2015-12-31

海街diary

Google Playで映画レンタル75%オフをやっていたので、
「海街diary」を見た。
是枝裕和監督の作品は「そして父になる」に続いて2作目だ。
撮影は同じく瀧本幹也さん、そして音楽は菅野よう子さんだ。

これは是枝さんなのか瀧本さんなのかわからないが、
2作品とも青や緑の印象が強い気がする。
あと、カメラワークとして、レンズが人物の目線よりも
下になっているカットが多い気がするが、
他の映画と比較したことがないので普通のことなのかもしれない。

「そして父になる」のときは、自分が父になるという想像に
ある程度の現実味があったこともあり、それに比べると
「海街diary」への感情移入度は下がったが、
4姉妹を始めとした微妙な感情の表現はさすがと感じる。
どこまでアドリブが入っているんだろう。

印象的だったのは花火のシーンだ。
あれ、一発撮りだったらしい。
イメージと技術のレベルの高さを見せられた思いだ。
他にも、食卓を囲うシーンや4人が窓から顔を出しているシーンなど、
昭和の名作を見ているように感じるカットが多かった印象だ。
意図的にそうしていたんだろうか。

2015-12-29

stool

洗面所の踏み台用にスツールを作った。
脚の間にちょうど無印良品のファイルボックスが納まる。

長さ1820mmの1x6材から4枚の板を切り出して組み合わせる。
時間がなくてボンドと金物で接合したのみであるが、
天板側にビス頭が出ない納まりにはこだわる。

そして、デスクライトを間接照明にしてf/5.6、6.5''で撮影。
概ね影は消えただろうか。

ピダハン

ダニエル・エヴェレストのピダハンを読み終えた。

ピダハン語の特徴のいくつかは日本語に似ていると感じた。
 ・目的語が動詞の前にくる
 ・語順が比較的自由である
 ・動詞の活用がなく、接尾辞をつけていくスタイル
 ・声調の違いが意味の区別に使われる
江戸時代には銭湯が混浴だったらしいが、
性に対して開放的である点にも共通点がみられる。
細かいことはわからないが、家族構成などにも
共通点があるのだとすれば、文化が言語に影響を
与えるという説への一助になるかもしれない。
鶏と卵であるが。

著者はリカージョンと表現しているが、
ピダハン語に従属節や関係節が見られないというのは
とても面白い。
真賀田四季の「接続詞は不要です。文脈に興味がありませんから。」
というセリフを思い出した。


川に入って行ったのと出てきたのは同じ人間なのか、という話や
ピダハンが折りにふれて名前を変え、前の名前で呼ばれても
自分のことだとは思わないという話。

意識はどうやって自らの連続性を認識しているのだろう。
記憶の連続性のみに依拠しているのであれば、
それは物理的に再現可能だろうか。
発想もまた、それまでの記憶を元にしているのであれば、
回路が実現されることで可能だと考えるのが科学的には自然だ。

自己同一性もまた、文化の影響を多分に受ける。
明日起きた後も、まだ自分は自分だろうか。

2015-12-28

daishou

代償の大小

社会

以下は、日本に限った話なのかもしれない。

・帰省しない人が増えている
・子どもを産まなくなっている
・産んだ後も仕事のため、保育園に入れる
・介護もしなくなっている
・近所付き合いは顕著に減っている
・見知らぬ人の子とのコニュニケーションを避けている
 特に、怒らなくなっている

これらすべて、社会性を減らすような傾向であると言える。
そしてそれは、個人が趣味や仕事のための代償として
払った対価である。

個人の集合が社会を作っているというのは、
個人という概念ができた後に想定された物語で、
実は社会を分割してできたものが個人なのではないか。

教育や社会保障のサービス化というのは、
家族という仕組みの継続のためには悪手になることもある。
お金さえ払えば何でもかんでもアウトソースできる。
育児、教育、しつけ、看病、介護。
そしてそのお金はアウトソースしたこれらの行為の裏で
せっせと働いて稼いだものである。

