2017-04-30

芸術と技術

情報は常に固定化の危機に晒されている。
その中で、固定化からの脱却=発散の一形態としての芸術が
創造するのは、新しい抽象の仕方である。
全く同じ抽象結果だったとしても、オリジナルとコピーの違いは、
それが従来なかった抽象方法を生み出したか否かに集約される。
An At a NOA 2017-02-06 “人間機械論
情報の抽象過程の新規性に芸術の可能性は存する。

写真は、絵画とは異なる抽象の可能性を拓いたことで、
新しい芸術の形式たり得た。
仮に、複製が完全だとしたら、そこには抽象がなく、
芸術ではなく技術となる。

複製の不完全性がはらむ発散の中にこそ、芸術の萌芽が
あるのである。

相関と因果2

因果とは、物語られた相関である。
Causation is narrated correlation.

2017-04-29

リテラシー

リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学
日常で受け取る情報の多くは何かしらの編集を経ている。
リテラシーがあるというのは、どのような編集がなされ、
その過程でどのような情報が捨象されたのかを想像する
ことができるということであり、リテラシーがないという
のは、編集後の抽象された情報をそのまま具象として
受け取ってしまうことである。

リテラシーが高いというのは、抽象を再構成することで
想像された具象と元の具象が、情報として高い一致度を
有するということであり、リテラシーが低いというのは、
全然別の情報をもつ具象を想像してしまうことである。
抽象から具象を再構成するにあたり、限られた方法や
固定化した方法しか用いない場合には、リテラシーが
低くなる可能性が高まる。

Wikipediaのリテラシーの項目には、現代的なリテラシー
として多くのヴァリエーションが列挙されているが、
おそらくどの分野においても、上記の原則は同じだろう。

大英自然史博物館展

大英自然史博物館展に行ってきた。
行ったのは平日の午後だったので比較的人は少なく、
目的だったダーウィンの手稿と始祖鳥の化石も
じっくりと眺めることができた。

元になったヴンダーカンマーから博物館に至るまで、
動機としては空間的な隔たりを超えていろいろな
物を蒐集するところにある。
パサージュから百貨店、ショッピングモールへと
至る系列と異なるのは、時間に対する態度だろう。
博物館では時間的な背景が作り出すストーリィが
展示物の価値を生み出しているという意味では、
これらもダイアグラムの一種だとみなせる。
岩石の一部や手書きのメモにストーリィが付与される
ことで、それらは貴重な化石や手稿となり得る。
ストーリィを生み出す人間とストーリィを読み解く
人間の両方の高いリテラシーが、この博物館という
仕組みを支えているのである。

展示の最後にはデジタルライブラリー化の試みも
披露されていた。
ストーリィベースで価値が担保されるのであれば、
人間が移動することなく鑑賞できることにも
ある程度の利点はある。
しかし、展示品がダイアグラムであるからこそ、
それを物理的身体のセンサで直に知覚することで、
同時性や誤読可能性を伴いながら受容することも
大事なように思う。

充足理由律と意識の萌芽

思考の体系学」の第6章で取り上げられていたが、
カルロ・ギンズブルグは、猟師こそストーリィを物語る
ことをした最初の者だったとしている。

充足理由律を名付けたのは17世紀のライプニッツかも
しれないが、あらゆることには理由があるという信念は、
ギンズブルグが「痕跡解読型パラダイム」と呼ぶものと
同時に誕生した。

そして、この信念が生まれたことに意識の萌芽が
あるのではないかと思う。
その段階ではまだ自己を認識するまでには至って
いないかもしれないが、理由を気にすることが、
人間を特徴付ける意識のすべての始まりだったはずだ。

2017-04-28

バベルの塔

バベルの塔のイメージは、必ず先が細くなっているだろうか。

もしそうだとすると、細くなり、究極的には一点に収束する
その先端は、究極の理由としての神に対応しているように思う。

右左

"It seems he has left."
"So, you're right."

「彼は左を持っているようですね」
「ええ、なのであなたは右です」

音楽と言葉4

理由付けによって抽象された構造を外部化する過程として
言語を定義できるだろうか。
音声による言葉、ボディランゲージ、図形言語等、
いずれのコミュニケーションにも理由付けが先行
しているように思う。
理由抜きには言語コミュニケーションが成立しないので
あれば妥当な定義になるようにも思われるが、この前提が
真なようにみえるのは、近代以降に生きているからである
可能性もある。

音楽が、
音楽とは、コミュニケーションのための振動を伴う動作である。
An At a NOA 2016-06-10 “音楽と言葉3
によって定義できるとすれば、理由を介さずに、聴覚や触覚の
センサの意味付けによってやり取りされる音楽はあり得る。
(あるいは振動する物体の視覚情報など、聴覚と触覚以外の
センサでも音楽たり得る行為はあるだろう)

意味付けと理由付けでは、意味付けの方がよりプリミティヴ
だと言えるが、以上の内容から音楽の方が言語よりも先に
生まれたと言えるだろうか。

結局は単語の定義の問題に落ち着くと思うので、どちらが
先でもよいのだが、いずれもコミュニケーションの媒体と
なるものとして、その性質について考えるのが楽しいのである。

思考の体系学

三中信宏「思考の体系学」を読んだ。

前著で展開された分類思考と系統樹思考をベースにして
展開されるダイアグラム論は、人間が無相としての情報を
有相としての情報へと如何にして抽象するかを網羅的に
見渡しており、とても面白く読めた。
分類思考の世界」や「系統樹思考の世界」ではやはり
それぞれを別個に述べることがメインだったので、
両者の関係についての記述を深めたことや、数学的な
背景について触れられているのもよかった。

著者がエプスタインを参照して述べるように、人間には
二つの思考様式がある。
個人的にはこれを意味付けと理由付けと呼んでおり、
意味付けは、経験的システム、分類思考、メタファー、
分類科学、チェイン、位相構造、パターン、空間に、
理由付けは、合理的システム、系統樹思考、メトニミー、
古因科学、ツリー、順序構造、プロセス、時間に、
それぞれ相当する。
いずれも無相から有相への情報圧縮によって秩序を生み出す
抽象過程であり、両者は理由の有無によって峻別される。
意味付けは、大量の入力データを基にした特徴抽出による
抽象過程であり、その判断には理由が存在せず、判断基準は
センサの特性として埋め込まれる。
理由付けは、入力データ量が少ない中で判断を下すために
投機的に行われる抽象過程であり、理由でつなぐことで
その投機性に対するバランスが取られる。

環世界センスは分類思考であるが、クラスター分析あるいは
統計的思考をいずれとして位置付けるかは難しい。
数量分類学者達が分類に使ったという意味では分類思考的でも
あるのだが、何らかの理由が挟まれている限りにおいては、
系統樹思考的な性格が抜けない。
分類思考としては、ディープラーニングのような、理由を介さない
判断機構が該当するように思う。
第6章で展開されている、ダイアグラム論の文脈における統計的思考は、
ビッグデータを取り扱うにあたって、ディープラーニングという
分類思考の相方として用いられる系統樹思考としての役目が期待
されるのかもしれない。

著者が繰り返し強調するように、二つの抽象過程は
車の両輪のように互いにもちつもたれつの依存関係にある
三中信宏「思考の体系学」p.100
ので、いずれか一方のみに頼ることは悪手になる。
数量分類学のような分類思考だけでは上手くいかないのは、
人間が時間の流れの中に生きていると認識しているからだろう。
時間が停止した、エントロピーの増大しない世界であれば、
系統樹思考を棄て、分類思考のみに頼るという選択肢もあり得る
かもしれないが、それはつまり意識という心理的身体を放棄し、
無意識と肉体からなる物理的身体のみによって生きることに他ならない。
逆に、シンプソンによるウッジャーへの批判は、系統樹思考に
分類思考を持ち込むことに対するものだったようにみえる。
人間が物理的身体と心理的身体の両方を備えている限り、
どちらか一方に絞り込むことは何らかの犠牲を伴うはずだ。

