2017-10-26

竹藪焼けた
たけやぶやけた
筍退けた
たけのこのけた
竹籠掛けた
たけかごかけた
竹籤引けた
たけひごひけた

語るボルヘス

J・L・ボルヘス「語るボルヘス」を読んだ。

「書物」「不死性」「エマヌエル・スヴェーデンボリ」、
「探偵小説」、「時間」の五つのテーマを通して語られるのは、
解釈と同一性についてである。

書物はひもとくたびに変化するのです。
J・L・ボルヘス「語るボルヘス」p.28
不死性は他人の記憶の中、あるいはわれわれの残した作品の
中に生き続けることなのです。
同p.51
われわれのかなりの部分は自分の記憶によって作り上げ
られています。そして、そうした記憶の大部分は、忘却
によって作り上げられているのです。
同p.113
スヴェーデンボリの照応の理論やポーの探偵小説というのも、
彼らが生み出した解釈である。

そうした記憶し忘却する解釈の過程がさまざまにある中で、
物質としての本、肉体、絶対時間などがよすがとなって、
その都度見出される同一性が、作品、わたし、現在だろうか。
私とはいったい何者なのでしょう?
われわれ一人ひとりとはいったい何者なのでしょう?
われわれはいったい何者なのでしょう?
いずれそれを知る時が来るでしょう。
ひょっとすると来ないかもしれません。
同p.129
忘れてしまっては何も残らない一方で、
忘れることで時間が流れる。
不断に忘れられ続ける世界において、
憶えては忘れるという反復によって、
忘れられることに抗うのが生命である。
An At a NOA 2017-07-14 “不断に忘れられ続ける世界” 

2017-10-25

組織の限界

ケネス・J・アロー「組織の限界」を読んだ。

ヴィルフレド・パレートの意味での効率性を達成する
ための社会システムである価格システムに対して、
組織とは、価格システムがうまく働かないような状況の
下で集団的行動の利点を実現するための手段である
ケネス・J・アロー「組織の限界」p.52
と述べられる。
人間の欲望と価値の協同的測定の不可能性であり、
そして、相互伝達の不完全性である。
同p.38
という基本的な事実に由来する不確実性によって、
価格システムはうまく働かなくなり、組織の限界も
自ずとそこに関係する。

「情報チャネル」「シグナル」「符号化様式」といった語に
表れているように、組織は情報の抽象過程として捉えられる。
符号化様式は組織という抽象過程の判断基準であり、それを
共有することで組織が成立する。
組織の構成要素である個人もまた組織であり、抽象過程が
重なり合う中で、判断基準に折り合いをつけることの困難と、
コストとベネフィットのトレードオフによる、抽象される
情報量の制限が、上に引用した協同的測定の不可能性と
相互伝達の不完全性である。

近代以降、専門分化と局所の大域化によって、組織による
効率性の追求が目指されてきたと言える。
これらが固定化に陥ると、
効率性のみの追求は、いっそうの変化に対する柔軟性と
感応性の欠如につながるかもしれない
同p.80
ということになる。
一方で、権威の存在や集団の形成は効率性のためであり、
固定化を打破するにあたって、単にこれらを無くせばよい
というわけでもない。

近代というTruthの時代の反省を活かすとすれば、効率性を
諦めるのでもなく、効率性に固執するのでもなく、
不満足な解決とは、よりよい解決をつくり出すために必要な
情報収集を刺戟するために必要なものなのかもしれない。
同p.78
われわれの合理性を十分に保持するためには、確実性
なしに行動することの重荷を支えなければならない。
そしてわれわれは、過去の過ちを認め、方向を変更する
可能性をつねに開いておかなければならない。
同p.49
必要とされるのは「情報と意思決定ルールの循環」である。
同p.103
と述べられているように、組織しつつ行動しつつ変化しつつという、
「多態性を維持しながら、固定化と発散を繰り返す。」
An At a NOA 2017-10-02 “政治的スペクトル
を続けるのが、Post-truthの時代らしいのではないかと思う。
権威と責任に関連した再審査グループの提案もその一貫だろう。

近代の組織が浸透した世界に、限界を意識した組織が循環する
ようになるまで、何年かかるだろうか。

2017-10-24

忌避

集団における判断基準の共有は忌避として固定化する。

忌避とはつまり、同じでないものの忌避である。
Avoidance means avoidance of what is not the same.