貨幣のおかげで物々交換から解放されることで、
人間は他人との関係を少しずつ切り離すことに成功してきた。

国家としては、家族の形態がどうあろうが、あまり関係ないだろうか。
むしろ、貨幣のみでつながっている方が管理がしやすいとも言える。
先日、子育て給付金を廃止し、高齢者への給付金を行うという政策が
発表され、twitterなどでは一部から非難轟々だった。
でもこれって、構図としては仕事で稼いだお金で親を老人ホームに入れ、
代わりに子育てに時間を割くのと同じなのでは。
それを各家族でやるか、国家レベルでやるかの違いが非難を生んでいる。
個人が家族のつながりを減らしたいのであれば、
国家がその仕組みの肩代わりをすることを非難する資格はあるのだろうか。


時間は有限である。
その有限な時間を何のために使おうが個人の勝手である。
親も子も切り離し、趣味や仕事に邁進するのも、また一興なのかもしれない。

1,2,3,4,5

一時、二次災害によって大惨事になりました。
以上、四時のニュースをお送りしました。

2015-12-22

イエロークリスマス

文京区にはイチョウの木が多い。

今年は暖冬のせいもあってか、
未だに黄色い葉をたくさん残している木も
結構見受けられる。

クリスマスまであと2日。
イエロークリスマスになるのはほぼ間違いなさそうである。

2015-12-17

最高裁で夫婦別姓を合憲とする判決が出たようだ。

個人的にはどちらでもよいというか、
むしろ結婚を国に認めてもらう必要があるのは
何故だろうと考えてしまう。
国の側からすれば、結婚には出産を期待でき、
子を新しい国民として取り入れることが国の利益に
つながると想定できるため、結婚を制度として
組み込むメリットはある。
国からは対価として扶養控除等のかたちで
国民の側にもメリットを用意する。
相互から強化することで結婚制度を維持してきたが、
それが難しくなるのであれば、抜け出せばよいのでは。

また、親の姓を受け入れることに疑問をもたないのに、
入籍時にどちらかの姓を受け入れることに疑問を
もつあたりに整合性のなさを感じる。
親とも配偶者とも子とも別々の姓を名乗ることを許した世界まで
想像して夫婦別姓を唱えている人はどのくらいいるんだろうか。

出身地も方言も家系図も姓も、そういった付帯的な性質を
どんどん捨てて、人はさらにindividualになっていく。
一方で様々なハンドルネームを駆使して、ネットワークの世界では
どんどんdivideされていく。
最近の傾向としては通時的なつながりを減らすことで
共時的なつながりを増やしていくのが流行りなのかもしれない。

2015-12-16

同一

ダニエル・エヴェレットの「ピダハン」という
本を読んでいる。

まだ半分くらいであるが、科学を通して把握される
世界にとって、ピダハンの人々は極めて特殊だ。
著者によれば、数量詞や色名等、言語学の常識からすれば
言語一般に備わっている単語がなく、音素も圧倒的に少ない。

果たして西欧的な意味での意識をピダハンは
もっているのだろうか。
(意識の有無は別に優劣ではなく実装の問題であるから、
例えばLISPとFORTRANの設計思想の違いのようなものだ。)

コンピュータの世界でデータを圧縮する際には、
何をもって同一とするかが重要になる。

認識が入力された情報の圧縮なのだとすれば、
情報のどの部分を同一とみなすかがキーになる。
同一性に関する公理が定まれば抽象が可能になり、
差異から意味を取り出すこともできるようになる。

この「同一性に関する公理」こそが意識のあり方を
決めているのだとすれば、西欧人とピダハンとで
全く異なる世界を認識しているという事態も、
ありえないことではないと考えられる。
ノーム・チョムスキーの言う生成文法というのは、
「同一性に関する公理」がホモ・サピエンスにおいて
一通りであるという意味なのだろうか。
同一性の同一性はどうやって検定したらよいのだろう。

2015-12-14

講義

「大学では授業のことを講義って言いますよね」
「授業と講義の違いはわかるかな」
「うーん、双方向性とかでしょうか」
「双方向な講義なんて絶滅危惧種みたいなもんだよ。単に箔を付けたいがためさ」
「大学の先生方も意外と体を気になさるんですね」
「まあそれは否定しないけど、箔を付けたがっているのは学生の方だよ」

