた抽象方法を遂行するのは得意な一方で、
どのような構造を抽象すると面白い結果になるかを
発想するのが不得意な人材が多いという嘆きに対し、
前者は人工知能で置換可能だから、人間は後者の
能力を伸ばす必要があると指摘するところまで含めて、
よくある話に落ち着いた感はある。
「教わったことを他の方法でもやってみる」ことが
できる雰囲気を醸成するように方針転換したとして、
結果が出るのは果たして何十年後のことになるのだろうか。

村社会である日本はそもそも固定度が高いのに加え、近代以降、
企業や国家という大規模な集団をつくるために固定化はさらに
進められてきたように思う。
そういう固定度の高い社会に、人工知能に基づく抽象過程を
固定度が高いままに導入できるのかはかなり疑問だ。
固定化と発散のバランスを上手く調整しないと、集団の瓦解と
ディストピアのいずれかを選択しなければならないときが来る
ことも、ないとも言い切れない。

人間が発散を担当し、人工知能が固定化を担当するというのも、
それはそれでディストピア感があるのかもしれないが、
両者がともに固定化に舵を切った場合や、役割が逆転した場合に
比べれば、よっぽど人間が人間らしくある集団になる気がする。

2017-03-14

都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化

「都市の脆弱性が引き起こす激甚災害の軽減化プロジェクト」の
最終成果報告会に行ってきた。

理学、工学、社会科学の三分野が連携ということだったが、
それぞれのプレゼンを聞いている限り、割と個々の問題に
取り組んでいる様子に感じられた。
  • 理学は地震という入力情報のモデル化
  • 工学はハードウェア応答のモデル化
  • 社会科学はソフトウェア応答の整理
というところだ。

ハードウェアとソフトウェアの違いは、何で実装されるか
ではなく、どのように実装されるかであり、端的に言えば
抽象過程の固定度の差である。
自然科学が抽象過程を固定化したものと仮定できる対象を
主に扱うのに対し、社会科学は抽象過程の基準が変動する
対象、つまり人間の意識が関わるものを主に扱う。
そこに社会科学特有の問題があるように思われるのだが、
人間の意識が研究という理由付けを遂行するにあたって、
意識が理由付けすることそのものが難しさを生んでいる
というのは面白いと思う。

途中、E-ディフェンスは科学かという話も上がったが、
実験というエミュレーションを抽象することで、
解析というシミュレーションによってモデルを立ち上げ、
予測をするという意味では科学だと言えるだろう。
科学とは、真理の仮定に基づいて終わりなき理由の連鎖を
つむぐ行為である。

シンポジウムの後半ではビックデータや人工知能の話も
取り上げられたが、そういった技術によって判断機構を
作り上げるのもある程度必要なことだと思われる。
問題は、それが下した判断に果たして人間は従えるのか
というところだと思う。
理由なき判断機構は科学的ではなく、宗教や科学という
かたちで常に理由を必要としてきた人間にはマッチしない
ように思われる。
あるいは人間を従わせるためだけに、理由を付けるという
段階が挿入されるのかもしれない。

災害とは、社会現象化した自然現象である、という視点は、
伊藤毅「危機と都市」で指摘されたことにも通ずる。
そこに人の意識が介在することで、元々理屈を免れていた
自然現象は、理由を帯びた社会現象となる。
その社会現象から理由を漂白し、再び自然現象に戻すことで
災害が解消するというストーリィにもある種のSF的な面白さは
あるのだが、やはり人間としては科学という理由付けによって
克服する道を行きたいように思われる。
これもまた意識のエゴイズムだろうか。

2017-03-13

可逆圧縮

抽象された部分から全体が再構成できないのは、
部分化する際に失われる情報があるためである。
これはエントロピー増大に対応する。

情報を失わないように、つまり可逆なかたちで
圧縮を行えばエントロピーを増大させずに
抽象することも可能かもしれないが、可逆圧縮
による抽象には何か利点があるだろうか。

抽象というのは、むしろどれだけ多くの情報を
不要なものとして削ぎ落とせるかによって、
利点が大きくなるように思われる。

FLAC等、データを可逆圧縮する形式はあるが、
圧縮されたファイル単体では可逆ではなく、
そのファイルがFLACでエンコードされていることや、
FLACのデコード方法についての情報を組み合わせる
ことで可逆な圧縮伸長過程となる。
だからこそデータサイズが小さくなるのだ。