意味付けはビッグデータをそのままに扱う抽象であり、FPGAの
ようにセンサの回路を組み換えることで、センサ特性として
判断基準が埋め込まれる。
その過程では、無相の入力が続く限り判断を自然に下し続ける
ことができるが、入力が止むと同時に判断も止む。
基準を言語等の他の形式で抽象しようとしても、理由付けへの
変換である限り、必ずそれは失敗する。
ダイアグラムというのは逆に、理由付けによって得られた抽象結果を、
視覚という意味付けとして入出力するように変換した装置だと言える。
ダイアグラムに作者の意図しない内容を読み込み得るのは、このことに
起因していると考えられる。

抽象結果=構造を、短時間で効率よく伝えるために、ダイアグラムは
とても有効であるが、インテルメッツォ(2)〜エピローグで強調される
ように、“骨格”への“肉付け”が肝になる。
抽象(“骨格”)と具象(“肉付け”)の両極を行き来することにより、
私たちは多様性のパターンとプロセスについてより深く理解する
ことができるでしょう。
同p.246
“骨格”としてのダイアグラムは共通であっても、そこに“肉付け”される
形而上学が異なればまったくちがったものになる可能性があるからです。
同p.259
分類思考と系統樹思考を駆使して得られた抽象としてのダイアグラムから、
如何にして元になった具象を想像するか。
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。

本書はダイアグラム論ということで視覚ベースの構造の表現のみだったが、
他の感覚器官、特に聴覚の場合についても興味深い。
音楽を和音として聴くときと旋律として聴くときとでは何が異なるだろうか。
和声と旋律、あるいはホモフォニーとポリフォニーと言ってもよいかも
しれないが、これらの間にも、分類思考と系統樹思考の間のように、
時間の要素が絡んでいるはずだ。

2017-04-27

新世界への扉

人工子宮「Biobag」で羊の胎児を育てることに成功

少量のLSDを服用することでクリエイティビティ向上・
うつ症状の改善を行う「LSDマイクロドーズ」とは?


試験管から生まれる子どもとソーマの休日。

「すばらしい新世界」に行こうと思えば行けるの
かもしれないなと思う今日このごろ。
人間には「知覚の扉」を開く勇気があるだろうか。

2017-04-26

家族的類似性

トマス・シェリングの人種間隔離モデルで
前提されるような、何らかの観点で自分と近い
対象を選好する傾向自体はあってよいと思う。
それが何らかの差別に陥らないために、自分とは
遠い対象が存在することを認識することも大事だが、
それと同等以上に大事なのは、別の観点が存在し得る
ことのように思う。

多くの人間が日常の生活において、家族、仕事、
趣味などのいろいろな領域で、観点を使い分け
ながら上手くやっているように思うのだが、
いざポリコレやレプリゼンテーションの議論に
なると、特定の観点で遠い対象についての話だけ
先行して、別の観点に対する考えが置き去りに
なる感がある。
観点を固定したがるのは理由を欲する存在としての
人間の性向だろうか。

いろいろな集団の中でも、親子というのは特殊だ。
通常はある観点が先にあり、それからどの対象が
近いかという判断が行われることで集団が形成
されると思われるが、親子の場合には、東浩紀が
「偶然の子ども」と呼ぶように、観点の設定よりも
集団の形成が先立つ。
あるいはそれは、理由付けによらない観点が
設定されているためにそう見えるのかもしれない。
理由抜きに形成されることが、家族的類似性を
もつ集団の条件の一つになるだろうか。
なぜ めぐり逢うのかを
私たちは なにも知らない
なぜ めぐり逢うのかを
私たちは いつも知らない
中島みゆき「糸」
オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」や
森博嗣のWシリーズのように、生物学や医学の発展に
よって生物学的な親になる機会が減ったとき、
理由付けの代わりに意味付けに基づいた観点が、
家族的類似性をもつ集団を形成し、象徴的、文化的な
親になるために役に立つだろうか。
かつてそれを、物理的身体ベースの意味付けで
行おうとした集団は失敗したように思う。

2017-04-25

乱択アルゴリズム

特徴抽出による抽象過程としての意味付けは、
モンテカルロ法で実装できるはずだ。

もしこれをラスベガス法で実装していたら、
いつまで経っても見聞きしているものが
何かを判断できないだろう。

ラスベガス法にすれば見間違いも聞き間違いも
なくなるかもしれないが、それは果たして
何かに対して有利にはたらくのだろうか。

ゼロリスク

築地移転問題が改めて示した「ゼロリスク」の呪縛

ゼロリスクには金銭的にも時間的にも無限のコストが伴う。

リスクをゼロに近づけるためにコストをかけ続け、
いつまで経ってもベネフィットがとれない様は、
correctnessに拘泥し、判断を下せないのと同じである。
おそらく、倫理というエゴイズムを貫くには、correctであることを
諦めざるを得ない。
実装した意識によって、正義を変形させることで獲得した倫理のために、
correctnessは損なわれた。
correctnessを回復しようとするあまり、倫理の方を見失うようでは
本末転倒なのではなかろうか。
An At a NOA 2016-11-30 “倫理というエゴイズム

レプリゼンテーション

攻殻機動隊からセサミストリートまで、海外エンタメのキーワード
「レプリゼンテーション(representation)」とは何か
前編)(後編

第四の壁の向こう側へ自己投影する際に、ハードウェア特性の
近い対象が基準になることを前提としているのは何故なのか。

科学とモデル」でも取り上げられていたトマス・シェリングの
人種間隔離モデルが示すように、たとえ差別の意図がなくても、
ある判断基準とその判断基準において「同じ」なものを選好する
傾向があるだけで分離が生じる。
そしてそれはおそらく差別として観察できるものである。

レプリゼンテーションが物理的身体に依存している限り、
物理的身体の特徴を判断基準にした分離が生じてしまうと
思うのだが、そのあたりはどう考えているのだろうか。

実写版映画は観ていないのでわからないが、少なくとも原作や
押井版の攻殻機動隊は、個の在り方が物理的身体に依存しない
可能性を含んでいると思う。
そういう内容の作品を、特定の物理的身体に拘束したかたちで
具象化することに、そもそもの難しさがあるのかもしれない。

2017-04-23

時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ

エントロピーについて調べていたら、寺田寅彦が書いた「時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ」というエッセイを見つけた。

「エントロピー再考」を読んだときに考えた、
シミュレーションにおける媒介変数としての時間ではない、エミュレーションにおける時間は、エントロピーと区別可能なのだろうか。
An At a NOA 2017-02-10 “エントロピー再考
というのと同じ問題意識だ。不老不死の仙人が見ている摩擦のない振り子は、シミュレーションにおける媒介変数としての時間にあたる。
第一に種々の個体の集団からできた一つの系を考える時、その個体各個のエントロピーの時計の歩調は必ずしも系全体のものの歩調と一致しない。従って個体相互の間で「同時」という事がよほど複雑な非常識的なものになってしまう。しかしそこにまたこの時計の妙味もあるのである。
寺田寅彦「時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ」
という指摘は面白い。「ゾウの時間 ネズミの時間」のように、種ごとに異なる時間の流れもあれば、同種の人間同士でも異なることもあるし、一人の人間をなす細胞ごとに異なることもあるだろう。ガン細胞が代謝異常として特徴付けられるのであれば、人体の中で
特定の部分にだけ生じた時間のひずみやエントロピー減少速度の失速として定義できないだろうか。

