2017-05-31

It's simple as tea

内容もよく、紅茶に例えているのもイギリスらしいのだが、
この動画のハイライトは間違いなくラストのジョークだろう。
An on that note, I'm going to go make myself a cup of tea.

Preserving digital art


Google Arts & Cultureより、デジタル空間における
芸術の保存について。

芸術が物理的実体とともに失うのは、それに依存した示し
による通信である。
ベンヤミンがアウラと呼んだものもおそらく同じであり、
物理的実体が発信する情報を物理的身体が受信するという
抽象過程が果たしていた示しの役割が失われることで、
芸術はどこか空虚で片手落ち感のあるものになってしまう。

しかし、語りと示しの区別の可変性のおかげで、それは
一時的なものになり得る。
これまでは語りの役割を果たしていた抽象過程の一部が、
ハードウェア的な性格を増すことで、示しとしての役割を
担うようになると、新しい形態の芸術として受容される
ようになるはずだ。
ハードディスクやファイル形式という意味でのハードウェアは
もちろんのこと、表現を成立させるための基盤となる共通認識
としてのハードウェアをつくらなければ、芸術は保存されない。

真、善、美といった、本来は語りの範疇にあると思われる概念が、
唯一絶対のものとして想定されるのも、固定化によって示しとして
機能していることの現れなのかもしれない。
Post-truthの時代において、こういったものを語りへと戻すのであれば、
代理となるものを示しとして採用する必要はないのだろうか。

恣意性の神話

菅野盾樹「恣意性の神話」を読んだ。

副題「記号論を新たに構想する」にも表れているように、
ソシュールを代表とする従来の記号論の問題点を指摘し、
メルロ=ポンティやグッドマンの思想をベースに記号論の
新しい在り方を提案している。
今読むと特に新しさは感じないが、20〜30年前に書かれた
これらの文章が、思想として広まったことの現れかもしれない。

具象は常に無相であり、それを抽象することで有相が得られる。
抽象とは、ある観点に基づいて無相のもつ情報量を減らし、
圧縮する過程であり、結果として得られた有相の無相に対する
関係が記号と呼ばれる。
この情報量を減らす過程を、著者は「ラベル貼り」とも呼ぶが、
これは情報量の削減よりも、相(かたち)を与えることに
重点を置いた形容の仕方だと言える。
あるものが記号なのか記号でないのかは、そのもの自体だけでは
定められず、抽象過程を想定することで初めて定められる。

観点は同一性の基準であり、通信プロトコルとなる。
無相の情報は、観点というフィルタを通過することで有相となり、
構造を獲得することから、観点の種類に応じて記号が分類される。
慣習的記号と自然的記号、語りと示し、メトニミーとメタファー、
外延指示と非外延指示、理由付けと意味付け。
これらの分類は概ね一致しており、その違いは理由の有無にある
ように思われる。
前者はよりソフトウェア的、後者はよりハードウェア的であり、
ソフトウェアはハードウェアよりも高速に変化することができる。
ハードウェアでは変化速度が遅いために観点が固定化したものの
ようにみられるが、ソフトウェアでは速度が速く、観点の違いが
通信エラーを生じ得ることで観点自体が顕現し、それが理由と
呼ばれているように思う。
理由付けによる抽象が投機的短絡として投機性を帯びるのは、
観点のズレの可能性に由来しているように思われ、この投機性の
ことを、ソシュールは恣意性と呼んだのかもしれない。

あらゆる抽象過程をソフトウェアとハードウェアに分類できる
のであれば、ソフトウェアの領域に限って恣意性の原理を
打ち立てることはできるかもしれないが、物理的身体のような
ハードウェア的な抽象過程を除外している点と、ソフトウェアと
ハードウェアの区別が二値的なものだと仮定している点は、
著者が主張するように批判されるべきだろう。
すべての情報を示しに頼ることなく語りのみによって記号化
できるという想定もまた、通信のハードウェア依存を解消できる
という信仰、あらゆることに理由付けできるという信念である。
ラッセルがそこに拘泥していた一方で、ウィトゲンシュタインは
示されうるものは、語られえない。
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」四・一二一二
と述べ、その信仰の限界を認識していた。

通信プロトコルに従った情報の落とし込みが完全でない場合、
当該記号はイメージと呼ばれる。
イメージもまた記号一般と同じように、それ自体ではイメージか
否かは判断できず、通信プロトコルとの組み合わせで決まる。
専門家同士の通信、専門家と素人の通信、素人同士の通信では、
通信プロトコルの基盤となる共通認識が異なるため、ある場合には
イメージに過ぎない記号も、別の場合にはもっとはっきりとした
記号になる。
「はっきりとした」というのは、著者の言葉を借りれば「〈綴り〉
を獲得した」と言い換えられるかもしれない。

絵画や音楽と言語の比較、特に絵画の並立性と言語の線形性の話
もまた、示しと語りや意味付けと理由付けの違いと同じである。
線形性の含む順序構造はエントロピーや時間と同じ概念であり、
predecessorとしての理由を仮定する充足理由律と表裏一体である。
絵画の線形性といい、言語の並立性といい、真面目にそれらを
解さねばならない。
菅野盾樹「恣意性の神話」p.147
というのも、上述したソフトウェアとハードウェアの区別の
不可能性と通底している。
「記号過程の表情原理」というのも、ソシュールらが無視してきた
物理的身体というハードウェアの影響が、心理的身体=意識という
ソフトウェアの抽象過程に見て取れることを表している。

抽象過程の連続としての世界を内部と外部に切り分け、外部から
それを観察して記述できるというモデルには自ずと限界がある。
人間もまた物理的身体と心理的身体という共存した二つの抽象過程
として捉えられるのであれば、心理的身体にあたる意識が抽象過程の
連続の外側にあることはあり得ない。
充足理由律を適用しながら理由の連鎖を遡った果てに、特権的な主体
という想定が屹立していたのであれば、近代は充足理由律の罠に
かかったまま語るに落ちていたと言える。
現代では、ディープラーニングのような示しによる抽象過程によって
AlphaGoの囲碁が生まれ、「あなたの人生の物語」で描かれたような
同時的意識との通信の在り方はますます主題化しつつある。
語ることによって人間が他の存在から峻別されるのであれば、
人間は語ることをやめられない。
しかし、語るだけでは示されるものと共存できない。
物理的身体と心理的身体という二つの抽象過程のいずれにも偏らず、
語りつつ示し、示しつつ語るのがよいと思われる。
これはおそらく長いこと人間がやってきたことだが、語るに落ちず、
示すに落ちずというバランスをいつまで保てるだろうか。
そして、語りと示しの区別もまた、ソフトウェアとハードウェアの
区別と同じように可変的であることは忘れないでいたい。

2017-05-29

AlphaGoの囲碁

The Future of Go SummitはAlphaGoの全勝で幕を閉じた。

囲碁プレミアムの孔令文七段と大橋拓文六段の解説を
一通り見たが、人間が長い時間をかけて構築してきた
囲碁の理論によってAlphaGoの囲碁を語ることの限界が
よく現れていたように思う。
もちろん、語ることのできる部分も多く、解説の二人が
言うように、そのことは人間の囲碁理論のある意味での
正しさを示しているとも言える。
しかし、とっさに打たれた意味のわからない手に太刀打ち
できなかったり、柯潔九段に目立った失着がないにも
関わらず勝てないのは、AlphaGoの囲碁が人間には語れない
ものになっていることを示している。

ウィトゲンシュタインは、
示されうるものは、語られえない。
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」四・一二一二
と言った。
ウィトゲンシュタインの語りSagenと示しZeigenが
理由付けと意味付けに対応するのであれば、その違いは
理由の有無になる。
理由なく示されるものに理由を付けて語ること。
それは困難であり、あるいは不可能でさえある。

AlphaGoは、ディープラーニングという理由を介さない抽象に
よって囲碁を習得することで、語りによる囲碁ではなく、
示しによる囲碁を打てるようになった。
「示し得るものは、語られ得ない」のであれば、AlphaGoの
囲碁を語ることはできない。
部分的にできたとしても、語り尽くすことはできないだろう。