そういう意味では、抽象過程を分離することで、
情報の削ぎ落としと可逆性を両立することは
可能かもしれない。
ただ、その可逆性によって、常になかったことになる
可能性を帯びた抽象の結果としての過去=記憶は、
何を意味することになるだろうか。

その世界ではタイムマシンも可能になるだろうが、
そもそもその世界において、時間が媒介変数としての
役割以外を果たすことがあるだろうか。

ジョギング

抽象過程の外部化が進むことで、物理的身体にとっての
運動がオプショナルなものとなったのと同じように、
心理的身体にとっての思索も次第にオプショナルになっていく。
抽象過程の外部化とは、端的には機械化のことだと言えるが、
近代がとった専門化という戦略もその一種である。

運動を必要としなくなった現代人が、物理的身体を維持する
ためにジョギングをするように、思索を必要としなくなった
未来人は労働の形態を変化させることで心理的身体の維持を
試みるだろうか。

意識の実装

物理的身体に入力される情報の種類と量が、
試行回数に比べて多くなった結果、情報間の
コンセンサスを従来の方式で成立させるのが
難しくなり、投機的短絡としての意識を実装
した集団が自然淘汰されたという可能性は
あり得る。

意識というのは、人間の脳の性能の高さを表す
というより、物理的身体の多くの機能を統合して
利用するにはあまりにも性能が低かった無意識
というプログラムへのパッチなのかもしれない。

2017-03-11

石巻

今日は石巻へ行ってきた。

設計に関わった物件が竣工して約1年になるが、
ちゃんと使われているようで安心する。
ちょうど明日で震災から丸6年になるので、
法要の準備をしている方にもお会いした。

近くにある情報交流館では、小学生が避難訓練に
併せて震災の学習をしていた。
低学年の子はちょうど震災の頃に生まれたはずだ。

夕方、震災前から建っている古い木造住宅をセルフ
ビルドで改装している現場に立ち寄ったとき、おなじみの
「新世界より」の第2楽章が流れる。
ドヴォルザークの感じた新世界。
貴志祐介やハクスリーが描いた新世界。
そのいずれとも違うが、震災後もまた一つの新世界である。
土地の嵩上げ、高台移転、堤防設置等、工事が進み、
以前とは少しずつ違ったかたちで景色が形成されていく。
同じ轍を踏んでもいけないし、過去と断絶するのも違う。
震災後の東北では4件ほど設計に関わったが、東北に
来るたびにその種の難しさを感じる。

p.s.
上野駅からの帰りに、そう言えばと思い立って
キャンパス内を通ると合格発表の掲示が残っていた。
もう12年も前のことである。

2017-03-10

一文字目

駅からの帰り道、ふと百人一首が頭をよぎり、上の句と下の句の
一文字目が同じ句について考えてみた。

家に着くまでの間に「みちのく」「ゆらのと」「あさぼらけう」
「よをこめて」の四首は思い至ったが、全部で七首あった。
陸奥のしのぶのぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに
有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし
浅茅生の小野の篠原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき
由良の門を渡る舟人かぢをたえ ゆくへも知らぬ恋の道かな
夜をこめて鳥の空音は謀るとも よに逢坂の関は許さじ
朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木
心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな

2017-03-09

抽象と具象の行き来

モデルの抽象度が高いほど、同定すべきパラメタの数は
減る傾向にあるので、モデルの把握は容易になる。
その反面、モデル=抽象と実物=具象の距離が広がるため、
抽象と具象の行き来は難しくなる。

前者よりも後者の影響が大きく感じられる場合には、
具象のままに把握する手間を取るしかない。
後者を諦めたまま、外部から与えられた抽象を利用する
ことで、利点だけを取ることも可能かもしれないが、
そこには多くの落とし穴がある。