2015-12-10

炒り豆に花が咲く

いりまめにはながさく
ながいはにくさりまめ
長い歯に腐り豆

擦り傷

「ズサーッ!イッテー!!」とかけまして、
「あ、すいません。ん?あっ!財布!!」とときます。
その心は、
どちらも
擦り傷痛んだ/スリ気付いたんだ
でしょう。

2015-12-08

聴いて極楽見て地獄

きいてごくらくみてじごく
くらくてくじきごごみてい
暗くて挫き午後未定

linuxのvimでクリップボード

先日コンパイルしたlinuxのvimを使っていて、
他のアプリケーションからコピーした内容はpできるのに
vimでヤンクした内容がペーストできないと思っていたら、
どうやら"*レジスタの他に"+レジスタがあるらしい。


:help x11-selectionによれば、
X11のglobal storeにはselectionとcut-buffersの2種類があるらしく、
selectionはアプリケーション毎に保持されるのに対し、
cut-buffersはXサーバ自体に保持される点のみが異なるようだ。

selectionの中身はペースト側のアプリケーションからの要求が
あったときにのみ渡され、
cut-buffersの中身は即座にXサーバからアクセス可能になるらしい。

さらに、:help quoteplusを読む。
X selectionsにはPRIMARY、SECONDARY、CLIPBOARDの
3種類があり、PRIMARYはvimではヴィジュアルモードに相当し、
CLIPBOARDはカット、コピー、ペースト操作用とのこと。

vimでは、PRIMARYには"*レジスタを、CLIPBOARDには"+レジスタを
使っているようだ(SECONDARYはill-definedであり、vimでは
使っていないとのことである)。
この項のExamples:を読むと、次のことがわかる。
 ・vimのヴィジュアルモードで選択したテキストは、
  他アプリケーションにおいて中ボタンで貼り付け可能
 ・他アプリケーションで選択したテキストは、
  vimにおいて中ボタンで貼り付け可能
 ・vimで"+レジスタに入れたテキストは、
  他アプリケーションのペースト機能で貼り付け可能
  (このとき、テキストを選択していた場合は上書き可能であり、
  PRIMARYとCLIPBOARDの内容が影響し合わないことがわかる)


ようやく把握した。

時間

時間とは、繰り返しの中に見出された順序のことである。


同じような事象が連続して繰り返されることは多い。
鼓動、日の出入り、月の満ち欠け、季節。
それが繰り返されているものだと認識することから、
時間概念は発生しうる。

脳に入力された信号が同じようなものであると認識できる能力に加え、
それを順序に並べ、要素間の発生間隔を記憶する能力も必要である。

時間概念なしでも、現在一日と呼ばれている時間間隔に合わせて
行動することは可能である。
それは、日射、気温、湿度、風等の外的要因への反応でしかなく、
意識が芽生える遥か昔からの習慣だろう。

段階的ではあるが、いろいろなものが繰り返されていることを知り、
それを順序付けることができたことで、時間という概念を抽象することができた。
あらゆる繰り返しの中に見出した構造を時間と名付け、
その構造体自身を扱えるようになったのも、人間を特徴付ける
抽象能力の賜物である。

ブルバキ的に言えば、空間が位相的構造をもつのに対し、
時間は順序的構造をもつ。
ここに決定的な違いがあるように思われる。
時間軸上の移動ができたとして、果たしてそれは空間軸上の
移動と同じ意味をもつことなどあるだろうか。

パブリックな時間が存在して、個々人がそこにアクセスしているという
古典的な時間概念は相対性理論とともに崩れ去った。
上記のような時間の発生過程を想像すると、
相対性理論を持ち出すまでもなく、絶対的な時間など存在しない方が
自然であり、コミュニケーションのために抽象された言語に近いものだと
考えられる。