北大の総合博物館には多数の化石が展示されていた。かつてエントロピーが減少する島であった生命体へのエネルギー供給が停止して久しく、化石に蓄えられているのは、もはや更新されることがなくなった、固定化した情報である。そこから取得された情報が忘れられることで系のエントロピーは増大し、いずれ化石は完全に有相から無相へ戻るだろう。無相はいかなる秩序も有していないので、キリスト教的な永遠の魂という概念ではなく、仏教的な個の連続性を有しない輪廻転生である。マクスウェルの悪魔への回答にもなったランダウアーの原理に対抗するかのように、集団として忘却への冗長性を高めようとして、人間は知識の共有を行っているようにも見える。

札幌

研究発表で札幌へ。前回札幌に来たのはまだドームができる前だったから、もう20年振りくらいか。

北海道は車がないと観光できる場所が限られる。そして、4月末の札幌は、まだ春というよりは冬の終わりに近い。あと一週間もすればいろいろ開くのだけど。

土曜日の朝は北大の植物園へ。温室しか開いていないようなので、近くだけ通りすぎて北海道庁の旧庁舎の方へ歩く。小雨が降っているのだけど、いろいろスケジュールを考えて、今日のうちにモエレ沼公園へ行くことにするが、その前にちょっと早いお昼で味の時計台に寄る。これを食べるとなんとなく札幌に来た感じがするのだ。電車に乗る前に時計台を見ると、20年前よりも観光地っぽくなっていた気がした。

環状通東駅では30分近くバスを待つことになったが、13時半過ぎにモエレ沼公園に到着。川沿いにアオサギやカラスは多いのだが、雨上がりのせいか人は全くいない。施設もほとんどは来週からのようだ。アスファルトに並んだミミズの死骸を避けながら、ガラスのピラミッドまで辿り着く。
鉄骨のトラスや張弦梁とガラスでできた覆いの下にいると、ベンヤミンのパサージュ論を思い出す。水晶宮は万博会場、パサージュは商店街であり、百貨店からショッピングモールへと至る系譜をなしており、いずれも空間的な隔たりを超えてあらゆる物を集積した場所である。モエレ沼公園は元々ゴミ処理場だったらしく、物の残骸が集積した場所の跡地だと思うと、ピラミッドという墓であるのと同じくらい、パサージュであることが妙に良いモチーフになっているように感じる。

札幌駅の近くまで戻り、一旦宿にチェックインした後、17時過ぎで少し早いのだけど、晩ごはんを食べに奥芝商店へ。17時半前に着いたのに30分くらい待ったが、ここのスープカレーはめちゃくちゃ旨かった。肉も野菜もヴォリュームがあり、かなりお腹いっぱいになる。大丸の地下で小樽ビールとサッポロクラシックを買い込んで宿で一杯、そして就寝。

日曜日は午前中に研究発表。初稿提出から発表まで半年以上かかるのは査読付きだから仕方ないが、arXivみたいな仕組みで回っている分野もあることを思うと、どうなのかとも思う。まあそのゆっくりさが建築にはあっているのかもしれないが。
発表後、北大の総合博物館に寄ってみると、展示内容がすごく充実していた。早足でしか見れなかったが、数時間かけて見られるレベルだ。キャンパスの中も自然が多いのはもちろんのこと、古い建物もたくさん残っていてよい雰囲気だった。

お昼は奥芝商店の隣りにある一粒庵にしようと思ったのだけど、日曜は休みだった。大通公園の方に歩く途中で久楽というラーメン屋を見つけたので入ってみる。やはり札幌は味噌ラーメンである。できればすみれにも行きたかったが、また次回。

大通駅から円山公園まで移動し、北海道神宮へお参り。神社と公園という組み合わせは氷川神社と大宮公園を思い出させ、どことなく懐かしい気持ちになる。公園内の桜はまだまだ咲いていないが、陽射しはもう春のそれである。円山動物園のあたりまで散歩して折り返してくると15時前。近くに森彦という木造民家を改装した喫茶店があるようなので
行ってみたが、案の定混んでいる。森の雫というオリジナルブレンドの豆だけ買って帰ってきたが、内観も外観もとても良い味を出していたので、今度は店内で飲みたい。

味噌ラーメン、スープカレーは食べたが、ジンギスカンを食べていないし、サッポロクラシックを生で飲んでないなと思い、少し早めに空港に行き、これらを達成する。大分満たされたのであとは帰るだけだ。
先週から読み始めた「カラマーゾフの兄弟」は、この旅で一巻を読み終え、二巻に突入した。ゴールデンウィーク中には読み終えたい。

2017-04-20

科学とモデル

マイケル・ワイスバーグ「科学とモデル」を読んでいる。

モデル化という行為について取り上げているので、とても
興味深く読めるのだが、著者や名前が出てくる研究者が
何を疑問視しているかをいまいち共有できない。
それは多分、図5.3や図5.4に共感できないからだと思う。
現象から対象システムが抽象されるのであれば、その行為が
モデル化であり、対象システムはモデルと呼べると思うのだが、
対象システムとモデルの類似性が問題になっているのである。
おそらく、本書の説明や関連した研究がすべて、観察する者
としての科学者と観察される物としての現象を切り離した
二元論的な組み立てになっていることが原因だと思われる。

あらゆる現象は、物理的身体というセンサに入力される
無相に基づいている。
無相にはいろいろな構造を見出すことができるが、その
いずれが見出されることになるかは解釈に依存する。
解釈はセンサ特性として埋め込まれていることもあれば、
投機的短絡によって決定されることもあり、常に変化
し得るが、解釈に先立って構造が決まることはない。
モデルとは解釈された構造のことであるという命題には
同意できるのだが、構造が先にあり、それに解釈を
加えるという順序ではないように思う。

解釈によって構造が暫定的にでも決まると、無相は
有相として抽象されたことになる。
抽象の過程で、ある特定のモデル化がなされることで、
情報量は少なくなるが、それが認識するということだ。
情報量が低下するために、有相が無相の一側面しか
反映しないのは当然である。

上記のようなモデル観からすると、著者による
  • 具象モデル
  • 数理モデル
  • 数値計算モデル
というのは、ハードウェア実装によるタイプ分けに
見えるのだが、あまり上手くないように思う。
本書で扱われるモデル化が理由付けのみに限定されて
いることを考えると、むしろ時間やエントロピーの
観点からタイプ分けする方が納得がいく。
時間が単なる媒介変数になるまで抽象されたモデルは、
ある一つの表示形式に全情報が詰まっているため、
エントロピーが変化しない。
そうでないモデルにおいては、モデルが時間発展する
ことができ、エントロピーが増大する代わりに、
モデルから追加情報を引き出すことができる。
数理モデルは前者、具象モデルと数値計算は後者に
相当すると思われる。
著者は数理モデルと数値計算モデルの類似性をたびたび
指摘しているが、むしろ具象モデルと数値計算モデルの
方が似ている気がしてならない。

因果的特性について言えば、エントロピーが増大する
モデルではエントロピー増大によって時間の前後が
決まるので、モデルに因果的特性が内在し得るが、
エントロピーが増大しない場合にはもっぱら解釈によって
因果的特性が決められる。
それが理由付けというものであり、何故という問いを発し、
投機的短絡によって因果的特性を設定できることに、
人間らしさがあるように思う。
一方で、意味付けの場合には、解釈はセンサ特性として
埋め込まれるため、因果的特性があまり意味をなさない。
圧倒的大量の無相によって特徴抽出されたモデルにおいては、
時間はすり減っている。
「目や口があるから人間の顔に見える」と、「人間の顔として
見るから目や口に見える」は、いずれか一方を、よりもっとも
らしい説明だと決められるだろうか。