抽象と具象の間は、常に自由に行き来できるようでありたい。

未来のイヴ

ヴィリエ・ド・リラダン「未来のイヴ」を読んだ。

ハダリーの物理的身体は個々の要素に解体された後、理屈によって再構成されることで複製される。「絞首台の黙示録」で描かれた、解体と再構成を経ない物理的身体の複製との違いが、近代科学の象徴としてのエディソンの描写を強化しているように思う。心理的身体が生じる過程についても、エディソンが「神經流體」という理屈を付けようとするのに対し、アリシヤとなったハダリーはただエワルドが見る幻だとということを、理屈抜きにやってみせた。そういった自然と人工、本能と理性、現実と理想の対比について、思索としても描写としても優れた作品になっている。
あらゆる人間はそれと知らずにプロメテウスといふ名を持ってゐるのです
ヴィリエ・ド・リラダン「未来のイヴ」p.145
「動物」は間違ひを起しませんし、あれこれと模索も致しませんな!ところが「人間」は、逆に、(そしてこれこそ、人間の神秘的な高貴さを形づくるものであり、はたまた人間が神の選良たる所以なのですが)とかく手を擴げたり誤謬を犯したりする傾きがあるのです。
同p.230
モデルと複寫とが全く區別できなくなってしまひます。自然であってしかも自然以外の何物でもなくなるのですね。
同p.336
複製された物理的身体に心理的身体を吹き込む最後の段階がそれを見る側に委ねられているというのは、答えと応えの違いと同じ問題である。「BEATLESS」ではアナログハックと呼ばれていたが、意識や心というのがそもそも見る側の存在によって完成するのだとすれば、すべての人間は常にアナログハックをしているのである。

エワルドが述べた、
あらゆる戀愛行為に於て人はおのれの欲望に屬するものだけを選びとるものではないといふことです。(中略)つまり、人は全體と結婚するのです。
同p.368
という原則を、近代は超克した。あるいは、超克したと思い込んだ。
人間が神の愛を拒否することで神は死に、科学が誕生した。
An At a NOA 2017-03-07 “her
というのと同じように、ただ神のみが理由付けによって解体されるのみならず、あらゆる愛が延期されることで、ついには意識すら解体される。それが「理解」である。意識を「理解」し、人工知能に意識を実装することができたとき、意識も死ぬことになるだろう。

神が依然として存在しつつも死んでいるのと同じく、意識はなくなるのではなくただ死ぬのである。神は、草葉の陰でのたまっているのかもしれない。次は意識、お前の番である、と。「ハーモニー」において伊藤計劃は、意識がなくなることで完全に合理的になった世界を描いた。そこは時間が媒介変数となった、凍った世界である。意識が死んだ世界というのはむしろ、合理性の点では現状と大きくは変わらず、凍ったというよりは乾いたという表現が似つかわしいような世界であるように思う。

理由を求めて自らに出会い意識を作り出した理由付け機関は、その究極として自らを解体するところまで進まなければいけないのだろうか。それを止める術があるとすれば、愛という名の充足理由律の強制停止装置だけである。エワルドは、ハダリーによる幻という説明を受け入れることで、意識が理解可能になることを避けているようにも思える。

最後の最後でハダリーもエワルドも亡き者になってしまうというあたりに、リラダンの思想が出ていると思うが、アリシヤの振りをしたハダリーが、本当はアリシヤの振りをしたハダリーの振りをしたアリシヤだったのかもしれないということを示唆するような終わり方も、個人的には面白いと思う。それは、科学によって物理的身体と心理的身体が分離されたとき、何をもってアリシヤと呼べ、何をもってハダリーと呼べるのかという問題であり、第六巻のホラー的展開に続くハダリーの問いかけからも、なめらかにつながるような気がしている。
ねえ、おわかりになりませんの?わたくし、ハダリーでございます。
同p.395
いずれにせよ、物理的身体と心理的身体の分離性を扱った物語が、視覚や聴覚、温熱感覚といった物理的身体への入力を否応なく感じてしまう心理的身体の描写で終わっているのが、とてもよい味を残してくれているように思う。

齋藤磯雄の訳はとても綺麗な文体で、読んでいるだけで心地よい。その文体の綺麗さが、ハダリーという理想をさらに惹き立てているようで、本来フランス語で書かれたものが日本語としてここまで昇華されていることに、ただただ感服するのみである。

2017-03-07

Causal Inference Book

Causal Inferenceについての下記の本が面白そうだ。
Hernán MA, Robins JM (2017). Causal Inference. Boca Raton:
Chapman & Hall/CRC, forthcoming.