時間はとてもプライベートなものである。

2015-12-07

辞書

辞書とは言葉から言葉への置換の集合であるが、
検索語を抽象するような置換になっている必要がある。

言語自体が事象に対する抽象になっているわけだから、
2段階の抽象ということだ。

抽象的な辞書を作りたい。
ということで、追加した→

2015-12-06

圧縮

人間が抽象能力によって特徴付けられるのだとすれば、
言語はその最大の成果であり、人体の外側から入ってくる
様々な情報の圧縮方式である。

宗教も、真なる命題を無反省に受け入れることで
原因ー結果のプロセスを短絡することだとすれば、
圧縮方式の一種である。

宗教、言語、意識等についての反省が可能であることに
気付いたのも、人間が死から十分に遠ざかり、
暇になったということの現れなのだろう。

2015-12-03

宗教

宗教とは説明の集合体である。

「○○は××である。」
あるいは
「○○なのは××だからである。」
のような命題のコレクションであり、
すべて真であることが前提されていることに
特徴がある。


脳の容量が増えることで、人間のパターン認識能力は
爆発的に発達し、それは空間的にだけでなく
時間的にも拡がった。
時系列で生じる事柄について次の段階を予測できることは
生き残る上で有利に働くため、
「原因ー結果」という因果律を求めるのは自然だと考えられる。

因果律に対する希求が宗教を生むのも、
極めて妥当性が高いと思われる。
不明瞭な事象に対し、上手く説明される一連の命題を受け入れることは、
当人にとって生存を引き延ばす安堵感へとつながる。

中世に比べるとヨーロッパにおいて教会の権威が落ちているのも、
科学というより説明能力の高い思想体系が発達した影響が大きい。
日本でキリスト教が普及しないのも、日本に入ってきた当時、
既に日本流に解釈された仏教や神道、あるいは「お上」等が存在し、
それらに囲まれてある一定レベル以上の暮らしを営んでおり、
西洋でキリスト教が生まれた当時に比べて生存への不明瞭さが
なかったからではないか。

「世界はどのようにして始まったか」というような不明瞭な事柄を
説明するために踏む段階の数を説明距離と呼ぶとすると、
説明距離の短さは宗教間の軋轢に繋がりやすい。
つまり、その事柄の説明があまりに短絡過ぎると、
他の解釈との相違が目立ち、対立に繋がると考えられる。

科学はおそらくこれまでに生まれたどんな宗教よりも説明距離が長い。
体系間の軋轢というのは説明距離の短い側から生まれることが多いため、
科学の側から既存の宗教を告発する事例というのはあまり聞かないが、
科学は静かに宗教の領域を侵食しつつある。
しかし、どんな説明もまた一つの解釈でしかないから、
科学が宗教を完全に駆逐するとは考えづらい。
それは、日本でキリスト教が普及しないのと同じ構図だ。

そもそも、自意識自体が無意識のうちに設定された、
不明瞭な事象に対する説明である可能性すらある。
この文章、「意識」が「無意識」のうちに設定される、という
わかるようなわからないようなものになっているが、
つまり、意識が介在せずに行動している状態において、
判断基準は不明瞭であった。
本能的判断のみによって行動している段階では
原因と結果が十分に近く、判断基準の不明瞭さには
気付かなくとも生存が脅かされることがなかった。
それに対し、判断対象の領域が拡がるとともにその不明瞭さが
明瞭になっていき、いつしかそれに対する説明を受け入れること
抜きにはいられなくなった。
そのときに仮想された判断基準としての「意識」なるものが
脈々と受け継がれているのではないかということだ。


いつか意識に対する別の説明が現れたとき、
人間にはそれを受け入れるだけの強さがあるだろうか。

2015-11-30

咲く開く

東北の紅葉はもう盛りを過ぎたようだ。

桜の季節は「一分咲き」「満開」等と表現するが、
紅葉は何と言うのだろう。
先日の京都のときにも悩んだ。

「一分照り」「満彩」はどうだろう。

2015-11-27

部活

最近、高校時代に部活でやっていた合唱への熱が高まっている。

御苑に行った日にたまたま見つけて購入した
「東京シャッターガール」という漫画が
女子高生を主役としており、写真甲子園の回があった。
写真甲子園に向けて合宿したり、大会で奮闘したりという様子が、
高校時代の部活の思い出に重なった。