あと、
本書でなされる説明は、それ自体がモデリングに関する
モデルだということになる。
マイケル・ワイスバーグ「科学とモデル」p.8
とあるのだが、著者は本書の説明が3つのタイプのうちのどれに
分類されると考えているのだろうか。

2017-04-21追記
読み終えた。
個人的な構造の定義は、
構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。
An At a NOA 2015-11-02  “構造
というものなので、現象が一つしか存在しない場合には、構造は
想定できないと思う。
複数の現象が存在し、その同一性が主題化することで解釈が生じ、
構造が抽象される。これがモデル化である。
そういう意味では、図5.3や図5.4は、現象に対応する対象システムと
モデルに対応するあるシステムの類似性を表現していると見れば
よいのかもしれない。
モデル観のズレだけ整理できれば、第6章の理想化の話や第8章の
類似性の話など、内容としては納得のいく部分も多かった。

2017-04-18

子どもに接するように

ゲンロン0」を読んだことで、ユートピア的な
コミュニケーションを目指すためには、子どもに
接するのと同じように相手に接するのがよいのでは
ないかという考えに至っている。
あるいは観光客に接するようにと言ってもよい。

それは決してこちらの判断基準を押し付けるという
ことではなく、子どもと親の双方の判断基準が更新
し得る状況で通信を成立させるというイメージだ。

解釈、理解、判断をするにあたって、情報は必ず
有相に落とし込まれるが、発散の源である究極の
観光客としての子どもは、常に有相が無相に戻り、
別の有相として現れ得ることを思い出させる。

他でもあり得る有相を含んだ有相として無相を
抽象するのが、子どもに接するように通信する
ということであり、そこにディストピアとして
回収されないユートピアの可能性を感じている。

dataとinformationの訳語

dataとinformationについて。

「情報」という語は元々、「敵情報知」の意味で、
informationではなくintelligenceの訳語として
用いられていたらしい。
それが次第にinformationの訳語として定着した
ようだが、「情報」というと伝わる過程ではなく
伝わるもののイメージが強く、「報」の意味は
薄れたように思う。

「情」には既に特定の解釈が含まれるはずなので、
あるかたちをもっているという意味で、dataではなく
informationに当てられるのはわかる。

dataが「無情」、informationが「有情」というと
それっぽくはなるが、仏教用語で心の有無を言うのに
用いられるようで、ちょっとイメージが違う。
むしろ仏教用語で言えば、かたちの有無に相当する
data「無相」とinformation「有相」の方が近い。
これは有象無象の元になった語なので、
  • data「無象」とinformation「有象」
  • data「無像」とinformation「有像」
などでもよいかもしれない。

現状のまま、「情報」という語をdataとinformationを
含むものとしてとっておき、特に両者を区別する必要が
あるときに、「無相」と「有相」という語で言及する
のはどうだろう。

人工知能の無意識と意識

AI Learns Gender and Racial Biases from Language

人工知能と呼ばれるものには大きく分けると、
エキスパートシステム的なものとニューラル
ネットワーク的なものの二流派がある。
前者が理性、後者が本能に相当しており、
最近の第三次ブームではディープラーニングに
代表されるように後者が優勢である。

ディープラーニングは、判断の基になった理由を
詳らかにするものではないが、人間が無意識的に
下す判断を任意の精度で複製し得る。
画像認識をはじめとする五感はもちろんのこと、
囲碁の手、言語翻訳、絵画のタッチなど、一見
意識的な領域のようでいて、実際は無意識的に
行えるようになる分野でも成果が上がっている。
熟練によって物理的身体に落とし込める判断には、
本質的にはディープラーニングのような人工知能が
応用可能だと思われる。

引用元の記事では、人間が書いた文章に埋め込まれた
バイアスの複製可能性について問題提起がなされている。
単語選びや文脈におけるバイアスもまた、絵画のタッチの
ように無意識的に埋め込まれる判断であるから、複製可能
になるのは当然だろう。
それは、書いた人間の人格の一面を表していると言える。

人間は、もちろん無意識的な判断だけで行動しておらず、
無意識的な部分と意識的な部分を合わせて判断を下すことで
コミュニケーションを成立させている。
人間の通信圏に、人間と同列なかたちで人工知能の個を
導入しようと思ったら、無意識的な部分と意識的な部分の
両方を備える必要があるはずだ。
どちらかが先行して人工実装可能になるのであれば、当面の間は
もう一方を人間が補完するという選択肢も取れるだろう。
そうやって少しずつ、人間以外の人間的な通信手が増えるのは
それほど危惧すべきことではないように思う。

むしろ、無意識的な判断、あるいは意識的な判断のいずれかだけに
固執するように人間が移行してしまう方がディストピア感がある。
人工知能のことを心配するよりも、無意識的な短絡を広範囲に通信
できるようになってしまったことで、失言や炎上が増えたように
感じられる人間の方を、まずはどうにかした方がよいと言える。

ハードウェア実装

データが抽象されることによって形成されつつある
秩序でもって個が特定されるのであれば、究極的には
個はコミュニケーションの総体に落とし込める。

抽象される秩序が同等であれば、コミュニケーションの
詳細な実装にはある程度の自由度が生まれると考えられるが、
効率を犠牲にしてでも特定のハードウェア実装にこだわると
すれば、それは趣味と呼ばれてしかるべきものである。
あらゆる趣味は、ハードウェア実装へのこだわりから
生まれると言える。

元の物理的身体と完全に同等のセンサ特性を有する
機械の身体が手に入ったときに、それでも紙媒体で
読書をするというのが、趣味としての読書の究極である。

2017-04-17

マストドンと資本主義

そろそろマストドンについて語っておくか
マストドンが直面している問題はすでにP2P技術が15年前に遭遇した問題だ

マストドンについての記事。
マストドンの仕組みにおいても、mstdn.jpという特定のサーバに
ユーザが集中してしまうのは、「ゲンロン0」で東浩紀がネット
ワークについての議論の中で、
この現象は、社会思想の語彙で表現すると、資本主義の誕生に
相当している。
東浩紀「ゲンロン0」p.189
と指摘したことにあたるように思う。

P2Pの流行が廃れてしまったことは、結局のところ人間が
中央集権的な体制に依存したいことを示しているだろうか。
個々のままではいられずに、共同体をつくり、社会をつくり、
国家をつくり、…。
人間が、中心のない集団を維持できた期間はあったのだろうか。

ネットワーク上の集団の理想形が中心なきものであろうとも、
人間のつくる集団の特性がすぐにそれに合わせられるとも限らない。

2017-04-14

オルダス・ハクスリーとドストエフスキー

ドストエフスキーは読んだことがないのだが、
ゲンロン0」第7章のドストエフスキー論が
明快で興味を惹かれた。

偽善的な社会主義者。
社会主義者に反発するマゾヒスティックな地下室人。
ニヒルなサディストになることを選んだ地下室人と
してのスタヴローギン。
カラマーゾフの兄弟たちは地下室人とスタヴローギンに
重なり、書かれなかった続編におけるアレクセイが
最後の主体となる、と東は考える。

ユートピアを語ったのは社会主義者だけではなく、
地下室人もスタヴローギンもアレクセイも、
何かへの反発としてではあるが、自分なりの
あるべき世界を目指したという意味では、
ユートピアを語っており、全体としてユートピア論、
ディストピア論となっている。