アローの不可能性定理

ケネス・アローが唱えたGeneral Possibility Theorem、
いわゆる「アローの不可能性定理」の中に、「社会厚生
関数 social welfare function」というものが出てくる。
この社会厚生関数の定義は反射則と推移則を満たし、
比較可能律にあたる完備性を備えることから、
実質的にエントロピーと同じだと言える。

民主制にとって不可欠な4つの条件を満たす社会厚生
関数が存在しないというのは、民主制においては大域
的なエントロピーの尺度が存在しないことを意味し、
絶対時間を否定した特殊相対性理論にも通ずる。

あくまで民主制の4条件にこだわるのだとすれば、
完備性を緩める以外にないように思われる。
チェインでなく、ツリーやネットワークであれば
民主制が可能だったとして、チェインでない構造
からの選択はどのようにされるべきだろうか。
ツリーやネットワークに基づく選択が不可能なので
あれば、何かを選択することそのものが民主制と
相容れないということになる。

2017-10-22

政治的なものの概念

カール・シュミット「政治的なものの概念」を読んだ。

政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な
区別とは、友と敵という区別である。
カール・シュミット「政治的なものの概念」p.15
友・敵・闘争という諸概念が現実的な意味をもつのは、
それらがとくに、物理的殺りくの現実的可能性とかかわり、
そのかかわりをもち続けることによってである。
同p.26
現実の闘争においてこそ、友・敵という政治的結束の
究極的帰結が露呈する
同p.30
判断基準を共有することによって集団が形成され、集団に
よって判断基準が維持される。
道徳的基準が善悪を、美的基準が美醜を、経済的基準が
利害を区別するように、政治的基準は友敵を区別する。
友敵の基準である政治は、あらゆる抽象の基盤となる
物理的身体の存続に関わる点に特徴があり、道徳・美・
経済などの基準による対立も、悪醜害を物理的身体の毀損
によって排除しようとした途端、政治的な基準による友敵の
対立へと変化する。
ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」で述べられて
いたのは、友敵の区別を含意しない《贈与》の可能性だった
と言えるかもしれない。

性善説では判断基準が不変だとみなされるのに対し、
性悪説では基準の変化可能性が考慮される。
性善説は固定化の傾向に着目し、
性悪説は発散の傾向に着目する。
An At a NOA 2017-08-16 “性善説と性悪説
判断基準が固定化した状態では「合理的」の意味が定まるが、
基準が変化する状況においては論理の飛躍が生じており、
友敵の基準の場合には、基準の変化に伴って大規模な物理的
身体の損失が発生する。
この友敵基準の飛躍的変化こそが、現実の闘争という例外状態
なのだと思う。

友敵基準の前提となる物理的身体の変化とともに、政治的な
ものの概念も変化するはずである。
ここ数年の民主主義の変化も十分大きいように感じられるが、
それには先進諸国での医療技術の発達による死生観の変化が
影響しているだろうか。
さらには、物理的身体の大部分が人工細胞に置き換わったり、
「人間」というカテゴリが変化したりすることによって、
ハードウェアが簡単には停止しなくなった時代には、「国家」
そのものがノスタルジックなものになっているだろうか。

2017-10-19

理由の圧縮

50万行にわたって記述されていた理由は、ディープラーニング
という手法自体にまで圧縮された。

それ自体はよいことでも悪いことでもないが、飛躍を理由に
よって埋める過程を失ったら、飛躍によって破綻するか
飛躍しなくなるかのいずれかしか選択肢が残らないことは、
気にしておいてよいと思う。

ペガサスの解は虚栄か?

森博嗣「ペガサスの解は虚栄か?」を読んだ。

人間、ロボット、ウォーカロン、人工知能、トランスファ。
生命が更新される秩序であるならば、いずれもそれなりに
生命らしくある。
人間と全く同じ特性を有するセンサの塊は、たとえその
ハードウェアが炭素ベースでなかったとしても、あるいは
ハードウェア自体が存在しなかったとしても、人間である
ことは可能だろうか。
それは結局、人間というカテゴリについてどのような物語、
理由付けが共有されるかの問題だと思われる。
そのことは、クローンとウォーカロンの関係にも現れている。
その法律を決めたのは、人類の感情だ。それ以外に理由はない。
森博嗣「ペガサスの解は虚栄か?」p.278
秩序の更新の仕方によって人間らしさを定義できるとすれば、
飛躍というのがマッチするように思う。
オーロラとの共著論文におけるハギリの発想、思いつき、
失われたツェリンの未来、あるいはペガサスの妄想。
飛躍の捉えられ方は様々だが、飛躍によって断絶した完全さを、
理由によって繋ぎとめることで秩序を更新していくところが、
とても人間らしいと感じる。
何故完全さを求めるのか、を考えた方が良いね
同p.62
我々が、思いつきと言っているものに最上の価値があって、
ただそれにすべてを委ねているのです。そういったものには、
理由がない。
同p.113
人間らしさが定義できること自体、人間以外が人間らしくなれる
ことを意味するが、それに気付かずに理由付けによって自己防衛
しようとするのもまた、人間らしさとなる。