語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」七
というウィトゲンシュタインの言葉はあまりにも有名だ。
聞いたことはあったが詳しくは知らなかったこの言葉も、
語りと示しの文脈で捉えると、理由付けできない対象の存在を
認めるものとして受け取ることができる。
しかし、「沈黙」は何もしないということではなく、おそらく
示し得る余地を残したものであると思われる。

第二戦前半や、団体戦の白58〜白60を読めていたあたりに、
AlphaGoの示しによる囲碁に対して、語りではなく示しによって
ついて行こうとする柯潔九段の姿が見えるような気がする。
今回を最後にAlphaGoの囲碁は見納めとのことだが、語り得ぬものに
如何に対峙するかという問題はこれからますます増えていくだろう。
示しによって習得するという、物理的身体に依存した修行のような
伝達過程を、心理的身体はどのくらい辛抱強く続けられるだろうか。

2017-05-30追記
AlphaGo同士が対局した際の棋譜が公開された。
AlphaGo vs AlphaGo
もはやわけがわからない。
人間との対局では、逐次的意識をもつ人間の囲碁が語りうるもの
であることで、AlphaGoの囲碁も語れる範囲が大きかったが、
同時的意識しか存在しない対局はただただ示されるだけであり、
人間が語りうる余地はほとんど幻想のように儚くみえる。
純粋に本能的に、似顔絵をスケッチするように囲碁を打つのが、
境界条件の変化しない世界では最強なのだろう。
理屈なんて考えていたら追いつかない。
An At a NOA 2016-03-11 “論理的思考の限界

長崎旅行2017

約三年振りに長崎へ行ってきた。

あまり足を伸ばす時間もないので、歩いていける範囲で
前回行けなかったところに行ってみた。
亀山社中記念館一帯、興福寺、日本二十六聖人記念館と
聖フィリッポ教会、諏訪神社。
途中、ニッキー・アースティンでトルコライスを食べ、
大和屋でコーヒー豆を買う。
最近、行く先々でコーヒー豆を買っている気がする。

16時前には見終わったのでもうホテルに行っても
よかったのだが、散歩をしに山手一帯へ。
松が枝のターミナルに豪華客船が寄港しており、
大浦天主堂のあたりは中国人が多かった。

五島うどんを食べてからホテルにチェックインし、
風呂に入ってAlphaGoの最終戦の動画でも見ながら
部屋飲みするかと思っていたら、友人からからあげと
餃子のいい店の情報をもらったので、ちょっと夜の街へ。
とり福で生中とからあげ、雲龍亭で生中と一口餃子だけ
注文して長崎の夜を堪能する。

前回とはまた少し違った長崎の旅になった。
市内を歩いているとき、ふとした瞬間に切り取られる
斜面に立つ家並みに長崎らしさを感じる。


2017-05-26

ハイブリッド・リーディング

日本記号学会「ハイブリッド・リーディング」を読んだ。

openやcreateによってファイルディスクリプタを用意し、
writeによって有相の情報を書き込む。
有相の情報は書き込まれることで無相の情報に戻り、
再び有相となるためにはフォーマットの情報が必要になる。
readする際には、ファイルの中身や拡張子、ソフトウェア等
によってフォーマットが仮定され、ある有相として読まれる。

技術の発展とともに、埋め込める情報の量、フォーマットの
指定の仕方、誤り検出訂正に関する冗長性、情報の劣化に
対する頑強性、時空間をまたぐ能力等は変化してきたが、
readとwriteの上記のような関係は概ね同じだったと想像する。
どのような情報が、どの範囲に、どの程度の確実さで伝え
られるかという点に対して技術が占める役割は大きく、
送受信側のそれぞれが目的に応じて適切な技術を選べるようで
あって欲しいと思う。

著者と読者の間で一意的に解釈可能な言語が共有されており、
著者の意図した有相がその言語で完全に表現できるのであれば、
視覚でも聴覚でも触覚でも、その言語をエンコードできる媒体
であれば、劣化がない限りは、どのように伝達しても情報は
確実に伝わる。
しかし、そういった通信プロトコルが存在しない場合には、
目、耳、手等、使えるあらゆる通信路を駆使することで、
著者の意図した有相と読者の想像した有相を可能な限り
一致させる努力をする余地が生まれる。
本書でも取り上げられる杉浦康平によるブックデザインに
代表されるような、紙の書籍に対して施されるフォントの種類、
サイズ、色、文字組、紙の色、手触り、厚み、本体のサイズ
といった要素への情報の埋め込みは、著者や装丁家といった
送信側によるその種の努力である。
受信側の読者としてはそういった手がかりに助けられながら
送信側の意図を高いリテラシーで想像する楽しみがあるし、
読書会や書評において今度は読者が送信側になり、受信側と
なった著者らとのコミュニケーションにおいて、何かしらの一致が
感じられたら嬉しくもあるだろう。
同一性の成立は快の感情と関係があるように思われる。

技術によって情報が外在化されるというのは、人間という
内部を想定した言い方であり、人間もまた秩序付けられた
情報だと思えば、技術によって可能になるのは、情報の
秩序付けを新しい方式で施すことである。
外在化された情報は、書物として具体化するかもしれないし、
道具として具体化するかもしれないが、どのような形式にしろ、
常に有相を剥がされ、無相となる可能性をはらんでいる。
技術が途切れることでその可能性は高まるが、それはかつて
人工だったものが新しい自然になる現象であり、それが秘める
ある種の怖さが、外在化された情報の脅威として映るのかもしれない。
特定の技術にあまりに適合してしまうことは局所最適化であり、
写研の凋落のような事態をもたらしたが、それはおそらく読者、
あるいは人間としても同じである。
技術が変化する限りはそれに合わせて変化する必要もあるが、
願わくは変化前のよいところを引き継いでいきたい。

西兼志によるピエール・ブルデューの「ハビトゥス」の話や、
佐古仁志によるパースの「アブダクション」、グッドマンの
「投射」の話も興味深かった。
「驚きsurprise」によって「意味」が獲得されるというのは、
発散の必要性から投機的短絡が生じるということとして
解釈できるかもしれない。
シニフィアンとシニフィエの結びつきの恣意性も、投機的短絡
から生まれるのかもな、ということを考えた。

義務教育

義務教育は、心理的身体層における通信プロトコルを共通化するためのインストーラのようなものだ。

眼や耳、鼻、皮膚といった物理的身体層のプロトコルは、ハードウェア特性として埋め込まれている。眼であれば400nm〜800nm付近の1オクターヴの電磁波、耳であれば20Hz〜20000Hz付近の10オクターヴの音波、といった具合だ。心理的身体層のプロトコルは、音楽や言語等、多岐に渡り、親子や友人といった様々な関係における通信によって次第に形成され、常に変化している。プロトコルは通信するノードの集団ごとに共有されていれば十分であり、家族内でしか通じない言葉や、民族内でしかわからない音楽は発生し得る。

国家を集合として成立させ続けるにあたって、通信プロトコルを維持するための試みが義務教育の目的の一つであり、そこでは教師から生徒への通信プロトコルの伝授や、生徒間での通信プロトコルを用いた通信の実践がなされる。具体的な個々の知識はもちろん蔑ろにできないが、むしろ大事なのはそれらがどのように位置付けられているかを知ることで、ある発信がどのようなものとして受信されることが期待されるかを共有することが、義務教育の要なのではないかと思う。

国家を閉じた集合とみなせなくなり、新しい通信主体として外国人を想定する必要が生じたことで、義務教育に英語が導入されたように、プログラミング教育を導入する意味は、通信自体の変化や通信主体の追加に伴う通信プロトコルの変化への対応という文脈で捉える必要があると考えられる。
プログラムは書いたとおりにしか動かず、こう動くように書いたという想定と、こう書いてあるように動いたという結果のズレであるバグのすり合わせは、一種のコミュニケーションであり、それがプログラミング教育の目的になり得る。
An At a NOA 2017-05-19 “構文糖衣
義務教育によって共通の構文糖衣を着せられることは、果たして統制として糾弾されるべきことだろうか。しかし、それは集団を成立させることと表裏一体であり、集団の中の人間として生きる限りにおいては、何らかの構文糖衣を身に纏うことからは逃れられないように思う。

2017-05-23

AlphaGo2017

AlphaGoと柯潔の1戦目はAlphaGoの1目半勝ちだった。

趙治勲の解説がヒカルの碁を彷彿させるようで面白かった。白30に対して「わからない、感動的」だと言っていたこと、そこから50手目くらいまでで、柯潔のミスがないのに形勢が決まってしまったこと、白72が極めて悪い手だったこと。こういった人間が積み重ねてきた囲碁の理論のストーリィで語れるものとしてAlphaGoの手を理解するのはもう無理なのだろうなと思う。まるで「あなたの人生の物語」のヘプタポッドの同時的意識とコミュニケーションをとっているような感じだ。逐次的意識は、自分の論理ではわからなったものを自然として放置するのではなく、結果論でもよいから理由を付けることで人工に引き寄せる努力を、どこまで続けられるだろうか。

BLAME!

