2017-05-26

ハイブリッド・リーディング

日本記号学会「ハイブリッド・リーディング」を読んだ。

openやcreateによってファイルディスクリプタを用意し、
writeによって有相の情報を書き込む。
有相の情報は書き込まれることで無相の情報に戻り、
再び有相となるためにはフォーマットの情報が必要になる。
readする際には、ファイルの中身や拡張子、ソフトウェア等
によってフォーマットが仮定され、ある有相として読まれる。

技術の発展とともに、埋め込める情報の量、フォーマットの
指定の仕方、誤り検出訂正に関する冗長性、情報の劣化に
対する頑強性、時空間をまたぐ能力等は変化してきたが、
readとwriteの上記のような関係は概ね同じだったと想像する。
どのような情報が、どの範囲に、どの程度の確実さで伝え
られるかという点に対して技術が占める役割は大きく、
送受信側のそれぞれが目的に応じて適切な技術を選べるようで
あって欲しいと思う。

著者と読者の間で一意的に解釈可能な言語が共有されており、
著者の意図した有相がその言語で完全に表現できるのであれば、
視覚でも聴覚でも触覚でも、その言語をエンコードできる媒体
であれば、劣化がない限りは、どのように伝達しても情報は
確実に伝わる。
しかし、そういった通信プロトコルが存在しない場合には、
目、耳、手等、使えるあらゆる通信路を駆使することで、
著者の意図した有相と読者の想像した有相を可能な限り
一致させる努力をする余地が生まれる。
本書でも取り上げられる杉浦康平によるブックデザインに
代表されるような、紙の書籍に対して施されるフォントの種類、
サイズ、色、文字組、紙の色、手触り、厚み、本体のサイズ
といった要素への情報の埋め込みは、著者や装丁家といった
送信側によるその種の努力である。
受信側の読者としてはそういった手がかりに助けられながら
送信側の意図を高いリテラシーで想像する楽しみがあるし、
読書会や書評において今度は読者が送信側になり、受信側と
なった著者らとのコミュニケーションにおいて、何かしらの一致が
感じられたら嬉しくもあるだろう。
同一性の成立は快の感情と関係があるように思われる。

技術によって情報が外在化されるというのは、人間という
内部を想定した言い方であり、人間もまた秩序付けられた
情報だと思えば、技術によって可能になるのは、情報の
秩序付けを新しい方式で施すことである。
外在化された情報は、書物として具体化するかもしれないし、
道具として具体化するかもしれないが、どのような形式にしろ、
常に有相を剥がされ、無相となる可能性をはらんでいる。
技術が途切れることでその可能性は高まるが、それはかつて
人工だったものが新しい自然になる現象であり、それが秘める
ある種の怖さが、外在化された情報の脅威として映るのかもしれない。
特定の技術にあまりに適合してしまうことは局所最適化であり、
写研の凋落のような事態をもたらしたが、それはおそらく読者、
あるいは人間としても同じである。
技術が変化する限りはそれに合わせて変化する必要もあるが、
願わくは変化前のよいところを引き継いでいきたい。

西兼志によるピエール・ブルデューの「ハビトゥス」の話や、
佐古仁志によるパースの「アブダクション」、グッドマンの
「投射」の話も興味深かった。
「驚きsurprise」によって「意味」が獲得されるというのは、
発散の必要性から投機的短絡が生じるということとして
解釈できるかもしれない。
シニフィアンとシニフィエの結びつきの恣意性も、投機的短絡
から生まれるのかもな、ということを考えた。

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