夏ドラマで「表参道高校合唱部!」という
合唱をテーマにした稀有なドラマがやっていたようなので、
見てみたところ、とてもよかった。
あれ、合唱の部分は全部役者の方々が直々に歌っているんだろうか。
そうだとしたら相当な練習を積んだはずだ。敬服する。
他にも、選曲や発声練習はもちろん、合唱コンクールの主催者名や
参加校名等の細かいところまで、合唱知っている人がニヤリと
できる点が多かったのも好感がもてる。
とてもよい内容だったと思うのは合唱経験者だからなのか、
Wikipediaによると残念ながら視聴率はそんなによくなかったようだ。
今の時代はリアルタイム以外で見る人間も相当数いるに違いないので
視聴率には現れないのかもしれないが、是非拡がってほしい。
「けいおん」や「響け!ユーフォニアム」のような、高校の音楽部を
舞台にしたアニメが流行るのだから、これももっと盛り上がって
よいと思うけれど。

先月の演奏会までの半年間、2週間に1回歌っていたのが
全く歌わなくなったもんだから、久々に歌いたいと思い、
初の一人カラオケに行ってみた。
発声練習ができるところであればどこでもよいのだが。
葭田晃さんという方のページにまとめられていた
発声方法が、大学時代に習っていた内容とマッチしていて、
とても参考になる。

2015-11-24

5周年

Xシリーズ5周年に応募した。

X-E1を買ったのは2012年の秋だったので、
Xシリーズを手に入れてから3年経つ。
ボディはX-E1のみ、レンズは18-55mmF2.8-4、
23mmF1.4、35mmF2、90mmF2の4本。
買った日の帰り道に撮った夜景が予想以上に
見た目通りに撮れたことに、いたく感激した覚えがある。

元々、植田正治さんの写真が好きで、
鳥取の植田正治写真美術館も訪れた。
2009年にはたまたま見に行った展覧会でMichael Kennaを知り、
すぐにファンになった。
両者とも、徹底的に要素を集約することで、
詩や俳句のような趣をたたえた写真が多いと思う。

応募作品は昨日の御苑の写真にした。
京都の五重塔の写真と悩んだが、色の組み合わせは
こちらの方が好きだ。
都会の中でも、植田正治さんやMichael Kennaのような
写真を撮りたい。


「押し花」

都会では雑然さが空まで拡がっている。
小雨の混じる秋曇りの新宿御苑にて、
未だ侵食を逃れている空を仰ぐ。

秋曇り 押しも押されも せぬ余白

gxui->shiny

ひと月程前、gxuiの開発が中止になった。
GXUI is now unmaintained

少し前からgolang.org/exp内のshinyという
レポジトリで新しいguiライブラリの開発が
始まっている。
久しぶりにgo getしてみたところ、
windowsでもexampleの一部が動くようになっていた。
(commit 48f611b013d6f6fbecb58f8212b1152abb23b928 時点)

まだまだ開発中であるが、今後に期待。

2015-11-23

曇天に押し花













新宿御苑にて、曇り空を背景に。

2015-11-22

表現

昨日は先日の演奏会のちょっとした打ち上げだった。

テキストというものは言葉によって切り刻むことができる。
合唱では、歌詩あるいは旋律などを解釈し、別の言葉で
置き換えていくことに相当する。
(ちなみに、歌詩を歌詞と書いたり、作詩を作詞と書くのは
あまり好きではない。)

かなり雑ではあるが、料理の比喩を用いれば、
素材を切り刻むことで消化はしやすくなる。
詩や旋律をそのまま受け取るよりも、
ここはこういう意味、そこはそういう意味というように
切り刻まれていた方が、あるフィルターは通過しているものの、
理解はしやすい。