映画「BLAME!」を観てきた。

ストーリィは原作とは違っているが、本人が本格的に
製作に関わっているらしく、弐瓶勉の新作として
楽しめたのはすごくよかった。
3DCGもかなりきれいに仕上がっていて、駆除系の
動きの恐怖感と、人間の動きのなめらかさが印象に
残っている。

「BLAME!」の世界というのは、人工が自然化した
状態だと言える。
かつて自然を理由で塗りつぶすことで人工にした人間は、
ネット端末遺伝子を失うことで、理由の連鎖が織りなす
ネットスフィアへのアクセスを断たれる。
既に把握できなくなった理由によって制御されたセーフ
ガードはもはや自然現象であり、それに対してネット端末
遺伝子をもたない世代なりの理由が付されることで社会
現象化し、自然現象は災害となる。
災害とは、社会現象化した自然現象である
An At a NOA 2017-03-14 “都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化
おそらく、この世代の人間にとって、ネットスフィアは
神々の住まう国であり、統治局は神のように感じられる
だろうから、肉体と精神が分離した近代的科学者のシボ
だけがそこに近づけたというのは象徴的だ。
理由の連鎖が一度途切れてしまうと、新たな自然として
立ちはだかるというのは、大小さまざまなスケールで
起こってきたし、これからも起こっていくように思う。

あるいは、神林長平「ぼくらは都市を愛していた」のように、
「各各〈独り〉で生かすことができる能力を持っている、マシン」
である〈都市〉と、「〈独りでは生きるな〉と命令し、強制
していた」〈田舎〉を対比させて、都市論としてみてみるのも
面白いかもしれない。

2017-05-22

ネーターの定理

植田一石「数物系のためのシンプレクティック幾何学入門」を読んでいると、Noetherの定理というものに出会った。

系の対称性と保存則が同一のものであることを述べたこの定理は目から鱗だった。
  • 空間の並進対称性は運動量保存則=作用反作用の法則
  • 空間の回転対称性は角運動量保存則
  • 時間の並進対称性はエネルギー保存則
にそれぞれ対応するというのは、あまりにきれいすぎて感動を覚えるレベルである。

力とは、変化の原因のことである。これは自然科学でも人文科学でも共通だと思うが、ニュートン力学の文脈においてすら、この力というものが、実際問題何であるのかというのはいまいちわからない。
  • 空間の並進対称性に対応する運動量の時間微分
  • 時間の並進対称性に対応するエネルギーの位置微分
の両者がいずれも力になるというのは、変化する対象を空間と時間の両面から観察した結果が力に関係していることを示唆しているように思えるが、時空の並進対称性と普遍性/不変性、力の関係はどのように整理できるだろうか。

2017-05-21

メッセージ

ドゥニ・ヴィルヌーヴ「メッセージ」を観てきた。

ヘプタポッドBを、墨を円状に流したような図形で
表現したのはよかったと思う。
映画の前半で、主人公がヘプタポッドと対面し、
その文字を引き出すシーンあたりまではとてもよく
世界観が作れており、コミュニケーションが始めて
成立したときは結構ぞくぞくした。
後半は、オリジナルのストーリィでオチをつけに
いったが、これは上手くいっていないと感じた。

テッド・チャンの「あなたの人生の物語」では、
逐次的意識をもつ人間と対比させ、ヘプタポッドは
同時的意識をもつものとして描かれた。
これはもちろん映画でも踏襲されているのだが、
一番重要だと思われるこの要素があまり強調されて
いないようにも思われる。
逐次的意識と同時的意識の違いの着想に至ったと
思われるフェルマーの原理を端折ってしまったことが
残念だったし、逐次的な「わたしの人生の物語」と
同時的な「あなたの人生の物語」の差を、「わたし」
という一人称で語ることで巧みに生み出していた感じも
なくなってしまっており、原作のもっていた認識論や
時間論にも通ずるような洞察の深さは薄まっていた。

同時的意識にとっての世界は、曼荼羅のような、すべてが
調和した絵画を眺めるようなものだと思われる。
そこには順序構造によって語られるストーリィの代わりに、
事柄同士の順不同の関係によって出来上がる構造が示す
調和としてのストーリィがあり、ヘプタポッドが問うのは、
「なぜ」ではなく「どのように」であると考えられる。
それらは本来、「なぜ」に対する答えをもっていないはずで、
人間の側が「なぜ」を問いたくなるのはわかるが、ヘプタ
ポッドがそれに対する答えをもってしまうのは変だと思う。

人間が観るためのものを映画というメディアで表現する
ことが、順序構造によってオチをつけることを要求する
のだとすれば、「あなたの人生の物語」のテーマをこの
スタイルで提示するのは合っていないのではなかろうか。
順不同で次々と事柄が提示され、新しい事柄が提示される
ごとに他の事柄は再解釈された末に、すべてが提示された
瞬間に、立ちどころに全容が把握されるようなスタイル
であれば、同時的意識の「時間」感覚に近くなるように
思われるが、果たして逐次的意識しかもたない人間は、
それを理解できるだろうか。

多分、こういったことが気になってしまうのは、構成を
わかりやすくするために「わたしの人生の物語」を拡充した
結果、逐次的ストーリィと同時的ストーリィのバランスが
崩れてしまったように感じるからだろう。
時折挿入される「あなたの人生の物語」の部分はよかったと
思うので、逐次的意識では受け入れるのが困難な娘の死を、
同時的意識を獲得することで受け入れるだけの強さを得た
ということにもう少し集中してもよかったかなと思う。
芝居を見て、人が避けられない事態に対処する話のなかで、
変分原理を使えるかもしれないと思いついた。
テッド・チャン「あなたの人生の物語」作品覚え書きp.497

サウンドボックス

最新の音響テクノロジーで、魅力ゼロの施設が「人気のコンサートホール」
に生まれ変わった


サンフランシスコにある「サウンドボックス」という施設についての記事。この施設では、マイクロフォンとスピーカを使った「Constellation」というシステムを使うことで、空間の音響特性を変化させられるようになっている。残響時間を長くすることで、まるでカテドラルで演奏しているかのように聞かせることができる。技術的にはノイズキャンセリングのように、残響時間を短くして無響室に近づけることもできるようになるだろう。

これまでは一体であった空間の視覚特性や聴覚特性は、人間をセンサの集合体だとみなすことで技術的に切り離すことができるようになる。究極的には共有する物理的な空間がなくても、情報として仮想的な空間を共有することが可能だが、この音響システムのように物理的な空間の特性をいいとこ取りして、共有している感覚は低コストで実現するARの方が、しばらくは受け入れられやすいように思う。

移動のコストが増えるに従って、物理的に集合させるよりも仮想的に集合した感覚をつくる方にコストがかけられるようになり、普及価格帯はVRで、高価格帯はARで、ということになるのかもしれない。

現代数学入門

遠山啓「現代数学入門」を読んだ。

数学に「構造」という言葉が持ち込まれたのはブルバキの
「数学の建築術」によるらしい。
数学は自然科学とか社会科学とかいう分け方ではなくて
「構造の科学」といったほうが性格をよく表している。
遠山啓「現代数学入門」p.108
と書かれているように、「数学ができる」というのは、
物事の具体性を捨象して、共通部分である構造を想定
できるということだ。
アンリ・ポアンカレが「科学と仮説」で述べた、
事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様である。
ポアンカレ「科学と仮説」p.171
という話もこれに似ている。
森博嗣はこのことを、
「その……、思考の複雑性が、数学を生んだのです」
「単純な思考装置は、物事を単純に考えようとは思わない、
ということですね」
森博嗣「私たちは生きているのか?」p.194
と表現した。