飛躍によって完全さを回避する一方で、理由によって完全さを
回復しようとする。
感情的な思考によって、現実を見誤ることです。自身の思考と
現実を比較・交換します。あるいは、部分的に置換します。
同p.283
その過程は、いずれも虚栄と呼ばれるだろうか。

2017-10-18

富士山

友人の披露宴で「富士山」の「作品第貮捨壹」を歌うことになった。

埼玉で生まれ育った子どもにとって、富士山はよく晴れた
日に遥か遠くに小さく見える山だった。
初めて静岡で富士山を見たときの衝撃は、今にして思えば、
アンバランスな遠さと大きさの生み出す意外な距離感による
ものだったのかもしれない。
今でも新幹線なんかで近くを通ると目を奪われるのは、
その衝撃が後を引いているように思う。

草野心平や多田武彦が感じた富士山もそれぞれであり、
歌う人間それぞれの富士山の感じ方があるはずだ。
それぞれに富士山への思いや考えがある中で、
それでも共通する富士山らしさが残るとしたら、
それこそが、小林秀雄が
解釈を拒絶して動じないものだけが美しい
小林秀雄「無常という事」p.85
と言ったものなのだろう。

おどろおどろしさすら憶える「平野すれすれ」に続いて、
「いきなりガッと」現れる富士。
安定した和音でただひたすらにその姿だけを描写する
ところに、富士山らしさの芯を掬い取ろうとする姿勢を
感じる。

ピアノを弾く哲学者

フランソワ・ヌーデルマン「ピアノを弾く哲学者」を読んだ。

サルトル、ニーチェ、バルトは、考え、弾いた。
弾くことについて考えるのでもなく、考えることについて弾く
のでもなく、同時に哲学者と音楽家であった。

サルトルは両者を分けた上で弾くことを私的なものに留めた。
ピアノの演奏は、すべてを語ろう、すべてを理解しようとする
彼の意志から逃れ出る。
フランソワ・ヌーデルマン「ピアノを弾く哲学者」p.23
ニーチェは両者を公にすることでその連関を実践した。
耳で哲学することによって、またピアノという音叉を評価基準にして
美学的・政治的なシステムを問うことによって、ニーチェは近代性の
諸価値や諸特性を見極めるすべを身につけた
同p.115
バルトは両者の区別をなくすように重ね合わせた。
バルトにとって、ピアノの演奏はまず間違いなく一つの
イディオリトミーだった。
同p.203

ウィトゲンシュタインは「示されうるものは、語られえない。」
と表現したが、三人が捉えようとしていたのも「語りえぬこと」
を如何にして示すかということだったと思う。
因果律、一貫性、大人、プロという語ることの領野に対して、
子供時代やアマチュアに示すことの可能性が拓かれる。
それはむしろ、因果関係によらずに過去と現在を結びつける
柔軟な時間性を意味する。
同p.45
アマチュアとは一貫性の押しつけを嫌う人々のことをいう
同p.148
近代の絶対時間や貨幣という大域的基準が語ることで設定する
唯一のエントロピーの尺度がある一方で、「それはかつてあった」
「来たるべき過去」が示す各人のエントロピーの尺度がある。
いずれをも神秘化することのない、
各人固有の時間の使い方も、集団としての時間の使い方も
可能であるような理想社会
同p.203
語りつつ示すことを生きるために、サルトル、ニーチェ、バルトは、
考える人間と弾く人間の両方であったのだろう。

著者は、音楽と人間の「流動的でつかの間の共犯」が密かになす
共同体の共通項として、様子、振る舞い、歩調などの広い語義を
もつ「アリュール」allureという言葉を提案する。
「ピアニストのアリュール」を語るだけでは共同体は固定化して
しまうが、「共通し、それでいて異なる個人的な実践」という
アリュールの試みの中で、本人たちすら気付かないまま、
共同体は流動的に維持される。
わたしたちには共通点があるから共同体に属するのだが、その共通点
とは実はその共同体からの留保だということになる。
同p.210
という状態が、「わたし」にも「共同体」にも収束しない、
多態性を維持したままでの秩序の更新なのかもしれない。