ただし、合唱とは、曲自体が一つの芸術であると同時に、
発表自体もまた別の一つの芸術である。
切り刻んだ対象そのものを提供するわけにはいかない。

指揮者によって切り刻まれた素材を、
指揮者と歌い手が協力しあって再構成することで
提供可能な一つの料理に仕上げることが必要である。
そこには既に切り刻んだ名残の大半が残っていないかもしれないが、
その破片をところどころに感じてもらうことで、
合唱団としてその素材をどのように解釈したのかを
考えてもらえれば幸いである。

今回は聞き手から概ね好評を頂いた。
よい形で再構成できただろうか。



打ち上げ前に近くを散歩していて、南高橋という橋を見つけた。
関東大震災後の復興で、予算不足のために古い両国橋の一部を
移築したもののようだ。
力学的にとても素直な構成をしている点に好感がもてる橋であった。

多田武彦の名曲「花火」に両国橋が出てくる。
南高橋に移設された両国橋が架けられたのが1904年、
東京景物詩が1913年であるから、
おそらく白秋の見た両国橋の一部が今の南高橋なのだろう。
明日は東京景物詩の景色をめぐるのもよいかもしれない。

論理と倫理

「論理的に正しい」という言い方をすると、
絶対的な正が存在するように聞こえるが、
それはある公理系の中で整合性があるという意味に過ぎない。

絶対的な正というものは存在しないが、
人間全体にとっての絶対的な正というものは存在しえ、
それを追求する学問は倫理学と呼ばれる。

人工知能に倫理を理解させるのが難しいのは、
おそらくそれが人間のための正だからなのだろう。

正・不正とは仮面を被った好き・嫌いである。

2015-11-21

続・焦点距離・考

35mmは体験、50mmは観察、135mmは目撃である。

ナポリタン

ナポリタンたっぷりなポリタンク

2015-11-20

過去未来

宇宙発電、はやぶさ、新国立競技場などについて
講演を聞いた。


宇宙発電の話は、ありふれた形容をすれば、
非常に夢がある話だった。
技術的な問題はまだまだ多いようだが、
お金と人が集まれば、時間で解決できそうな
問題が多かったように思う。
そして、思ったよりもお金換算ではオーダーが落ちる
ほどではないと感じた。
話を聞いていて思ったのは、1950年代あるいはもう少し
前の時期に、原子力発電に関しても似たような
プレゼンがされたんじゃないかな、ということだった。
最近つとに感じるが、やはりエンジニアとして
非エンジニアに対していかに説明するかというのは相当難しい。
原子力発電と同じ道を辿らないことを祈る。

新国立の話で納得したのは、
1964年のときのように、国民の多くが同じ方向を向く、
という状況にならなかったのが最大の違いだという点だ。
オリンピックをやりたいのか、新しい競技場を建てたいのか、
立地はどこがよいのか、誰が設計するのがよいのか。
価値観の多様化という使い古された言葉に、ザハの案は
引きずり降ろされたのかもしれない。
みんながある程度似た価値観を共有しているなんていう
妄想を抱いている人間が、意外とまだまだ多いんじゃないだろうか。

2015-11-15

意識

意識をもつことが異常になった世界の話というのは
描き出すのがすごく難しい。
「正常」とされる無意識の人々は、伊藤計劃の世界観に
ならうとすれば、これ以上なく合理的判断のみを繰り返す
存在であるから、果たしてそこに言語的コミュニケーションは
残されるのだろうか。
セリフもなく、淡々と合理的な行動のみが記される中、
自意識を発症してしまった人間が「治療」を受けながら
葛藤するような物語。面白く書くのは可能だろうか。

消費しなければならないエネルギーに比べて、
摂取できるエネルギーの量が圧倒的に少なかった時代、
ミトコンドリアを取り込むことで好気呼吸を実装した。
遥かに時代が下った後で、摂取エネルギーが爆発的に増加することで、
それは異常として認識される糖尿病の片棒を担ぐ結果と
なったとも言える。

処理しなければならない情報に比べて、
処理可能な情報の量が圧倒的に少なかった時代、
意識を実装することでそれを乗り越えたのだとして、
この先処理能力が爆発的に増えるようなことがあったとき、
意識が異常と認識される時代が来る可能性はゼロではない。
脳の容量も増え、もはや外見も現在の人間とは異なるかもしれない。
そういう意味では、もしかするとコンピュータに意識を実装するのは
ウイルスを埋め込むようなもので、全く無意味なのかもしれない。