オルダス・ハクスリーもまたユートピア/ディストピアを
語っており、「すばらしい新世界」で言えば、
文明が社会主義者、不幸を要求したジョンが地下室人、
ヘルムホルツがスタヴローギンに当たるだろう。
ムスタファ・モンドは単なる社会主義者に分類できず、
強いて言うならスタヴローギン的なニヒルさを備えた
社会主義者だ。
バーナードは地下室人になってしまうだろうか。
それともアリョーシャになるだろうか。
残念ながら、ヘルムホルツと島に旅立ってしまうため、
そこは描かれない。

ドストエフスキーが描こうとした最後の主体にあたる
とすれば、おそらく「島」に出てくるパラの住人だろう。
「ほかの答えがなければ、それひとつで良い答えなんてないの」
オルダス・ハクスリー「島」p.76
というセリフに代表される、シヴァ神が象徴する
パラドキシカルな世界が、ディストピアに陥らない
唯一のユートピアになり得ると思う。

それでも東が指摘するように、
世界がどれほどユートピアに近づいたとしても、
そしてそのユートピアがどれほど完全に近づいた
としても、人間が人間であるかぎり、ユートピアが
ユートピアであるかぎり、その全体を拒否する
テロリストは必ず生みだされる。
東浩紀「ゲンロン0」p.275
ということになってしまうだろうか。

それは、「それひとつで良い答えなんてない」という答えを、
如何に提示できるかという部分にかかっている。
伊藤計劃はこの問いに対して、人間であることをやめれば
成立するという解を「ハーモニー」で提示した。
「親」としても生きることで、人間のままでありながらも
成立する解を提示することは、現実においても可能だろうか。

2017-04-13

ゲンロン0

東浩紀「ゲンロン0」を読んだ。

東浩紀の著作は高校時代に「動物化するポストモダン」を
読んで以来だが、その他の著作も含めて本書との関係が
整理されており、とても読みやすかった。
ところどころ、議論としては飛躍していたり穴があったり
するのを承知で、多少荒削りなままでも出してくれたことは、
グローバリズムとナショナリズムがないまぜに吹き荒れる
2017年において、これまで「まじめ」な文脈では十分に
語られて来なかった「観光」を主題として「観光客の哲学」を
語るのによくマッチしていると思う。
おそらく、すべてを「まじめ」に語れると仮定した途端に、
グローバリズムかナショナリズムのいずれかに回収され、
「観光客」的な在り方とは乖離してしまうのだろう。

人間誰しも、自分の育った環境において形成された価値観をもつ。
それは心理的身体の判断基準となり、記憶=過去として自身の
アイデンティティをなしている。
心理的身体の抽象過程としての理由付けには、投機的短絡に
よってその判断基準をずらせるという特徴があり、物理的身体の
抽象過程である意味付けと一線を画すが、判断基準の変化速度は
年齢とともに緩やかになっていく。
むしろ、判断基準の変化速度が遅くなることが、精神的に老いる
ということだ。
観光客として観光地に赴いたとき、人か物かに関わらず、様々な
入力データに出会い、新しいコミュニケーションが生じることで、
判断基準が変化する機会が訪れる。
しかし、判断基準の変化速度の遅さのために、観光という比較的
短期間のコミュニケーションでは、その土地の人間の判断基準との
同化には至らず、判断基準の差が生じる。
その差が観光客のまなざしであり、それを受け止めるというのは、
その土地の人間にとっては他にもあり得る正義を前提とした正義を
もつことにつながる。
観光客側にとっても事情は同じだ。

本来は判断基準がずらせるはずの理由付けは、真理を仮定することで
理由の連鎖を固定してしまい、その反動としてPost-truthが生まれる。
でもグローバリズムというTruthへの反動としてのPost-truthの収容先も、
結局はナショナリズムという別のTruthにしかならないのであれば、
何も変わらない。
シュミットの友敵理論における「友」と「敵」の境界は、それによって
秩序ができるという点では、抽象過程としての理由付けの一面を捉えて
いるが、仮にそれが組み換え不可能なのだとしたら理由の連鎖は理屈
として固定化してしまい、シュミットが危惧する世界国家の形成とは
また違ったかたちでの歴史の終焉へと収束する。
グローバリズムがエントロピー最大としてのディストピアだとすれば、
ナショナリズムはエントロピー生成速度→0としてのディストピアであり、
いずれも発散なき固定化の状態である。

それを打開するための望みとして、観光客的なものを考えるという
東の提案には納得できるし、同意もできる。
形成された秩序が生命的なのではなく、秩序が形成される様が生命的
なのであり、ひいては人間的なのである。
観光客という「郵便的マルチチュード」が引き起こす「誤配」によって、
あるいはその「誤配」を織り込むことで、判断基準の更新を見据えた
理由付けができる人間的な人間への道が開ける。

思うに、子どもというのは、抽象機関としての身体が、物理的にも
心理的にも発散している。
物理的身体の発散というのは、目を離した隙にどこかに行って
しまうということではなく、雲をパンとして見るといったように、
五感や体性感覚の特徴抽出が完了していない様である。
心理的身体の発散は、なぜなぜ期として発現する。
この発散は、固定化の進んだ大人に対して、判断基準の大いなる
差を生み出し、子どもは究極の観光客として立ちはだかる。
そして、偶然にも現れた究極の観光客を、家族だからという理由で、
あるいは理由抜きに、親は受け入れる。
両者の間のコミュニケーションは子育てという形態をとり、送り手の
判断基準を受け手に引き継ぐ行為を教育と呼ぶなら、子育ては親から
子への教育であると同時に、子から親への教育でもあり得る。
そこに、判断基準の更新の可能性があり、人間的な人間として
生きる可能性がある。
子として死ぬだけでなく、親としても生きろ。
東浩紀「ゲンロン0」p.300
東も言うように、それはもちろん象徴的、文化的であってもよい。
このメッセージが、ものすごく大事なものとして響くのである。

意味付けによる物理的身体は生殖や発生の過程でエラーを導入し、
理由付けによる器官なき身体は理由の連鎖の過程でエラーを導入する。
(中略)
ヒューマンエラーという言葉は、「器官なき身体に導入される振れ幅」
という本来の意味を取り戻すべきなのかもしれない。
An At a NOA 2016-11-12 “理由の連鎖
と述べたヒューマンエラーは、偶然の子どもや観光客によって
もたらされるだろうか。

2017-04-10

情報社会の〈哲学〉

大黒岳彦「情報社会の〈哲学〉」を読んだ。

グーグル、ビッグデータ、人工知能といった時事的な
議題が並ぶが、ありがちな表面的な話ではなく、
各議題の本質を捉えるような議論が展開されており、
とても興味深く読めた。

まずはマクルーハンのメディア論の再整理がなされ、
現在の情報社会がネットワークメディアを媒体として
いることに言及した上で、各論に入る。
声、手書き文字、活字、マスメディアと変化してきた
中で、声や手書き文字から活字やマスメディアへの
メディア生態系の変化は、コミュニケーションの
非属人化として捉えられるだろうか。
ネットワークメディアはマスメディアのさらに先にあり、
開発者のティム・バーナーズ=リーも言うように、
WWWは本来的に非属人的な、匿名性を前提にした
コミュニケーションの場である。
だからこそ、著者が指摘するように、ネットワーク上に
実現する社会は、マクルーハンが言うような声や手書き文字
といった属人性に基づく地球村ではなく、ルーマンが言う
ような世界社会ということになるのだろう。
この、属人/非属人という区別はつまり、抽象した者と
抽象された物の結びつきの有無だと言えるだろうか。