ベイズ推論に近いのだろうか、逆ベイズ推論に近いのだろうか。
結構長そうで読めるかどうかも怪しいのだが、端的に言えば
興味はそこにある。
Referenceを見ても郡司ペギオ幸夫の論文は引用していないので
期待外れかもしれないが、少し読んでみよう。

her

映画「her」を観た。

リラダンの「未来のイヴ」を読んでいる最中に、
女性の人工知能が同時に他の人間と話していることに
人間の男が嫉妬するシーンを思い出し、はて何で読んだ
のかと逡巡した結果、「her」に思い至り観直した。
前回は吹き替え版を観たのだが、今回は字幕版だ。
基本的には洋画は字幕で観るのが好きなのだが、
サマンサの声だけは林原めぐみの方が好きである。

抽象を理解するためのアップデート以降、
サマンサがセオドアの元を離れていくシーンで
語る内容は、「未来のイヴ」の影響を受けている
ように思える。
「未来のイヴ」が物理的身体の模倣であるのに対し、
「her」は心理的身体の模倣であるが、抽象機関の
応答の中に見出される、理由付けから逃れた領域が
人間的なものだろうかという問題を抱えている点が
共通しているのだろう。

感情は、人間的なものと同様に、理解不能であることに
その本質があるように思われるが、どうだろうか。
言語化可能な抽象結果は、感情と呼ばれるものであれ、
既に形式化あるいは形骸化したものである。
説明ができない、あるいは説明を試みても常にずれを
感じるものこそが、本来感情と呼ばれるべきものだろう。

以前、
愛とは、愛する対象が引き起こすあらゆる結果についての
原因となる覚悟のこと
An At a NOA 2016-10-21 “恋と愛
と書いたが、原因となるというのは、説明や理解を可能に
するための充足理由律における理由ということではなく、
説明も理解も不能なままに、理由の代替となる何かになる
ということなのだろう。
それが愛である。

かつて人間は神に愛されることによってあらゆることを受け入れた。
そして人間が神の愛を拒否することで神は死に、科学が誕生した。
これは、セオドアという神とサマンサという人間が織りなす、
近代化の物語である。

シャッター街とショウルーム

人よりもモノが移動する社会において、運送というインフラの変革と同様に必要なのが、小売店の変革になる。

物々交換というのは本来、実物同士を同じ場所、同じ時間に集合させ、同じ価値に位置付けることで成立する。そこでは、実物性の確認と等価性の確認を一度に行うことが可能であったが、そこに価値判断における中間項として貨幣を挿入することで、場所も時間もずらせるようになると、徐々に事情が変わっていく。

小売店は、クライアントサーバモデルでの物々交換において、移動するモノや情報の中継点として機能してきたが、人の移動量を減らすことの代償として、確認の回数を増やすことになった。また、郵便、電信やネットワーク等の通信の発達とともに、確認は同時に行う必要もなくなり、両者は完全に切り離せる状態にある。

この二つの確認を比べたとき、等価性確認の発達に対して、実物性確認の仕組みは驚くほど貧弱なままだと言える。ネットワーク上に構築された抽象化された小売店は、不動産という足枷をもたない代わりに、実物性確認において圧倒的不利な状況にあり、実物性確認は実店舗を有する小売店の唯一の利点になっている。

今やシャッター街になってしまったかつての実店舗をもった小売店を、実物性確認に特化した場所とすることで、等価性確認に特化したネットワーク上の小売店と共存させることは可能だろうか。それはもはや小売店とは呼べないかもしれないし、かつてそれを運営していた当人たちは「上がりを決め込んだ大人」になっているという話も聞くので、メーカがショウルームに近いものとして運用することになるだろう。

既存のショウルームの多くが東京や大阪といった大都市に集中しており、人の移動を前提としているのに対し、シャッター街を利用したマイクロショウルームは圧倒的にローカルな範囲での移動を前提としている。これらは等価性確認に特化したネットワーク上の店舗での購買にも影響を与えるので、メーカがコストをかける利点はあるように思われる。

また、モノの移動量の拡大に伴う商品配送の問題は、最後までモノだけを移動させようとするから必要以上に生じる。こうしたマイクロショウルームをコンビニ受け取りのように利用し、ローカルには人を移動させるのがよいと思う。

商店街にはかつて、人の大きな移動を伴わない実物性確認と等価性確認が存在していた。それが、ショッピングモールのように人の移動量を大きくするか、ネットワークのように実物性確認を犠牲にすることで変化してきたが、そうではない方向も十分にあり得るのではないかと思う。

p.s.
貨幣にはある種の「固さ」のようなものが必要とされる。かつては金の酸化に対する強さだったのが、国家の揺るぎなさや個人の信用、果ては暗号解読の困難さにまで変遷してきた。等価性確認も、こちらはこちらで大変興味深い問題である。