個々の具体的な情報に触れているだけでは、人間には処理し切れない。
これとこれはこういう観点では同じだとみなすことで楽をしようと
することが構造を抽象する過程であり、何かを認識することですら、
既に抽象を経ている。
無相の情報を認識する過程、認識した情報から知識をつくる過程、
個々の知識の寄せ集めから理論をつくる過程、というように、
構造を抽象する過程は次から次へと連なっていき、著者も言うように、
この構造的にとらえるということは、数学以外のことをやっている
人がさかんにやっていることです。というよりは、人間はみんな
構造的にとらえることができる能力をもっている。
遠山啓「現代数学入門」p.108
構造的にとらえること自体を構造的にとらえたのが数学であるから、
本来は、具体的な情報の集合から構造を抽象する過程として数学を
学べるのがよいと思う。
テスト問題と解法パターンを結びつけるのはまさにこれであり、
数学の成績がいい人間は、単に数学の知識がある以上に、構造的に
とらえることについて意識的であることが関係していると思うのだが、
そのことを数学的だと表現しているのはあまり見かけない。
数学が苦手なことを自認している人間が、何らかの具体的な知識が
不足していることをネックだと考えているのだとしたら、まさに
その事自体が数学が苦手なことを端的に表している。

2017-05-19

意味の変遷

言葉の意味は時代を反映する。

かつてcomputerは計算する人間を意味したが、今では計算する機械を意味することがほとんどだ。人間が車を運転しない、あるいは移動すらしない時代がきたら、driveという単語の意味は、disk driveのように情報の移動に関するものの方が一般的になる可能性もある。「ドライブに行く」という文を、「車を運転する」の意味よりも、「Googleドライブにアクセスする」の意味に使う方が、もしかすると既に多いかもしれない。

テック企業が将来の絵を描くという点では、企業名である「google」や「ググる」が「search」や「調べる」という動詞を侵食しているのに対し、それ以外の例はまだない。次に可能性があるのは、buy→amazonだろうか。

構文糖衣

Google I/O 2017でAndroidの主要開発言語にKotlinが加わった。クラス定義が劇的に短くなったり、Java→Kotlinを自動変換したりというデモを見ていると、KotlinもまたJavaの構文糖衣になっているということがわかる。

プログラムをつかって問題を解くことを主題にした講義はもちろん、プログラミングそのものの教育においても、何をどこまで教えるかというのはとても難しい。トランジスタの仕組みやNANDの完備性を知らなくてもCPUやフラッシュメモリは使える。命令セットの詳細を知らなくてもプログラムは書けるし、プログラムが書けなくてもアプリは使える。一人の人間がすべてを知らなくても何かが実現できる状態をつくるためのカーテンが構文糖衣であり、それは隠蔽よりも分離として捉えた方がよい。

何かに構文糖衣を着せることは、目的によってよいことにもなるし、悪いことにもなる。それは構文糖衣を脱がせることも同じだ。プログラミング教育を始めるのはよいが、目的がないことにはアプリケーションの構文糖衣をどこまで脱がすかが決められない。
文科省の言う「プログラミング的思考」とは、こういった特性をもつ、人間とは異なるシステムとのコミュニケーション能力に近い。目的を明確にすることで、あらゆることを精度よく高速に行えるが、明確化の精度をかなり高いものにしないと思ったようには動かない。ある種のカルチャーギャップである。
An At a NOA 2016-06-17 “プログラミング教育2
というカルチャーギャップを埋めるためのコミュニケーション能力を身に付けることが目的であれば、プログラミング言語の文法の詳細は構文糖衣に包まれている方がよい。文法が簡単になったとしても、慣れない内はバグにたくさん遭遇するだろうが、プログラムは書いたとおりにしか動かず、こう動くように書いたという想定と、こう書いてあるように動いたという結果のズレであるバグのすり合わせは、一種のコミュニケーションであり、それがプログラミング教育の目的になり得る。
プログラムには様々なモデル化が関係するが、そのモデル間の齟齬がバグと呼ばれるものである。
An At a NOA 2017-02-16 “バグのないプログラム
アプリケーションがよしなに動いているように感じたとしたら、その挙動が予測され、よしなに動くようにプログラムがコードされているからである。個々のアプリケーションを使う限り、そのモデルが張る解空間の中でしか動けないこともまた、認識されるべきだろう。

不安な個人、立ちすくむ国家

こういった資料が国をつくる側から出てくるのはとてもよいと思う。
データの取り扱い等、大事だが細かいツッコミはさておき、
国が進むべき方向を示せなくなったことを、国側が発信できたのは
大事だと思う。

「権威が規律」の時代が「早すぎる変化」に対応できず、
進むべき方向を共有できなくなることで集団が崩壊する。
進むべき方向を示せているのはむしろ民間で、Googleや
Amazonを筆頭に、集団を形成できるだけの絵を描けている。
現代ではこういった絵を描く役割が、政治家から企業に移って
きている気がする。
企業といってもソニーやトヨタのような伝統的なところではなく、
GoogleやAmazonのようないわゆるテック企業の面々だ。
An At a NOA 2016-03-05 “絵を描く
かといって、Google I/O 2017であれだけAIを前面に押し出されると、
ちょっと辟易してしまうが。
変化速度というのはある程度ゆっくりでないと滑らかに接続できない
のかもしれない。

生存、労働、消費といった、「やらなければならないこと」という
ハードウェアは、主義によって示される進むべき方向がなければ
急速になくなっていき、何もしなくてよくなった人間にとって、
意識は不要なものになり得る。
何もしなくてよいというのは、如何にして行動をし続けるかを目指して
形成されてきた判断機構=意識に対する、究極の試練となるように思われる。
An At a NOA 2016-06-15 “労働価値のコンセンサス
意識というのは、常に現在に対して不満を覚える必要があって、
完全に満足した現在を認識したら、意識はその役目を終えて
消え去ることができるのではないかと思う。
AIによって不満が次々と解消されていくのは、判断基準としての
意識にとってはある種の恐怖だという認識はもっていてもよい。

資料の末尾において、じゃあどうすべきかという議論がなされるが、
それを国家ができなくなったというのが論旨の一つだと思うので、
ハードウェアとして機能するのは必ずしも国家ではないという選択肢や、
ハードウェアとソフトウェアの区別なく秩序が形成される可能性は
考慮してもよいと思う(国を存続させるのが役人の仕事だと思えば、
そうはいかないのかもしれないが)。
国家に限らず、誰もどうすべきかを提言できなくなる時代も来るかも
しれないが、マストドンで特定のインスタンスにユーザが集中する
現象を考えると、ハードウェアとして機能する中央を欲しがるという
人間の性質は根強いと思われるので、それはしばらく先だろう。
そうなると、「秩序ある自由」の状態にはなかなか移行できないが、
そもそも、近代において国民国家Nation-stateとともに生まれた
個人individualという単位は、「秩序ある自由」の時代に存続し得る
のだろうか。

現在に対する不満への問いだけが、何もしなくてよい状態で意識を
存続させるのであれば、責任、自由、集団、個人といった既存の概念が
成立し続けるか否かも視野に入れて考え続けるしかない。
この資料が話題になって、この種の問いが広がることが、この資料の
最大の役目と言えるだろう。

2017-05-18

集合論入門

選択公理に関連して、赤摂也「集合論入門」を読んだ。
ツォルンの補題の極大元と神の話はちょっとずれて
いたかもしれない。

有限集合の場合には選択公理を採用しなくても
整列順序付け可能なので、人間の物理的身体への
入力が有限集合とみなせるのであれば、選択公理を
仮定せずとも、そこから一部を取り出して整列順序
付けられた入力データの列として心理的身体を構成
できるので、意識の実装と選択公理を結びつける
ことは的外れなのかもしれない。

ただ、人間が不老不死になったとき、物理的身体の
センサ特性は更新されず、入力されるデータは
無限集合とみなせると思われるので、そのような
人間は、選択公理を採用することで時間を再獲得
するというストーリィも考えられる。