ハイデガーの予言した、技術が〈自立=自律〉した世界に
おいて、理由は邪魔以外の何者でもない。
自動化された技術の流れにおいて、理由のせき止めによって
できた滞留のことが、人間の意志であったことになるだろうか。
知が技術化する中で、Googleやfacebookが抱えるファクト
チェックの問題が取り沙汰されるようになってきたが、
それを権威的に解決することは可能なのだろうか。
権威として挿入される理由は、やはり知の〈自立=自律〉化の
妨げにしかならないように思われる。
ただ、第二章の終わりで著者が指摘するように、〈自立=自律〉
化に抵抗することこそが、哲学に課せられた課題だというのは
確かだろう。

ビッグデータは本質的に物理的身体に入力されるデータと
同じ性質を有する。
規模における無際限性、速度における動的な運動性、
多様性における無差別性と無目的性を指摘し、
ビッグデータとは“ゴミの山”である。
大黒岳彦「情報社会の〈哲学〉」p.90
と述べているのは適切な指摘だと思う。
眼は、何かを見ようとして光学データを取得しているのではない。
ビッグデータの章で、「情報」という単語の意味について指摘
している内容にも同意できるが、「データ」という単語に対して
やはり日本語を当てたいなという気はする。
An At a NOA 2017-01-24 “dataとinformation

SNSを分析する第三章において、コミュニケーションが
システムを形成する様を描きながら、ルーマンの社会
システム論とマクルーハンのメディア論が接続される議論は
本書の核をなす。
コミュニケーションが世界=社会を生み出すのであって、
世界の中にコミュニケーションが生じるわけではない。
同p.152
という状況において、「わたし」という主体もまた、
ビッグデータのような“ゴミの山”から立ち上がる。
これまでは物理的身体があることで維持されてきたアプリオリが、
ネットワークメディアの社会的アプリオリに置き換わることで、
意識の捉え方も変わっていくだろうか。
それは、第四章のロボットの話の中で、
「人間」もまた社会〈システム〉の水準からは、〈コミュニケーション〉を
連鎖的に紡ぎ出すことで社会を再生産する、したがってAIやロボットと
機能的に等価なネットワークのノードとして位置づけ直されざるを得ない。
同p.225
とまとめられる議論にも通ずる。
同章では労働の自動化についても議論が展開されているが、
コミュニケーションに見出される“主体性”までを譲渡する
というのは、労働の自動化に伴って心理的身体を維持する
ことが困難になるだろうという話と合致する。
個人的には、理由を差し挟むことがなくなることで、
心理的身体が不要になるために消え去るのだと思うが、
むしろそれは、ゴーストダビングにおけるゴーストの消失の
ように、“主体性”を見出す側の変化として現れるのかもしれない。

終章ではシステムと関連して倫理と道徳の本質に迫るが、
「倫理とは人間にとっての正義のことである」という倫理観を、
抽象する者全般を含むシステムに如何に拡げるかというのは
本当に難しい。
フロリディによる、エントロピー増大への抵抗を善とする
倫理観は面白いなと思う。
その倫理体系において、忘れられる権利は尊厳死と同じ問題を
提起するだろう。
“演算”不能なパラドキシカルな例外的事例に直面することで、
システムが現行の「構造」の限界に“気づき”その更新を余儀なく
させられることが、システム論の枠組みにおける「正義」の
内実をなす。
同p.300
というルーマンの「偶発性定式」による正義観や、デリダの
「脱構築の可能性としての正義」は、人間の倫理も包括する。
理由の不在としての自然は矛盾をはらみようがないが、
そこに理由が挿入されることでパラドキシカルな状況が生じ、
人間にとっての「正義」の輪郭が現れる。
correctnessに対するrightnessの在り方である。
パラドキシカルな状況に対して、物理的身体の更新という進化で
対応するのか、心理的身体の更新という設計で対応するのかが、
動物と人間を分けるという見方もできるかもしれないが、
それは人間至上主義的であろう。
しかし、「パラドキシカル」という観点が、既に人間的なものを
想定してしまっているようにも感じる。
コミュニケーションをベースに考えたとき、道徳や倫理は
コミュニケーションに前提された束縛条件だと言えるだろうか。
あるいは、コミュニケーションの種類としてのハードウェアと
ソフトウェアの速度差が道徳や倫理を生み出すと言えるだろうか。

この手の議論をするときには、自分が人間であることが
ものすごく邪魔になる。
マクルーハンがマスメディアという盲点に気づかなかったように、
人間である限り何らかの盲点は存在しているのではないかという
疑いは晴れないだろう。

2017-04-07

よどみ

絶え間なく入力される圧倒的大量のデータに晒された
物理的身体は、目的なしに特徴抽出を行いながら、
自動的に応答する系として存在する。

眼が何かを見ようとしているのでもなければ、
眼の後ろに何かを見ようとしている者がいるの
でもない。
ただひたすらに光学データが眼から入力され、
そのデータの中に常に秩序が生成される様を、
「見る」と呼んでいるだけだ。

絶え間ない流れに、理由という杭が立てられる
ことによってできたよどみ。
そのよどみのことを、心理的身体と呼んでいるの
だろうか。

元の流れは整合的な一本の秩序をなしているが、
よどみもまた、別の新しい秩序をそこに加える。

サピエンス全史

ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」を読んだ。

内容として特に真新しいことはなく、長い歴史を
コンパクトにまとめているので論述もあっさりで、
述べている内容に対して典拠の数が非常に少ない、
というのが率直な感想だ。
これだけの内容をまとめきったのはすごいと思うし、
読み物としては面白いのかもしれないが、個人的には
興味がそそられるものではなかった。
原題「Sapiens A Brief History of Humankind」に
対する、「サピエンス全史」という邦題や、「文明の
構造と人類の幸福」という副題も腑に落ちない。

想像上の秩序を維持するには、情報を抽象し続ける
必要がある。
サピエンスは、圧倒的に無知であると思い込むことで、
抽象の対象となる未分化な情報が大量にあるという
想定を生み出し、近代以降の劇的な成長を達成した。
図37のサルヴィアーティの世界地図が印象的だ。
その成長は、空間的にも時間的にも微に入り細を穿って
進行してきたが、いつまで空白を埋め続けることが
できるのだろうか。
抽象するべき空白を失わないための過程としての
「忘却」の機構はあるのだろうか。
生命にとって致命的な問題は、エネルギーではなく
エントロピーである。

想像上の秩序が維持される仕組みについて、ハラリは
どのように考えているのだろうか。
その理由自体が、また新しい想像上の秩序を生み出すはずだ。

2017-04-06

プロスポーツ

科学の研究が何の役に立つのかという問題は、
プロスポーツは興行なのか競技なのかという
問題に近いように思う。

プロスポーツは観客あってこそ成立するという
意味では興行である。
しかし、何かの筋書きどおりに動くというのは、
演劇のような別の種類の興行になってしまい、
プロスポーツでは八百長と呼ばれることになる。
いくら面白かろうと、それが真剣勝負の競技で
あるからこそ、プロスポーツという興行として
成立し得る。
競技だからこそ興行として成立するし、興行として
収支が合うからこそ競技が継続できるのだ。

科学は、資本主義の名の下にお金が注入されるから
こそ継続できる。
そして資本主義もまた、科学の成果によって無限の
成長という幻想を維持できるからこそ成立する。
この文脈で言えば、研究が役に立つかという問いは
すなわち、その研究は如何にして資本主義に与する
のかという問いになる。