2017-10-16

「である」型加速器

各々が狭い領域での「する」に集中し、領域間を「である」ベースのコミュニケーションによる大量の均質な抽象で埋め尽くすことで、エントロピー増大を加速させる。

専門分化、急成長、大量消費、人口増加、ポピュリズム、思考停止。「である」型加速器によって、とにかく早くわかることを目指した社会の行き着いた先が、これらだったということだろうか。
現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。
丸山眞男「日本の思想」p.65
何もかもが専門分化した世界では、人間は個としてはまったく不自由で、何かの専門家としてだけ自由を手に入れることになってしまう。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団” 
近代以降の急成長は、理由付けによってエントロピー増大が加速したというだけのことなのかもしれない。
An At a NOA 2017-09-15 “タイムマシン” 
判断基準が更新する過程をないがしろにし、判断基準を所与のものとした上で「正しい」ことを求めるだけの、「とにかく早くすっきりしたい」という思考停止。
An At a NOA 2017-10-13 “せっかち

2017-10-15

遠い娯楽と近い娯楽

送信される情報量に対して、受信できる情報量が
少なくなるものは、遠い娯楽だと言える。

視覚表現も聴覚表現も、規模が大きくなるにつれて
遠さを補うようにプロジェクタやマイクなどの情報の
増幅器を挟むようになると、間に抽象機関が挟まれる
ことで、かえって遠さが強調されるように思う。
写真や映画、テレビやYouTubeのような転送器を
介したものも、その一種だろう。
増幅器の性能が上がり、いろいろな種類の情報を
減ずることなく送受信できるようになれば、VRの
ように近さは少しずつ回復されるかもしれないが、
何かしらの遠さを残したままだと不気味の谷が
現れることになる。

近代以降の巨大な集団を一体化させるにあたり、
遠い娯楽を広く共有することは効果的であり、
近い娯楽で同じ役目を代替することは難しい。
ただし、遠い娯楽による一体化が集団の巨大化に
有効というだけで、それ以外の一体化が集団を
小ぢんまりとさせるというわけではない。
鬼ごっこや「どちらにしようかな」の掛け声の
ように、大域的な基準がなく、それぞれの地域の
バリエーションが豊富だけど、多くの人が知って
いるものというのは存在する。
それはおそらく、近い娯楽として伝播したものの
特徴だろう。

遠い娯楽が優勢な時代において、近い娯楽には
何ができるだろうか。
それを考えるには、距離減衰が激しく、増幅器
によっても伝達が困難な情報をいかに上手く
活用するかが重要な気がする。

2017-10-14

日本の思想

丸山眞男「日本の思想」を読んだ。

日本の考え方の傾向として、
現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。
丸山眞男「日本の思想」p.65
すなわち、「する」ことよりも「である」ことが重視される
という部分が一貫して述べられているように思う。
ことがらがことばになる過程でなく、ことばになったことがら
だけが重視されるのは、オルダス・ハクスリー「」のパラとは
対極にある世界である。
世界認識を合理的に整序せずに「道」を多元的に併存
させる思想的「伝統」
同p.42
においては、「する」ことをせずに、「である」ことをただ
受け入れることで、日本の思想的雑居性、神道の「無限抱擁」
性が生まれ、個に対しては無責任なままに「である」が 集積
された結果として、全体には無限の連帯責任が課せられる。
決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、
「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに
象徴される!)を好む行動様式
同p.42
無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては
巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。
同p.42 
理論信仰も実感信仰も、「する」を放置した「である」への
信仰という点では同じであり、「である」の塊である「多頭
一身の怪物」、「タコツボ文化」、「むら」を生み出す。
タブーによって秩序を維持しようとする「である」社会には、
「権利の上にねむる者」がいて、「理想状態の神聖化」がある。
判断基準が更新する過程をないがしろにし、判断基準を所与の
ものとした上で「正しい」ことを求めるだけの、「とにかく
早くすっきりしたい」という思考停止。
An At a NOA 2017-10-13 “せっかち
は、こういった「である」社会の端的な現れなのだろう。

抽象化によって形成されるイメージは、本来人間と環境の間の
潤滑油となるところが、抽象化作用である「する」が省略され、
結果が一人歩きしてしまえば、イメージは「タコツボ」や
「むら」を隔てる「である」の厚い壁となり、現実とは似ても
似つかない「化けもの」が跋扈することになる。
各「タコツボ」や「むら」の中では、take for grantedの領域が
増えることで、利点となることもあったかもしれないが、
外は「化けもの」ばかりであれば、やはり全体としては通信不全
による不利益の方が多いのだと思われる。