今更ながらに思えば、スカイ・クロラシリーズで
描かれたキルドレの感じる世界というのは、
そういった時間感覚に支配されているように思う。
シリーズを通した時系列が追いづらいのもそのことに
対応していて、あれをシリアルなものとして再構成
することには全く意味がないのかもしれない。

体外離脱

体外離脱は、心理的身体が物理的身体から抜け出すような
ものとして描写されるが、物理的身体への入力データを
心理的身体として取捨選択する際の構成の変化の結果として
理解できるような気がする。

そもそも、目から入ってきた視覚情報から充足的視覚空間
三次元空間として立ち上げられること自体が劇的に興味深い
ことなのに、少し違うかたちで充足的視覚空間が形成された
結果とみなせると思われる体外離脱だけがあり得ない異常な
ものとみなされる謂れはないはずだ。

2017-05-17

人間の未来

atプラス32「人間の未来」を読んだ。

冒頭の対談をはじめ、面白いと同時に考えるきっかけとなる
記事が多かった。

生命がエントロピーの問題として設定でき、固定化と発散の
微妙なバランスの上で成立しているのであれば、そのバランスを
崩すようないずれか一方への偏りを避けるのがよいと思う。
固定化への対策として、生殖や意識が実装されることでエラーが
導入されてきたのであれば、それをなくす方向に変化する場合には
別のエラー導入経路を実装しないとバランスが崩れるように思う。
意味付けによる物理的身体は生殖や発生の過程でエラーを導入し、
理由付けによる器官なき身体は理由の連鎖の過程でエラーを導入する。
An At a NOA 2016-11-12 “理由の連鎖
こうして導入されたエラーによって固定化を免れたからこそ、
生命という抽象過程は局所的最適化に陥らずに済んでいるのだろう。
An At a NOA 2016-11-02 “SAIKAWA_Day19” 
発散への対策として、生存、労働、消費といった「やらなければ
いけないこと」がハードウェアのように機能してきたのであれば、
これらに依存しない代わりに、新しい拠り所を実装する必要が
あるように思う。
ハードウェアに依存する必要はないが、それに代わる
同一性の仮定の基盤を要する
An At a NOA 2016-11-13 “SAIKAWA_Day30
何もしなくてよいというのは、如何にして行動をし続けるかを目指して
形成されてきた判断機構=意識に対する、究極の試練となるように思われる。
An At a NOA 2016-06-15 “労働価値のコンセンサス
こういったことは、対象となる分野によらず、必ず直面する問題に
なると考えられる。

稲葉振一郎の言う「ミドルレンジ」の考察を行うには、何が可能か
という問いとしての技術と、何を許容するかという問いとしての倫理が
主に関わってくる。
技術と倫理はいずれも理由付けであり、意味付けによる判断が
「ショートレンジ」に留まらざるを得なかったのに対し、
理由付けによって「ミドルレンジ」から先が視野に入った。
思考によって自然を人工として切り取る選択肢を発散させる一方で、
技術と倫理によって選択肢を絞ることが、人間らしい固定化と発散の
バランスの取り方になるはずだ。

倫理については、
おそらく、倫理というエゴイズムを貫くには、correctであることを
諦めざるを得ない。
実装した意識によって、正義を変形させることで獲得した倫理のために、
correctnessは損なわれた。
correctnessを回復しようとするあまり、倫理の方を見失うようでは
本末転倒なのではなかろうか。
An At a NOA 2016-11-30 “倫理というエゴイズム
ということも忘れずにいたい。

2017-05-16

選択公理と意識の実装

任意の集合が整列順序付け可能であるという整列可能定理は、
選択公理やツォルンの補題と同値らしい。

整列順序は整礎な全順序関係のことらしいので、任意の集合を、
ある要素をスタートにして一列に並べることができることになり、
任意の集合に対してエントロピーが定義できることになる。

ツォルンの補題、
半順序集合Pは、その全ての鎖(つまり、全順序部分集合)がPに
上界を持つとする。
このとき、Pは少なくともひとつの極大元を持つ。
Wikipedia “ツォルンの補題
における極大元はこのスタート要素に対応し、充足理由律の
文脈では神に対応する。
極大元が一つなら一神教になるし、複数なら多神教になる。

つまり、意識を実装することは、選択公理を採用することと
同じことなのではないかという推測が成り立つと思われる。
選択公理とは、どれも空でないような集合を元とする集合が
あったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して
新しい集合を作ることができるというものである。
Wikipedia “選択公理
物理的身体でパラレルに処理される情報を「どれも空でない
ような集合を元とする集合」とみなし、「それぞれの集合から
一つずつ元を選び出」すことによって作られた新しい集合が、
心理的身体という新しい身体が処理した情報とみなされるの
ではないか。

その新しい集合は整列順序付け可能なので、一意的なエントロピーが
定義されることで一方向に流れる時間の中に置かれることになり、
意識はシリアルなものとして実装される。
理由付け回路は一つであることが、実装上の
要件定義になっているのではないかと思う。
An At a NOA 2016-09-16 “意識の並列化
充足理由律というのも、その集合の全順序という性質から
生まれるのだろう。

2017-05-15

人間はなぜ歌うのか?

ジョーゼフ・ジョルダーニア「人間はなぜ歌うのか?」
を読んだ。

ポリフォニーの方がモノフォニーよりも先に生まれた
という、一般的な音楽理論とは異なる仮説が提示される
ことで、一気に興味がそそられる。
第一部でポリフォニーの形態や分布について述べられて
いる段階ではまだ半信半疑なのだが、第二部になって、
音楽の起源、意識の起源、人間の起源まで含むかたちで
仮説が展開されると、あり得るというよりもかなりの
整合性をもった仮説のように感じられてくる。

地上に住んでいながら歌う唯一の種、それが人間なのである。
ジョーゼフ・ジョルダーニア「人間はなぜ歌うのか?」p.137
人間とチンパンジーの共通祖先が樹上から地上に降りたとき、
チンパンジーは沈黙し、人間は歌い続けた。
それは防御戦略として「隠蔽擬態」をとるか「警告擬態」を
とるかの違いであり、人間は後者を選択し、聴覚−視覚−嗅覚−
威嚇誇示(AVOID)を用いる戦略をとった。
その聴覚的要素が歌唱であり、集団の団結を強めるとともに、
肉食獣への威嚇として機能した。
それはまだ歌詞やバスパートをほとんどもたないが、体や道具を
使って正確に刻まれるリズムと踊り、そして鋭い不協和音に
よって構成される「原初のポリフォニー」である。
これはまだ音楽でも言語でもなく、両者の共通祖先とみなせる。
そこに質問を発する能力が加わり、人間は閉鎖系から開放系へと
移行したが、世界中の言語に質問抑揚がみられることは、この
能力がかなり古く誕生したことを示唆している。
さらに分節化した発話が行えるようになることで、言語がより
言語らしくなっていくと同時に、歌唱能力が失われ、音楽活動は
演奏家と聴衆に分かれて行われるようになっていき、モノフォニー
という形式が生まれる。
これは世界各地で異なるタイミングで生じたと考えられ、
先行して分節化した地域では、現代において発話障害の数が少なく、
ポリフォニーよりもモノフォニーが支配的になる。
時代が下り、職業音楽家がポリフォニーを理論化した後になって、
モノフォニー→ポリフォニーという順序のストーリィが作られたが、
より原初的な形態はポリフォニーの方であった。

上記の仮説には検証すべきこともまだまだ多いと思うが、一つの
系統樹思考としてとても興味深い。
AVOIDの視覚的、嗅覚的要素についても述べられていることから、
関係する分野は非常に多岐にわたっており、序に列挙されている
ような多くの質問に加え、これからもさらに多くの質問を生み出す
ことができるだろう。

横隔膜や声帯、共鳴腔の発達はどの段階で生じ、何の引き金に
なったのだろうか。
An At a NOA 2017-05-12 “音楽と言葉5
質問する能力は充足理由律への信仰と概ね同一視できるだろうか。
An At a NOA 2017-05-10 “比較可能律あるいは樹状律と充足理由律
なぜ、そしていつ、短調が悲しく聞こえるようになったのか。
An At a NOA 2017-05-10 “短調の悲しみ
質問は尽きない。
著者も言うように、
われわれは限りなく質問を問い続ける種なのである。
同p.214