おそらくこの手の質問が嫌いな研究者がいるのは、
なぜ資本主義を前提にしなければいけないのかに
ついて納得がいかないからだと思われる。
資本主義、あるいはもっと一般に、経済や政治と
切り離した科学は可能だろうか。
そもそも、人や物にお金がかかるとはどういうことか。
産官学連携という言葉をかざして、資本主義と科学の
相互駆動を止めないために続けられる努力とは逆行
するかもしれないが、そこを考えるのをやめてしまう
のであれば、研究はすべて産と官に任せ、学は教育に
専念すればよくなってしまうように思う。

ブロックチェーンとしてのSNS

コンセンサスに基づく履歴が連なった記憶は、
ブロックチェーンとしての役割を果たす。
facebook、twitter、InstagramなどのSNSは
その代表格だ。

個々のアカウントは、複数の人間が管理して
いるかもしれないし、一人の人間が管理する
複数のアカウントの一つかもしれないし、
ボットかもしれない。
しかし、そんなことは関係なく、投稿された
内容にいいねがついたりリツイートされたり
することでその内容が履歴としての濃さを
獲得し、ブロックチェーンの一端を担う。

twitterは中央集権的にアカウントの真性を
示すようになったが、本来は〈監視〉ではなく
〈環−視〉によって担保されるはずのものである。
フェイクニュースの問題も同じであり、
Googleやfacebookが裁定することはブロック
チェーンとしての在り方を崩すことになる。
情報は、その発信元ではなく、共有履歴によって
真性を得ることになる。
正しいからコンセンサスに至るのではなく、
コンセンサスが得られている様を正しいと
形容するというのは、そういうことだ。

ブロックチェーンが個として抽象されるには
何かしらのハードウェアを手がかりにする
必要があると思われ、個の同定され方にも
依存するハードウェアの影響が出る。
人間の物理的身体とロボットの躯体が異なる
のであれば、〈環−視〉する者によって区別が
見出されるかもしれないが、同種のハードウェア
上に実装されるのであれば、個は同じように
同定されるはずだ。

あるいは、ソフトウェア的なハードネスは、
言語によっても獲得できるように思われる。
文法の正しさ、てにをはの自然さ、単語の
選び方、その個が言いそうな内容、などに
よって「固さ」が確保され、公開鍵暗号の
「固さ」の代わりを果たす。
この「固さ」が〈環−視〉に耐えられなければ、
そのアカウントが乗っ取られたとみなされ、
当該アカウントに紐付けられた個は、一時的に
解体される可能性もある。

人間の心理的身体と人工知能の差というのは、
ソフトウェア的にはおそらく解消可能なもの
だと思われる。
すなわち、同種のものとして〈環−視〉される
ことに耐えるだけの精度のブロックチェーン
として複製や再現し得る。

人間と機械を究極的に分け隔てるのはハード
ウェアの方であり、人間側からでも機械側から
でも歩み寄ることができるのであれば、人間は
妊娠、出産以外の方法で人間を複製できるように
なるはずだ。

2017-04-05

ビットコインとブロックチェーンの思想

現代思想2017年2月号「ビットコインとブロックチェーンの思想」
を読んだ。

ビットコインやブロックチェーンの技術的な解説としては、
小島寛之「ブロックチェーンは貨幣の本質か」がわかりやすい。
コチャラコータの「Money is Memory」という論文を取り上げ
ながら、ブロックチェーンを貨幣として用いる発想が、以前から
経済学の分野に存在していたと指摘しているのは興味深い。

ブロックチェーンというのは、あらゆるコミュニケーションの
履歴を含んだ記憶のことである。
藤井太洋はブロックチェーンのことを「かつて、こんな風に
データを保存する方法はなかった」と書いているが、
コミュニケーションの履歴に関する記憶が真正性を担保する
という意味では、「わたし」という個が同定される仕組みは
ブロックチェーンの仕組みと本質的に同じだと言える。

ブロックチェーンはある種の「固さ」をもち、それが物理的な
ハードウェアの「固さ」に依存できないサイバースペースの
心理的身体にとっての依拠すべき「固さ」になる。
その「固さ」によって、貨幣、国家、著作権、意識といった
既存の物質世界の秩序と置換可能な秩序がサイバースペースの
中に形成し得ると思われる。
物質世界における物理的身体上の心理的身体と同期した経験を
ブロックチェーンの形式で記録できれば、そこに個が生じる
ことも可能だろう。
ただし、ビットコインが既存の貨幣と接続することの困難以上の
困難が待っているとは思うが。

ブロックチェーンの有する、修正不可能性や暗号解読の困難さ、
PoWのコストといった諸性質は、いずれも上記の「固さ」を
実現するために必要不可欠だと思われる。
斉藤と中山の議論において、修正不可能性を解消したり、PoWの
コストを下げる話が出ているが、それでは本末転倒であり、
塚越が危惧するようなビットコインが既存の政治や経済の一部門
として吸収される事態につながるような気がする。
すなわち、ビットコインが電子マネーに堕してしまうのである。
むしろ、PoWが“労働”としてビットコインの〈モノ〉性を強化
するという大黒の指摘の方が妥当だと感じられる。
ただし、人間の記憶において忘却が可能であるのと同じように、
ブロックチェーンにおいても何かしらの「忘却」が可能になる
ことは考えられ、それはむしろ必要なことなのかもしれない。

大黒による、
ここにおいて暗号技術は、「公開鍵方式」の登場によって、
〈秘匿〉のテクノロジーから〈同一性〉証明のテクノロジー
へと変容を遂げる。
大黒岳彦「ビットコインの社会哲学」
現代思想2017年2月号「ビットコインとブロックチェーンの思想」p.164
という指摘は、上述のブロックチェーンと個が同定される
仕組みが本質的に同じだということと繋がる。
「暗号」空間において間主観的に承認されるハッシュ値の
経歴であるブロックチェーンは個そのものと言ってもよい。
ただし、ビットコインの利用者はハッシュ値として現れる
という意味では、「暗号」空間においてはイベントであり、
個と同一視されるのはブロックチェーンの方だと言うべき
かもしれないが。

大黒は信用と対比させるかたちで、信頼のことを
行為の相手方の一定の反応を期待した、リスクの引き受けを伴う、
相手方に対する行為者の〈投企〉である。
同p.170
と説明する。
ハイデガーの〈投企〉に加え、ルーマンの「信頼」の概念も
取り上げているが、個人的に投機的短絡と呼んできたものは、
これらの言い換えであったように思う。
共同体における「信頼」は「人格信頼」であり、それは個に
依存していたが、共同体が社会になることで「システム信頼」
へと変化する。
人格信頼がシステム信頼になる過程は、「暴力と社会秩序」で
述べられた非属人化と同じであり、大黒が指摘するように、
システム信頼において信頼されているのがシステムではなく
権威であるからこそ、ネットワークの非属人性がアクセス開放型
社会という権威への戸口条件となるのだろう。

属人的でもなく、権威も存在しない状況で“誠実”を調達し、
「アノニム信頼」を実現する様を形容して、
「ブロックチェーン」は〈欲望〉を〈誠実〉に転換することで
「アノニム信頼」を技術的水準で産み出す「信頼」“機械”である。
同p.176
と描写している箇所はとても気に入っている。
システム信頼がアノニム信頼へと変化することで、経済だけでなく
政治や宗教、あるいは個についても、権威に依存しない秩序形態
へと移行できるだろうか。
個はそもそもブロックチェーンのような仕組みで同定されている
のであれば、既に中央集権的でないのかもしれないが、人間を
ある種の特別な存在と考えてしまうこと自体、何かしらの権威に
依存していることの証左とも思える。
個はシステム信頼に拠っているだろうか、アノニム信頼に
拠っているだろうか。