思想的雑居性自体は必ずしも悪いものではなく、
仮説を作って経験によるトライアル・アンド・エラーの
過程を通じて、この仮説を検証して行くという不断の
プロセス
同p.105
であり、「自己の責任における賭け」である「する」ことによって
雑居した思想の更新が続いていけば、複数の抽象過程の重ね合わせに
つながることで、著者の提案する「多元的なイメージを合成する思考法」
にもつながるように思う。

2017-10-13

せっかち

2017年秋の総選挙は民主主義を破壊している。
「積極的棄権」の声を集め、民主主義を問い直したい。


新井紀子は「とにかく早くすっきりしたい」ことに対して、東浩紀は思考停止することに対して、そうではないのではないかと言っており、両名の提起する違和感は、根本的に同じ方向を向いているように思う。

読むとはどういうことなのか、社会とは何なのかについて、絶対的に「正しい」見方はなく、何を「正しい」とみなすかの判断基準の共有が、その都度図られるだけだ。判断基準が更新する過程をないがしろにし、判断基準を所与のものとした上で「正しい」ことを求めるだけの、「とにかく早くすっきりしたい」という思考停止。停止していないときはどのくらいあっただろうか。

そんなことまで立ち戻っていられないのかもしれないが、壊死しつつ瓦解するという動的平衡を崩し、更新しなくなった秩序として静的平衡に留まるものは、もはや生命ではない。

何をそんなに急いでいるんだろうか。

2017-10-12

紙の辞書

「紙の辞書は死んだんです」 国語辞典編集者が言葉と向き合い続ける中で見た現状

手元にある紙の辞書は「広辞苑」と「字統」くらいで、
外国語についてはオンラインでしか引かなくなった。

辞書というのは一種のデータベースで、語として抽象
されたものにどのような具象が対応し得るかという、
リテラシーを補助するための外部装置である。

「この内容はどのような語に圧縮できるか」や
「この語はどのような内容に伸長され得るか」といった
共通認識が形成され、短い符号によって通信可能な
集団が成立する。
それは本来逆であると言えるかもしれないが、集団と
共通認識は表裏一体という意味では、どちらが先と
いうこともない。

集団の通信形態とともに符号化方式もまた更新されて
いくだろうし、想定した集団に応じて違うものだろう。
科学が世界についての一つのモデル化でしかないように、
辞書もまた言葉についての一つのモデル化でしかない。

集団において共有される部分が大きければ大きいほど、
用いられる符号は簡略化されていくため、同じ言語でも
世代や地域が違えば通信に支障をきたす場合がある。
通信不全を放置すれば集団間の垣根は高くなる一方で、
全体として局所的な壊死へと向かうのみである。
それを回避するために、紙の辞書の編纂で培われてきた
事例収集能力と見出し語への抽象能力を活かす余地が
あるように思われる。

2017-10-11

借りの哲学

ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」を読んだ。

《贈与》の際に何よりも先立つのは、「贈与される対象が
贈与する側の所有物である」という共通認識であり、共有
された判断基準が「対象が贈与される側の所有物である」
というように変更される過程が《贈与》だと言える。
判断基準の共有によって《贈与》に関わる双方を含む集団が
形成され、判断基準の変更は、贈与する側では《貸し》、
贈与される側では《借り》と呼ばれる。
つまり、《借り》の連鎖というのは、人間の行為というよりも、
社会、部族、国家、家族といった集団の秩序更新過程としてみる
方がよいように思われる。

《贈与》はポジティヴな判断基準の変更例だが、略奪のような
ネガティヴな《借り》の場合でも同様に、集団の壊死と瓦解を
防ぐような秩序更新過程であるはずだ。
ただし、ネガティヴな《借り》の場合には、集団の構成要素で
ある人間の損失を含むことが多いため、集団は壊死も瓦解もせず、
消滅してしまうので、結局は集団が維持されない。

かつての《返すことのできない借り》に支配された世界では、
判断基準が二度と変化できないように固定化されることで、
個々の集団は壊死へと向かっていた。
資本主義によって特定の判断基準が大域的に共有されるように
なると、《等価交換》によって《返すことのできない借り》を
解消することができるようになった。
その代わりに、貨幣という大域化された判断基準のみを共有
すればよくなることで、新たな《借り》も生じず、局所的な
集団も形成されることがなくなった。
それは結局のところ、大域的な判断基準が固定化することで
壊死へと向かう過程だったと言える。