2017-05-12

音楽と言葉5

声を媒体とする音楽と言葉について考えたとき、
これらをコミュニケーションに用いるためには、
情報伝達の確実性を高める必要があり、それは
媒体である声を安定させることで達成される。

音には強弱、高低、音色の三要素があるとされ、
物理的には、それぞれ振幅、波長、周波数特性に
対応するが、これらはすべて情報の符号化に
用いることができる。
声の安定性とは、発声におけるこれら三要素の
再現性の高さのことである。

三要素の再現性は、
  • 音の強弱の場合は呼気
  • 音の高低の場合は声帯の伸び縮み
  • 音色の場合は口腔や鼻腔等の形状
のコントロールにかかっており、声を媒体にした
コミュニケーションが発達するためには、横隔膜、
声帯、口まわりの筋肉の発達が欠かせなかったはずだ。
古今東西のあらゆる発声行為が、音楽であるか言葉
であるかによらず、ほとんど立位あるいは座位で
行われるのは、横隔膜、肺、気道、声帯、口と鼻が
この順に鉛直上向きに並ぶことが、安定した発声に
有利だからだと考えられる。

声を発するときには、まず声帯において基準となる
高低と強弱を有する音が作られ、その後口や鼻で
これらが変化すると共に音色が調整される。
この発声順序を考慮すると、音色が一定で、高低と
強弱が変化する声の方が、その逆に高低と強弱が
一定で音色が変化する声よりも、遥かに自然だと
思われる。
声のある特性によって情報を符号化するには、
その特性が可変であることが必要であることから、
おそらく声の高低と強弱による符号化方式の方が、
声の音色による符号化方式よりも先に誕生したと
推測される。
この二つの符号化方式を比べたとき、前者を音楽、
後者を言葉と呼ぶのはあながち大外れでもない。

現代では、音楽にも音色が要素として含まれるし、
その逆もまた然りであるから、言葉よりも音楽が
先に生まれたと言うのははばかられるように思う。
最初期の声によるコミュニケーションは、音楽とも
言葉ともつかず、両者の共通祖先となるようなもの
だったとみなすのが妥当だろう。
ただ、その原初的な声は、どちらかと言えば音楽的な
プロパティを先に獲得し、言葉的なプロパティを
後で獲得したと推測するくらいのことは、しても
よいように思われる。

p.s.
そう言えば、万国共通で新生児の泣き声はおおよそ
Aの音であるらしい。
新生児は筋肉がそれほど随意に動かせないとすれば、
声は声帯の大きさと口腔や鼻腔の形状でほぼ決まる
だろうから、新生児の体格がほぼ一緒であることを
反映しているだけだろう。

春の夜の夢

人間は、理由によって自然を人工に置き換えることで、
エラーの導入と適応のサイクルを高速化してきた。
このサイクルを駆動させるのが充足理由律であり、
科学者はその最前線にいる。

科学者が人間の最前線を守るためにできるとすれば、
理由という色のペンで自然を塗り続けることだけだ。

理由なき判断機構に依存することによっても、
生物としての人間の繁栄は維持できるかもしれない。
しかし、意識による覇権は衰退を迎えるだろう。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
「平家物語」

自由と集団


責任を問いたいがために自由が想定される。
An At a NOA 2016-09-05 “表現の自由
何かをすることの自由を認めるのはよいことだ。それは、責任を個の側に留めておくことであり、近代以降に進んできた集団が巨大化することに伴う専門分化へのストッパになる。

専門分化とは責任の外部化であり、住環境、食品、医療等を専門家に任せることと、その安全性に対する責任を専門家に負わせることは表裏一体であった。何もかもが専門分化した世界では、人間は個としてはまったく不自由で、何かの専門家としてだけ自由を手に入れることになってしまう。それを理想とする考え方もあるだろうが、それはやはり個の意識を消す方向に行ってしまうように思う。

マストドンのケースにおいて、表現の自由を行使した結果の責任がインスタンスに帰せられるのであれば、同種の自由を行使したいユーザのみを含むようにインスタンスを細分化するのが適切だろう。その究極は一インスタンス一ユーザであり、完全なP2Pモデルになる。特定のインスタンスにユーザが集中してしまう状況には、自由を剥奪されてでも責任を取って欲しいという近代的な発想が現れており、それでいて自由が剥奪されたことを忘れているユーザがいるのだろう。

自由を謳歌したいのであれば、集団の巨大さに頼らず、自らに責任を回収するのがよい。責任を外部化すればする程、自由は減少していく。住環境、食品、医療についてもまた同様である。

さて、この責任の外部化の行き先が、人工知能や機械等の人間以外のものになったとき、人間はその状況に耐えられるだろうか。自然災害とみなすのであれば、そこに神に代わるものを見出すだろう。AIを法人とみなすのであれば、意識を見出すカテゴリを拡げることになるだろう。いずれにせよ、
無意味であることに耐えられないんですよ人間は。
伊藤計劃「ハーモニー」p.375

2017-05-11

あなたの人生の物語

テッド・チャン「あなたの人生の物語」を読んだ。

このところ考えている、理由と時間の関係が主題に
なっており、とても共感できるストーリィだった。

因果律的解釈に従う人類と違い、“それら”は目的論的
解釈に従う。
すべては同時に経験され、逐次的な経験が生み出す
理由欲の代わりに、目的を欲するようになる。
経験から順序関係が剥奪されることで一意的なエントロピーが
定義不能になり、一方向に流れる時間も存在しなくなる。

逐次的意識にとっての「なぜ」という問いは、同時的意識に
とっては「どのように」という問いに相当する。
諸事象間に時間の前後関係がなく、完全に調和しているときに
問うべきことは、それはどのような点で調和しているのか、
ということだ。

伊藤計劃「ハーモニー」でスイッチが押された後の世界に
おける意識は、まさにこの同時的意識のようなものだろう。

「あなたの人生の物語」という小説を提示すること自体が、
〈ヘプタポッドB〉を習得した「わたし」が、逐次的意識と
同時的意識がないまぜになった意識で認識し、記述する
様を示しているというのが素晴らしい。

今度日本でも公開されるらしいが、どのように映画化されて
いるのだろうか。

2017-05-10

短調の悲しみ

ある波長の音を基準にしたとき、その整数倍の長さの波長をもつ
音とはハモることができる。
ハモるというのは、二音の振動数差に伴ううなりの波長もまた
元の波長の整数倍になり、いわゆるうなりとしては聞こえない
状態のことを言うのだろう。

元の音よりも波長が短い=周波数が大きい音を、周波数比率が
整数倍になるように追っていくと、
1:2:3:4:5:6=C:C:G:C:E:G
となり、4:5:6という長調の比率が現れる。
逆に、元の音よりも周波数が小さい音を追っていくと、
1:1/2:1/3:1/4:1/5:1/6=C:C:F:C:A♭:F
となり、1/4:1/5:1/6=15:12:10という短調の比率が現れる。

この知覚の差が感覚の差にどういった経緯で組み込まれたのかは
非常に興味深い。
短調の悲しみはどこから来るのか。
短調は悲しいものだと教わるからであると言えるだろうか。

時間と感覚

The Veteran Photographer Making Stunning New Buildings

杉本博司へのインタヴュー記事。

近代の大量生産を象徴する鉄とガラスとコンクリートを使って
1000年という時間に耐えるというのはとてもチャレンジングだ。
1000年前の建築というと、ハギア・ソフィアや平等院鳳凰堂
あたりが該当する。

単に劣化した状態が美しいことを目指すだけでは、おそらく
成立しない。
塩分や紫外線でそれぞれの材料を劣化させることは技術的に
可能であり、知覚だけで差別化を図ることは時間を媒介変数
として捉えるだけになってしまう。

ストラディヴァリウスと新品のヴァイオリンの価値の差もまた、
知覚としては存在しない。
Ditch the Stradivarius? New violins sound better
差が生まれるのは感覚の段階であり、その差には媒介変数化
されていない時間が関係している。
感覚もまた、物語られた知覚である。
An At a NOA 2016-11-20 “知覚と感覚