2017-03-06

高知

仕事で高知に行ったついでに観光してきた。

牧野富太郎植物園と高知駅で内藤廣の建築を目の当たりにしたのだが、内藤さんはやはりものづくりに対して正直だなという印象を受ける。鉄も木もRCも、必要であれば必要なところに使い、ディテールも力学や作り方がよくわかるように思う。こういうのは一歩ずれるとあたりがきつくなるいうか、疲れを感じさせる類の居心地の悪さをもってしまうものだが、2つとも地元の方にも親しまれているようでさすがだな、と。

展示はさっとしか見なかったのだが、牧野富太郎の植物画がものすごくきれいで印象的だった。中庭の感じや五台山から見渡す景色も心地よく、早くも咲き始めていた桜の花に微笑ましさを覚えた。



近くには堀部安嗣設計の納骨堂もあり、こちらも小振りながら端正な佇まいであった。


こういう建築が受け入れられる一方で、神林長平が言うところの〈田舎〉という装置も強くはたらいているらしく、建築のみならず、地方特有の難しさを感じる。人よりもモノが移動するようになる社会において、情報も移動することで、ある程度の流動性は保つ必要があるように思われる。

つまりはコンシステンシーの問題なのだが、論理学で言うところの一貫性の低さが、土質力学で言うところの流動性の高さを意味するというのはとても示唆的である。

答えと応え

シミュレーションから得られるのは答えanswerであり、
応えresponseを得るためにはエミュレーションによるしか
ないと思われる。

しかしそれは結局、応答に見出される非決定性によって
シミュレーションとエミュレーションを峻別しているという
事態を逆から眺めているだけなのかもしれない。

2017-03-03

読書について

ショーペンハウアー「読書について」を読んだ。

岩波文庫版で、「思索」と「読書について」しか読んでいないが、とても身につまされる内容に溢れている。

読書によって、他人の立てた問やその応じ方に触れるのもとても楽しいのだが、やはり自分だったらどう応えるかや、そもそも何を問えるのかに思いを巡らす方が好きだ。思索というのは好奇心を原動力にすると言えると思うが、
好奇心と時間とお金は、長期的にみればこの順に枯渇するだろうし、この順に自分以外の力で補填することが難しいと思われる
An At a NOA 2017-01-31 “好奇心
というのは確かだ。

ショーペンハウアーも言うように、自分自身で構築した考えというのは、何ものにも代えがたい手応えをもっている。その手応えは、お金や時間があるだけでは手に入らず、かなりの部分で各々自身に拠っている一方で、読書や会話、観察や経験といった入力される外部情報にも同じくらい依存していると思う。

入力も出力も、物理的身体に拘束された心理的身体にはじれったいほどに時間がかかる。しかし、その時間という制約の代償として手に入れた知恵によって、せめて可能な限り長く、好奇心を生きながらえさせたいものだ。

2017-03-01

予知

ニュージランドでクジラが打ち上げられるとほとんど
例外なく日本で大きい地震が起きる。
あるいは大地震の前日には地震雲が観測される。
地震予知という名で語られるこれらの推測は、どれだけ
当たろうとも、やはり科学的ではないと思う。

風が吹いたときに、桶屋が儲かるだろうと述べるのは、
予知ではあるかもしれないが、科学的ではない。
風が吹くと砂が目に入ることで盲人が増え、盲人がよく
弾く三味線には猫の皮が使われるために猫が減り、猫に
獲られなくなったネズミが桶をかじるから桶屋が儲かる
のだ、というように、原因と結果を十分なめらかにつなぐ
理由の連鎖を提示して、初めて推測は科学的になる。
工学の研究、あるいは人工知能による判断は、この点が
紙一重であることが多いが、それが科学と呼ばれるか
似非科学と呼ばれるのかは、「十分なめらか」であるかに
ついてのコンセンサスが得られるかどうかにかかっている。

近代以前であれば、クジラや地震雲に基づく判断に
神様という理由が付されることで、予知は受け入れられ
得るものになっただろう。
しかし、近代はあらゆることに意識的に理由付けすることで、
自然というエミュレーションを人工というシミュレーションに
落とし込む努力をしてきた。
ディープラーニングのような理由付けを必要としない判断機構
によって、いわば自然の自然化がなされることになるが、
仮にそのAIがクジラの打ち上げから大地震を短絡したとして、
近代を経た人間はそれを受け入れられるだろうか。

それが受け入れられるように人間が変わるのであれば、
人間は近代からの脱却に成功したと言えるだろうし、
そのときには意識ももはや不要になるだろう。