全体的に楽観的な印象を受けるが、もう一度《借り》に着目し、
局所的にも大域的にも壊死を免れるような「《借り》をもとに
した社会」を目指すのはよいと思う。
返すことのできる、別の人に返してもよい、あるいは返さなくても
よい《借り》が次々に発生し、変化=発散することで固定化を免れる。
だけどそれが《借り》であることによって、連鎖が止むことはない。
局所的には集団の発散に着目した性悪説っぽさがあるのに、
大域的には集団の固定化に着目した性善説っぽさがあるところが、
楽観的に映るのかもしれない。
An At a NOA 2017-08-16 “性善説と性悪説

自由というのは、重なり合った抽象過程の間で、判断基準に齟齬が
ない状態のことを言うのだと思うが、個人という抽象過程が固定化
してしまうと《借り》の度に不自由を感じる。
だからこそ、個人の確立と《借り》の拒否はマッチしたのだろう。
不自由を齟齬のまま捨て置くのではなく、齟齬をなめらかにする
ようにそれぞれの抽象過程が変化する「不均衡な状態」。
「《借り》をもとにした社会」のシステムができたら、私たちは
「不均衡な状態」で暮らすことになる。
ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」p.209
個人、家族、部族、社会、国家、地球といったあらゆる抽象過程が、
非平衡系の中の局所平衡として捉えられるようになれば、あるいは
「《借り》をもとにした社会」も成立するだろうか。

2017-10-10

身体のリアル

押井守、最上和子「身体のリアル」を読んだ。

よいテーマだ。
頭と身体に分割され、頭ばかりが大きくなってバランスを失って
いるものは、本当のところ何なのか。
最上 頭だけでもダメだし、身体だけでもダメというか、
その両方が区別のない状態に自分を持っていくわけですね。
押井守、最上和子「身体のリアル」p.86
おそらくそれは語ることで解るunderstandものではなく、やはり
身体を動かすことで分かるgetものである部分が大きい気がするの
だけど、「ゴドーを待ちながら」でヴラジーミルとエストラゴンの
二人が必要なように、頭と身体のどちらかだけでよいということは
ないのだろう。
押井守と最上和子による対談の形式をとることで、各人が頭と身体の
混合物でありつつ、それぞれの思考や体験もまた混合されることで
出来上がっているのも、本書のよいところだと思う。

理由付けすることや語ることによって解ること、理解することが
人間を特徴付けるとすれば、語らないことは語るだけと同じくらい、
身体のリアリティを毀損するはずだ。
押井 人間ってだから理解できないものをいかに理解するか
ということが人間の精神活動のすべてだと言ってもいいんでさ。
同p.98
だから、対談の中でも両者から繰り返し語る努力をする話が出てくるし、
こうしてこの本が出版されている。
一方で、固定化する判断基準の中で語り過ぎて、頭ばかり大きくなった
近代以降の人間は、挙句の果てに大きな物語が失われることで、一気に
脆さを露呈しつつある。
そういう時代にあって生きるには、押井守が空手をやり、最上和子が
舞踏をやるように、物理的身体の抽象にも取り組む必要があるのかなと
いうことを感じる。

示すことと語ること、感じることと考えることを、いかにして分離して
いない一つの抽象過程として生きるか。
最上 答えを出すというよりは納得していく。すべての
起こることを納得していくという。
押井 その過程自体を生きるという。
同p.100
それは結局は個々人でやるしかないのだと思うが、こうして他の人が
どうやって生きようとしているのかを見聞きするのはすごく面白い。

2017-10-08

改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』

堀真理子「改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』」を読んだ。

サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」について、
それを書くまでにベケットが体験したこと、ベケット本人が
演出するにあたって述べたこと、ベケットが去った今日に
おいてこの作品が表現すること、の三つを軸にしてよく
まとめられている。
ただし、著者が描き出すように、「ゴドーを待ちながら」
という作品が、頭で理解することを拒否し、言葉だけでは
語れない領域のものであるからには、この作品について
言葉だけで語ることにそもそも無理があるのだと思う。

「わからない」、「理解不能な無の存在」である「ゴドー」を
言葉で言い表そうとしても、
要するに確かなことは何もない、そう断言できる世界に
我われは生きている。
堀真理子「改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』」p.90
のような、大いに矛盾を湛えた一文にしかならない。
だからこそベケットは、ヴラジーミルとエストラゴンを不可分な
ものとして描くことで、精神と身体、心理的身体と物理的身体、
理由付けと意味付けの両方が統合されることを求めたのだろうし、
「ゴドー」は考えることと感じることの両方を通さないと、
解るunderstand/分かるgetことはできないのだと思う。
この本もまた、きっかけとなったMouth on Fireの日本公演と
不可分だったのだろう。