同一であることを目標に作られ、媒介変数になった、空間化された、
延長的になった等と形容される時間を生きる使命を帯びていた
近代の材料を、アンリ・ベルクソンの言う持続の中に戻すことが
可能だとすれば、それは物語によってである。
このことを無意味だと切り捨ててしまうことは簡単であるが、
物語に価値を見い出せることにこそ、理由を気にする存在としての
意識をもった人間らしさがあるはずだ。

比較可能律あるいは樹状律と充足理由律

思考の体系学」には、順序関係として擬順序、半順序、全順序が
出てきていた。
この三つのうち全順序のみが満たす「比較可能律comparability」と
いうのは、LiebとYngvasonの「エントロピー再考」では「比較仮説
comparison principle (or hypothesis)」と呼ばれている。
比較仮説は一意的なエントロピーを定義するための重要な前提であり、
LiebとYngvasonは平衡系について比較仮説の導出を試みている。
The Physics and Mathematics of the Second Law of Thermodynamics
非平衡系についてもarXivに論文があり、こちらはcomparison property
という概念を使って検討している。
The entropy concept for non-equilibrium states

全順序の場合は比較仮説に相当する比較可能律が成立するため、
一意的なエントロピーが定義できることになる。
これはつまり、全順序構造をとるチェインでは時間的な前後関係が
確定できるということであり、逆に、擬順序や半順序であるツリーや
ネットワークではそれができないということだ。
ただし、樹状下半束であるツリーにおいては、比較可能律を緩めた
樹状律が成立するため、ある二つの事象がともに別の事象の前に
起こるという条件下では、それらの時間的な前後関係が確定できる。

エントロピーと時間が同じ概念だとすると、
チェインにおける時間概念はニュートン的な絶対時間、
ツリーにおける時間概念はアインシュタイン的な相対時間、
としてイメージできる。
相対性理論においても、それぞれの系の中では時間が存在するのは、
人間の観測において樹状律が成立し、系ごとに異なるため一意的では
ないものの、エントロピーが定義できるからなのだろう。

比較可能律や樹状律が人間の思考様式の具える特性だとすると、
エントロピーも時間も、人間の思考とともに存在するだけのものになり、
マクタガートの「時間の非実在性」の議論に辿り着く。
比較可能律や樹状律を導入することで、エントロピーや時間、順序を
定義できるようにするというのがつまり、自然を人工化するということだ。
伝統的には充足理由律が比較可能律のように取り扱われることで、
絶対時間の概念が根強かったが、相対性理論を境に緩和され、
今では充足理由律はよくても樹状律しか包含しないように思う。

人間はどこまで充足理由律を緩めることができるだろうか。
ネットワークでは、理由は一つには絞れず、いくらでも存在できる。
さらに半順序一般に拡げれば、理由が存在しないことだってある。
理由の複数性を許容することはまだしも、理由の不在を許容する段階
ではもはや充足理由律は成立していないと言った方がよいだろう。
相対性理論によって揺るがされた後でも、絶対時間が近似値としては
依然として有効なように、相対時間まで揺るがされたとしても時間の
概念がなくなるとも思えないが、インターネットの発展とともに、
徐々に時間が薄れる方向に進みつつあるような気がしなくもない。

理由の連鎖の終着点は神と呼ばれるものである。
一神教は全順序あるいは樹状下半束であり、教会の権威が縮小するに
つれて、チェインからツリーに近づいたと思われる。
多神教において八百万に神を見出すのは、理由の終着点が多いことを
許容する半順序集合の思考様式に対応していると言える。
時間概念の希薄化は、「近代以前への退却」と「近代以降への脱却」の
いずれとして形容されるだろうか。

夢の中のような時間の薄い世界に生きているのが正常な人間で、
時間に囚われた人間は異常とみなされる時代が来たとして、
系統樹思考をしなくなった人間は、果たしてどこまで人間だろうか。
それはただ、近代人ではないというだけなのかもしれない。
「さよなら、わたし。
 さよなら、たましい。
 もう二度と会うことはないでしょう」
伊藤計劃「ハーモニー」p.363

2017-05-08

法人としてのAI

株式会社という仕組みが誕生するとき、次々と
人が入れ替わる会社という集団が責任を負える
はずがないという議論もあっただろう。
それが今は法人として責任を負える主体と
みなされるようになっている。

株式会社と同じようにAIが法人になる未来も、
選択肢としてはあるだろう。
AIは、国民の三大義務のうち勤労と納税を行う
ようになり、AIが引き起こす自動車事故は、
自然災害になる代わりに、AIという法人の責任
として処理される。
そのとき、AIは参政権と生存権を手に入れられる
だろうか。

人間についてすら責任能力の判定が難しいのに、
AIの責任能力は判定できるのだろうか。
プログラムの性質によっては法人擬制説が採れない
可能性もあるが、法人実在説を採れるのだろうか。

果たして人間は意識のカテゴリにAIを招くことを
選ぶだろうか。
それとも、自然災害の拡大を受け容れるだろうか。
その前に技術の発展を止めるという手もなくはないが、
人間にその手段が取れるようには思わない。

ポップスとクラシック

リファレンス実装としての特定の演奏のみが受容される限り、
その楽曲はポップスであり続ける。

他の演奏を許容するような楽譜として当該楽曲が自立することで、
ポップスがクラシックになると言えるだろうか。

人形と人工知能

複製の不完全性がはらむ発散の中にこそ、芸術の萌芽が
あるのである。
An At a NOA 2017-04-30 “芸術と技術
人間の複製過程としての人形の制作が芸術たり得るのは、
複製にあたって、意識や心、精神と呼ばれる心理的身体を
捨象するからである。

物理的身体を捨象する人間の複製過程として人工知能を
捉えたとき、こちらにも人形と同様の芸術性がみられても
よいように思われる。
未だに人工知能が技術としてしか扱われないのは、人間が
自らを心理的身体のみに依拠するものと捉え、物理的身体の
捨象は複製の不完全性をもたらさないと思い込んでいることを
示しているだろうか。

ラインズ

ティム・インゴルド「ラインズ」を読んだ。

意味付けと理由付け、音楽と言葉、芸術と技術、
観光と旅、近代とは。
個人的に考えているいろいろな問いは、表面的には
違っていても、共通する問題設定があることを
思い出させてくれるような本だった。

著者が区別する、糸threadと軌跡traceの違いは、
意味付けと理由付けの違いに相当する。
人間の判断が、多くの場合、理由の有無によって
意味付けと理由付けのいずれかに分類できるのと
同じように、ラインは糸と軌跡に分類される。
しかし、その分類は判断やラインに固有のものという
よりは、それを見る人間の見方を反映したものであり、
どちらにも分類できないこともあるだろう。
ひもは糸であると同時に軌跡であり、どちらか一方に
限定できない。
ティム・インゴルド「ラインズ」p.89

近代における物の見方というのは、外部に顕現していた
軌跡を内部へと回収し、外部にあったラインを糸へと
張り替えるものだったと言える。
個は一点に集中したものとして捉えられ、外部にあった
個の痕跡からは個性が剥奪された。
それは線描から区別される記述の誕生であり、
近代化というのは、そのような個の内部への巻取り
だったように思う。
かつて連続した身ぶりの軌跡だったラインは―近代化の
猛威によって―ずたずたに切断され、地点ないし点の
継起となった。
同p.123
近代において、外部から軌跡が排除され糸だけが
残ると同時に、軌跡は内部へと回収された。
An At a NOA 2017-05-06 “マルセル・ブロイヤー展

線描としてのラインは、すべての情報が保持、伝達され、
具象として扱われるのに対し、記述としてのラインは、
ラインがもっている情報の一部分だけが使われることで、
抽象として扱われる。
芸術も技術も、ある情報を異なる形式で複製する過程であり、
芸術の本質はその過程で何を削ぎ、何を残すかにあると思うが、
複製過程において情報の欠落が全くないのであれば、
それは芸術ではなく技術になる。
抽象されたラインが誕生したことで決定的だったのは、
保持、伝達される情報が少なくなることで、完全な複製が
行えるとみなされるようになったことだろう。
線状化の過程の本質とは、まさにこうした断片化と圧縮
―〈運び〉の流れる動きの瞬間の連鎖への縮約―にある。
同p.230
発話speechと歌songの区別に伴い、言葉と音楽の違いが問題に
なったことも、この線描と記述、あるいは芸術と技術の分離に
対応する。