サイバースペース上のブロックチェーンとして実装される個は、
ハッシュ値を供給する〈環−視〉する者の欲望を原動力にして
存続する。
〈環−視〉する者の役割は、物理的身体に実装された個が担う
こともできるが、果たしてそういった存在なしに、自律的に
駆動することもできるだろうか。
物理的身体に実装された個も当然同じ問題に直面しているはずだが、
もしかすると充足理由律こそが〈監視〉あるいは〈環−視〉する者
であり、その捉え方次第でシステム信頼とアノニム信頼のいずれの
形態でも存在できるのかもしれない。

2017-04-04

端末形態

インターネット端末のシェアでスマートフォンがPCを上回ったというディストピア

AndroidのシェアがWindowsを上回ったことについての記事。

記事中でデスクトップやラップトップに対してスマートフォン
が比較されているように、端末の形態によってできることは
異なる。
スマートフォンでもソフトウェアを開発することはできるのかも
しれないが、少なくとも個人的にはブログの記事すら書く気が
起きず、基本的には情報を取得するための端末になっている。
プログラミングや文章執筆といった、情報を抽象する作業は
ほとんどデスクトップで行う。

WindowsとAndroidの違いは必ずしもデスクトップとスマート
フォンの違いには一対一で対応しないかもしれないが、スマート
フォンに偏ることで、情報の取得方法だけが普及することに対する
危惧には概ね共感できる。
折角情報を発信する側に回れる機会なのに、結局のところ、
新たな形態のプロパガンダを促進するだけになってしまうの
だろうか。

記事からリンクされているTechchrunchのページには引用されて
いないのだが、この話でさらに考えさせられるのは、OS普及の
地理的な分布だ。
StartCounterのサイトにあるOS market share mapをみると、
その国で最も普及しているOSが、先進国と発展途上国で
WindowsとAndroidにきれいに分かれている。
怖いなーと思いつつ、この地図が緑に塗りつぶされることの
方が怖いのかもなーとも思いつつ。

ディザインズ

Amazonのおすすめに、五十嵐大介の「ディザインズ」という漫画が挙がっていた。Google Booksでサンプルを読んでみたところ、これは紙の本で読んだほうがよさそうだと思い、久々に漫画を紙媒体で購入した。

細かい線の集合が絵という一つの秩序をなしている感じがすごくよい。境界を明確に描くことで秩序を作るよりも遥かに難しいと思うが、生命という秩序を隔てる境界が本来的に多分に含む、ある種の曖昧さを上手く表現しているように思う。
境界は常に脆く不安定で曖昧である。維持するための不断のエネルギー摂取が不可能になったとき、その灰色の境界は崩壊する。
An At a NOA 2017-03-22 “灰色の境界
浦沢直樹の漫勉」の五十嵐大介特集において本人や浦沢直樹が語ることも、そういったあたりに繋がっているように思われる。
ある季節の、ある時間帯を体感した自分の感動、感覚をどう人に伝えられるか。それを、一枚の絵で描くよりも、シーンやセリフを連ねていって、自分の体験を、漫画を読んだときに、体験できるようにならないかな、みたいなことで描いている。(五十嵐)
自然物って、枝がどうなっているかなんて、分からないことだらけだし、そういうものを、分かる物として描いちゃうとダメなんですよ。分からない物として描く、そうすると自然物になるんですよね。(浦沢)

言語も本来は曖昧さを含んでいるはずが、送り手や受け手の使い方によって、明確なものになってしまうことがある。言葉によって抽象できない、というよりは、言葉で抽象することで、意図しない秩序に固定されてしまう、というのが、本当のところなのかもしれない。そこに陥らないために、物理的身体のセンサに頼るというのは健全な対応だと思う。物理的身体によって抽象されることで秩序は形成しつつ、心理的身体と物理的身体の距離感によって境界の曖昧さが残る、というか。

「ディザインズ」はストーリィ的にもSFを含んでいて興味深い。動物の人化、感覚の共有、環世界。哲学的だ。他の作品も読んでみようか。

Noto Serif

Noto Serif CJKが公開された。

サンセリフ体のNoto Sansは結構前に公開されていて、
Linux Mintだとデフォルトで入っている。
これまでも英数字はNoto Serifがあったのだが、
これでやっと日本語でも使えるようになった。

論文のフリーフォントには、日本語にIPA明朝とIPAゴシック、
英語にFreeSerifとFreeSansを使っているが、Notoフォントで
揃えられるのであれば、Noto SerifとNoto Sansに移行しても
よいかもしれない。

Noto Sansは早期アクセスでウェブフォントが公開されて
いるが、Noto Serifも公開してくれないだろうか。

2017-04-03

暴力と社会秩序

ダグラス・C・ノース、ジョン・ジョセフ・ウォリス、
バリー・R・ワインガスト「暴力と社会秩序」を読んだ。

暴力というのは、広義で解釈すれば発散のことであり、
その制御が秩序形成と関連するのは当然とも言えるが、
狩猟採集社会からアクセス制限型の自然国家、さらには
アクセス開放型の社会へと秩序のタイプが変化していく
様をとても滑らかな論理で繋いでおり、期待以上に
面白く読めた。

個人という、時間的にも空間的にも有限の発散の源から、
発散の構造を抽象することで、その制御が可能になる。
それは、人間が自らの物語を伝記から神話へと変換する
過程であり、燃焼や爆発といった急激な酸化から、錆の
ような緩やかな酸化へと移行することを彷彿とさせる。
三つの戸口条件、
  • 非属人的な関係
  • 永続的な組織
  • 暴力のコントロール
を満たし、厳密な移行と呼ばれる過程を経たアクセス開放型の
社会は、シュムペーターが創造的破壊と呼ぶ、緩やかな発散を
実現させるための檻を抽象したとみなせる。
その檻はコミュニケーションを抽象したものであり、
ノードとしての個人よりも、エッジの方が重要になる。
ノードは非属人化されることで代入可能な場所となり、
金融、運輸、通信といった何かが動くこと自体の方に
重きが置かれるようになってきた。
単一アクターモデルは内部で生じるコミュニケーションを
省略するために、本質を捉え損ねているという指摘は
的を射ているだろう。

本書を読んでいると、どことなくニック・レーンの
生命、エネルギー、進化」を思い出した。
アクセス制限型社会の中で戸口条件が形成され、
次第にアクセス開放型社会へと移行していく過程は、
アルカリ熱水噴出孔のまわりで生じていた地球化学的
プロセスが、対向輸送体の誕生によって生化学的プロセス
へと移行していく過程に通ずるものがある。
それは、社会も生命も同じように秩序として説明できる
ことを意味するだろうか。
それとも、人間の抽象過程のバリエーションは、結局のところ
同じようなものだということを意味するだろうか。

自然科学の分野との関連については触れられていないが、
その方面に展開するのも面白そうだ。
本書で「信念」という言葉で表現されるものには、当然
人文科学だけでなく、自然科学の知見も入ってくるはずだ。
地動説や進化論といった物の見方は直接的な影響を与えるし、
熱機関や医療といった技術によって、個体の領域が空間的にも
時間的にも拡がったことも、何らかの影響を与えているだろう。

18世紀の政治学者や経済学者がアクセス開放型としての在り方を
想像できず、自然国家の論理の中で社会のあるべき姿を描いたのと
同じように、今の人間はアクセス開放型の論理に縛られる。
Post-truthに対抗しようとしている21世紀初頭の社会は、23世紀の
人類の目にはどのように映っているだろうか。