ベケットが「ゴドー」と名付けたものは、松岡正剛が「」と
呼んだり、ヴィヴェイロスが「リゾーム的多様体」と呼んだり
したものや、芥川龍之介の「羅生門」における「下人の行方
と通ずるところがあるように思う。
それを特定の基準だけに基づいて抽象することは、たとえ現状の
支配に対する抵抗だとしても、特定の基準に収束すること自体が
支配そのものであり、ベケットはそれをサルトル的行動として
拒否する。
ベケット自身の基準による解釈ですら正しいとは限らず、作者、
演出家、演者、時代、場所といったいろいろな要素が関係した
抽象の重ね合わせとして、常に更新されるもの。
一人の人間においても、目をくばり、耳をかたむけ、頭をひねる
といったいろいろな抽象によって、常に更新されるもの。
その更新がベケット的行動であり、ゴドーを待つことなのだと思う。

2017-10-06

青春の影

The long and winding road that leads to your door
Always encouraged me
It was very very wild and narrow, however
I'll pick you up now
To pursue my dream was my duty up to now
To make you happy
This is the very nature I live for from now

After you know what love is, a tear was born
And it shed from your eye
"The joy of being in love is just a bridge toward the rigor of love"
Just standing in the wind
You found it out
Just leaving tears in the wind
You blossom into a woman

The road that leads to your door
I make sure of it by myself
You are just a woman from today
I am just a man from today

酒と泪と男と女

"I want to forget everything"
"I feel hopeless loneliness"
In such a mood, a man may take alcohol
Drink, drink and drink too much
Drink to drink himself to fell asleep
Soon he may sleep in peace

"I want to forget everything"
"I feel hopeless sadness"
In such a mood, a woman may shed tears
Cry, cry and cry all alone
Cry to cry herself to fell asleep
Soon she may sleep in peace

なごり雪

Next to you waiting for a train
I'm worrying about time
It's snowing in the wrong season
"This is the last time to see snowing in Tokyo"
You murmur helplessly
Lingering snow may also know when to say when
After the season of playing too much
Spring has come and you get beautiful
Still more than last year

2017-10-05

WaveNet2

WaveNet launches in the Google Assistant

一年ぶりにWaveNetの続報である。
1000倍速くなった上に、より人間っぽくなったらしい。

日本語のデモを聴いてみると、録音された音声としては
もう十分な品質に達しているように思う。
話し方が均一なのは訓練を受けてるんだろうなとか、
録音の過程で音源が圧縮されているのだろうなとかを
補完すれば、人間の声として受け入れられるレベルというか。

Non-WaveNet版は機械だと思えるのに、WaveNet版は
人間だと思える。
人によっては両方とも機械だと思えるかもしれないが、
いずれにせよ、ここでは不気味の谷現象が起こらない
ように思う。
それはたぶん、評価軸が聴覚の一つしかないからだろう。
不気味の谷が現れるには、二つ以上の尺度が要るはずだ。
距離空間の取り方によらず、何らかの尺度で近い
のに遠く感じられるものは不気味になり得る。
An At a NOA 2017-07-14 “不気味
人型ロボットの口からWaveNet版の音声を流したら、
おそらく人間の声を録音したものを流しているように
感じられるだろう。
では、人間の口からだとどう感じられるだろうか。
口と音声が同期していなかったら、吹き替え版の映像
のようだろうか。
ちゃんと同期していたら、本当にしゃべっているように
聴こえるだろうか。

さすがに、あまりに音声がきれい過ぎて、目の前で
それをやられたらしゃべっているようには聴こえない
気がするが、それは視覚にとってのフォトショ加工も
同じことだろう。
Phonoshop加工された声が作れるようなものだと思えば、
画面の向こう側なら、もしかするともしかするかもしれない。

あと、この技術って逆に音声からテキストへの変換にも
使えるのだろうか。
そうだとすれば、文字起こしの精度向上にも貢献できる
だろうし、昨日発表されたPixel Budsのような製品での
言語の自動判定にも役立つだろう。
もう使われてるかもしれないけど。

「そうだ」と「すぎる」

「そうだ」と「すぎる」に対する接続は、
違いがなさそうでいてあるのが心憎い。

「なさそう」と「よさそう」はよさそうで、
「なさすぎる」も言えそうなのに、
「よさすぎる」とは言えなそうだということを
考えだすと、厳密な線引きは出来なそうで、
揺れがあるのもやむを得なそうである。

結局は語感の問題な気がするので、日本語の拍の
感じ方も時代とともに変わっていそうだし、
塊として捉える単位が短くなりそうな口語では
「さ」を入れがちで、短くならなそうな文章では
逆に「さ」を入れなすぎるのかもしれない、
という結論はくだらなすぎるだろうか。