著者が徒歩旅行と輸送として区別するものもここに並べられ、
これは旅と観光の違いに相当する。
移動が軌跡である徒歩旅行や旅では、移動する者は判断基準の
変化を伴いながら移動する。
一方、観光客は、「点と点をつなぐ連結器としての輸送という糸」
+「観光地として巻き取られた軌跡」という近代的な移動を行う
ため、観光地において、現地人と観光客の判断基準の大きな差異が
もたらされる。
このあたり、東浩紀「ゲンロン0」の話題が関連する。

著者が指摘するように、インターネットのネットワークのイメージは、
ノードに巻き取られた個と、それをつなぐ糸としてのエッジとして
既に成立してしまっている。
コミュニケーションは、軌跡を拭い去られた糸を介して行われており、
それは良い面も悪い面もはらんでいるが、軌跡がないことによる
ディスアドバンテージはあまり省みられないように思う。
メッシュワークの形態をインターネット上で構築することは
可能なのだろうか。

第六章で述べられるように、近代において抽象されたラインは、
その究極の形態として直線に至る。
直線の覇権とは文化一般にみられる現象ではなく、
近代の現象なのである。
同p.238
スケッチと図面、CADの影響など、面白い話題に尽きない。

博士論文の題材である非線形性の問題も同じである。
近代として思考する科学の枠組みの中で、非線形性は如何にして
線形化されているのだろうか。

2017-05-06

マルセル・ブロイヤー展

国立近代美術館で開催中のマルセル・ブロイヤー展に
行ってきた。

ちょうど読んでいるティム・インゴルド「ラインズ」の
言葉を借りれば、近代において、外部から軌跡が排除され
糸だけが残ると同時に、軌跡は内部へと回収された。

マルセル・ブロイヤーは、本能に根ざしたものを生み出す
ことこそがモダンデザインであるとしたとのことだが、
理性に相当する軌跡を排除し、本能に相当する糸だけを
外部に残すというのはちょうど近代化に符合する。
木材は角材、スチールはパイプとして用いられることによって、
大量生産のラインにのることができ、軌跡は拭い去られる。

マルセル・ブロイヤー展以外に、MOMATコレクションも
観てきたが、結構面白い作品も多かった。
ラインつながりではクレーやカンディンスキーの作品は
もちろんだが、加山又造の「春秋波濤」という屏風も
印象に残った。

工芸館の「動物集合」は時間がなくて見れなかったので
また今度。

cogito ergo sum

「cogito ergo sum」というデカルトの名言は、
理由付けになっている。
原因は「我思う」であり、結果は「我あり」だ。

もちろん、この命題によって、我があるから我は
思うのだとは言えない。
一般に、元の命題の逆は必ずしも真ではないからだ。

理由付けという思考があること自体に理由付けする
ことで得られるのは、理由付けをしている何かであり、
その何かを我とみなしている。
デカルトのコギト命題は、この意味で捉えれば妥当
だと思える。

我という想定は充足理由律に支えられており、
充足理由律という仮定が絶対的でない限り、
我もまた絶対的ではあり得ない。

2017-05-05

統計

統計的手法というのは、人間がすべてを理由付けによって
把握するにはあまりに大量なデータを、何とか理由を保持
しながら扱うためのものだと思う。

もし理由を捨て去ることができるのであれば、統計の代わりに
ディープラーニングのような特徴抽出によって、理由を介さずに
把握し、判断を下すこともできるだろうが、その判断は理性的な
ものというよりは本能的なものである。

無我の境地に達するという意味では、ある意味理想なのかも
しれないが、意識は本当にそれを理想に掲げられるのかという
疑問は残る。
仏教的世界観はその方向に合致しているが、近代以降の、
個の意識を前提とした世界観の下では難しいように思う。
統計学が近代以降に発展したことには、何かしらの符合が
あるようにも思われる。

2017-05-04

ダマシ×ダマシ

森博嗣「ダマシ×ダマシ」を読んだ。
Xシリーズの最終話らしい。

加部谷恵美とつながったところで終わったけど、
Gシリーズとの時系列順が気になるな。
安藤順子は雨宮純なのだろうか。
ジグβやキウイγを読み返してみるか。

2017-05-03

19世紀パリ時間旅行

ANAの機内誌「翼の王国」の鹿島茂の連載で知った展覧会、
練馬区立美術館の「19世紀パリ時間旅行」に行ってきた。

鹿島茂氏のコレクションをベースに、19世紀に行われた
パリ改造をテーマにした展覧会なのだが、絵画、写真、
服飾や地図といった展示物に加え、そこに添えられた
説明によって、改造前後のパリが描き出されている。

ちょうど「パサージュ論」をパラパラと読み通している
ところなので、ノスタルジックに描かれる改造前の風景
から、写真、モード、万博といった大量複製の影響が
顕著になる改造後の風景への移り変わりをとても興味深く
楽しめた。
蒐集において決定的なことは、事物がその本来のすべての
機能から切り離されて、それと同じような事物と、
考えうるかぎりもっとも緊密に関係するようになるという
ことである。
(中略)
真の蒐集家にとって、この体系のなかで一つ一つの物は、
その時代、地域、産業や、それの元の所有者に関する
あらゆる知識を集成した百科全書となるのである。
事物の各々を一つの魔圏のうちに封じ込めることこそ、
蒐集家の行うもっとも深遠な魔法である。[H1a, 2]
ヴァルター・ベンヤミン「パサージュ論」第2巻p.9
展覧会というのは、蒐集家による深遠な魔法の一形態である。

図録もとても密度が濃くてよい。
展示替えがあるらしいので、後期になったらまた行こう。

2017-05-02

LEGO

LEGOはいいよね。
抽象的なものから具象を想像、創造して遊べるのは
とても人間っぽい。

友人の結婚式の紹介ムービーをLEGOと連続写真で作ったのも、
もう4年半前である。

体で覚える

体で覚えることができる行為は、深層学習のような理由を介さない抽象過程によって複製した方が、複製の再現性が高まる。

鋼構造建築の分野で言えば、例えば溶接はこれに当たる。溶接工の体、溶接棒、溶接対象に位置センサを付け、視覚、聴覚、温度、湿度、風等の情報と同期させると、溶接作業に関わる一連の時刻歴データが手に入る。いろいろな板厚、鋼種、作業姿勢、気候条件の下でとったデータを下に深層学習することで、「自然な」溶接作業の動きが複製できるだろう。限られたデータのみ用いるため、この複製は完全なものにはならないが、データの種類と粒度を上げることで、必要な精度を確保することはできるだろう。
そして、いまポールの目の前にある、このボックスの中の小さいテープの輪、これこそはあの日の昼さがりに旋盤と相対したルディ―動力の伝達者、スピードの設定者、切削工具の調節者のルディだ。
カート・ヴォネガット・ジュニア「プレイヤー・ピアノ」p.25

現状では、言葉である程度の作業内容を伝えた上で、後は人間が物理的身体を駆使してトライアンドエラーで作業を複製する。後半部分は自動化できるのではないかということだ。
作業手順は心理的身体、コツは物理的身体の領域である。
An At a NOA 2016-12-05 “FPGAの透過的利用
引用したツイートの内容に対して、職業訓練校と大学を分離して運用する案を唱える人もいて、現状としてはそれが妥当な解決方法なんだろうなとは思う。しかし、職業訓練校に対して期待されるのが、体で覚えられる類の行為の獲得なのであれば、それはいつか人間の物理的身体にやらせることではなくなる可能性もある。

上記のような理由を介さない複製が行えるようになると、ウィーナーが指摘するような、奴隷労働との比較が生じる。
しかしながら奴隷労働と競争する条件を受けいれる労働は、どんなものであっても奴隷労働の条件を受けいれることであり、それは本質において奴隷労働にほかならない。
ウィーナー「サイバネティックス」p.74
何かを体で覚えることは、英語で言うとmasterであり、ある行為を理由を挟まずにできることは、人間の歴史において長らく憧れの対象だったように思う。これは心理的身体に対する物理的身体の優位性を示しているだろうか。人間が物理的身体以外のハードウェアに依存するようになったとき、「体で覚えるmaster」ことが「奴隷slave」に至る道へと変わってしまうのかもしれない。