さて、この文章にいくつの「さ」を入れたく
なっただろうか。
「そうだ」と「すぎる」を入れ替えると
「さ」を入れる数は変わるだろうか。

飛ぶDove

飛ぶ飛ばす 都バスはとバス 鳩サブレー

2017-10-03

建築における「日本的なもの」

磯崎新「建築における「日本的なもの」」を読んだ。

外部よりの視線がそそがれると、これに応答するための
対策が内部的に組織されはじめる。
磯崎新「建築における「日本的なもの」」p.11
とあるように、海岸という輪郭線に囲まれた内部において、
外部からの視線が想定されることで、「日本的なもの」が
かたちづくられてきた。
「趣味と構成」、「構築と空間」、「弥生と縄文」、
「自然と作為」のように、想定される外部からの視線が
変わるたびに「日本的なもの」も変化する中で、絶対的な
「日本的なもの」を求めればキッチュなものに陥る。
そして、世界がスーパーフラット化し群島状態に編成される
ようになってみると、それぞれの視線は「か」でしかなく、
それによって組み立てられる「日本的なもの」もまた、
一時的な枠組でしかないことがはっきりとしてくる。

視線の絶対性について、坂口安吾は虚構として一蹴し、
小林秀雄は「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」
と表現した。
磯崎新もまた、絶対的な視線の代わりに、「退行」や
「擬態」の反復によって浮かび上がる「かいわい」の
ような〈しま〉がもつ固有性に対して、「日本的なもの」
というよりは「日本的なこと」を見る。

1945年を10代で経験した磯崎新は、3つ年上の手塚治虫が
「火の鳥」を描いたように、廃墟から始まり廃墟へと戻る
循環として建築をイメージする。
そのイメージが生み出した「日本的なもの」への見方も
また一つの視線でしかないが、インターネットによって
絶対的な輪郭線を失ったにも関わらず、インターネットに
おいてすら絶対的な視線の幻影を求める現代において、
「もどくことの反復」という考え方には学ぶところが多い
ように思う。

反復が停止するか擬態でなく完全な複製になることに
よって、絶対的なものへの収束という壊死が始まる。

2017-10-02

哲学的ナスビ

哲学的ナスビ(Philosophical aubergine, p-aubergine)は、
「物理的化学的電気的反応としては、普通の茄子と全く同じ
であるが、嫁は食べることができない茄子」と定義される。

初夢に登場しても、嫁が君もまた食べることができない。

嫁が君 食えぬ茄子は 人の夢

--
一富士二鷹に次ぐ三茄子も、人の見る夢であるからには
ネズミの食べられるものではない。
哲学的ナスビは哲学的ゾンビに通じ、哲学的ゾンビという
概念もまた要素還元主義の見せる夢でしかない。
そもそも、意識やクオリアと呼ばれるものも同じように
儚いものなのではないか。

政治的スペクトル

「右と左」、「保守と革新」、「自由主義と全体主義」、
「ノーラン・チャート」のように、政治的スペクトルを
一次元や二次元に落とし込む試みは多い。

「保守と革新」というのはつまり、保守が固定化、革新が
発散に対応するのだと思うが、固定化と発散は
「今を維持しようとする力」と「変えようとする力」
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス
なので、維持する対象となる現状が変化するのに合わせて、
態度も変化するものであるはずだ。

「自由主義と全体主義」というのは、人間と国家という
大小の抽象過程のうち、いずれを優先するかということに
対応するのだと思うが、これは軸の設定がまずいと思う。
一人の人間であると同時に、家族の一員でもあり、国家の
一員でもあり、地球の一員でもあり、というように、多数の
抽象過程の重ね合わせとして生きる状態の対極として、
いずれか一つの抽象過程のみを重視する生き方がある、
という「多態性と単態性」のような軸の方がわかりやすい。
自由主義も全体主義も行き過ぎれば単態性に陥り、結局は
その単態性が集団間の垣根を超えられないほど高く、強固な
ものにしているのだと思う。

「多態性を維持しながら、固定化と発散を繰り返す。」
これを標榜する集団はスペクトル上のどこに位置するのだろうか。

いずれにせよ、あまりに低次元に落とし込んだ議論は、
圧縮し過ぎたJPEG画像のようにわけがわからず、
元の姿を想像するのに非常に高いリテラシーを要する。
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学

2017-10-13追記
「右と左」の違いは、差異に対する態度だろうか。
右は差異があることを許容し、左は差異がないことを望む。
差異が絶対化した世界も、差異が消滅した世界も、ほとんど
同じくらい望ましくないように思う。