今はむしろ情報の方が爆発的に増えているので、
しばらくは意識が必要とされる時代が続くのだろう。
と思ったけど、果たして情報の量はそんなに増えているんだろうか。
確かにネットワークによって世界中の情報が手に入るようになった。
パリの同時多発テロの情報だって、半日もしないうちに世界中を駆け巡る。
しかし、今この眼の前に拡がっている光景の方が、テキストデータとしてのみ
供給されるパリの事件の情報よりも遥かに多くの情報をもっている。
実は薄く拡がった縁辺ばかり量が増えているだけで、
大枠の情報量は変わっていないんじゃないだろうか。

今やスマホ一台あれば、あらゆる記憶がアウトソースできるし、
時々刻々、その場に合わせた情報をプッシュ通知もしてくれるから、
処理すべき情報の量は漸減され、与えられた情報をただただ享受すれば
よいだけになってきている。
外部機関によって情報がフィルタリングされることで、
処理すべき情報の方が減っていった場合でも、意識は消滅しうるだろうか。

人はそれを、かつて痴呆と名付けた。

映画<harmony/>

<harmony/>の映画を観てきた。
かなり原作を忠実に再現していて、
観てよかったと思える映画だった。

トァンの声を聴いていて攻殻機動隊っぽいなと
思っていたけど、あちらはcv坂本真綾、こちらは
cv沢城みゆきだった。似ている。

強いて一点だけ注文をつけるとしたら、
etmlで記述されている感じをアニメーションで
表現できたら、どんなものになったかを
観てみたかったとも思う。
あるいはそれは現代の人間にとっては、
ベタな展開で喜怒哀楽を想起させることこそが
etmlの文法で、「etml1.2に準拠したエモーション
テクスチャ群」は意識の中にプリインストール
されているのかもしれないが。

原作を読んだ身からしても、
結構サクサク展開していくなーと感じたので、
映画が初見だと、ところどころついていけないかもしれない。
そもそも提示されている問題も結構複雑なので、
映画が面白いと思った方々には是非原作を
読んでみてもらいたい。

「意識と脳」というスタニスラス・ドゥアンヌの本を
読んでいるが、この本に出てくる実験の話や
それに関する著者の見解を読んでいると、
伊藤計劃が<harmony/>で描いていた意識像、
 ・いろいろな欲求が会議をしている状態
 ・肉体のために意識を実装する必要があった
というのも、結構的を射ているように思う。

こういうことを考えると、認知症や精神病は果たして
異常な状態なんだろうかと思えてくる。
意識があって「わたし」なんてものがいると信じている方が
よっぽど異常な状態なのかもしれない。
「正常」あるいは「正しい」という基準自体がそもそも
好みの問題であるから、意識をもっている人間が大多数であり、
意識をもっているのが人間に限られている間はそちらが
「正常」なのであろう。
伊藤計劃が糖尿病の例を挙げているが如く、
自意識なんてものを発症した人間が病人扱いされる未来も
あり得るのかもしれない。
いつか、<harmony/>や「彼女は一人で歩くのか?」のような
世界がきたとき、「わたし」が消え去る瞬間に立ち会えるとしたら、
どれだけ幸せだろうか。


思えば、建築に限らず言語学、論理学、医学、数学、その他諸々の
本を読んで、自分とは何だろうかと考えるようになったのも、
伊藤計劃の虐殺器官と<harmony/>を読んでからである。
いつか、私が何者であるか、納得したい。わたしよ。

2015-11-13

代数的構造

友人に勧められた森敦の「月山」「意味の変容」を
読み進める中で、「構造」とは何かと考えることが多くなった。
建築の構造を専門とするからには、
非常に重要なテーマであると言ってよい。

森敦がヒルベルトに影響を受けているということで、
久しぶりに数学に関する本に手を出してみた。
 ・代数的構造 遠山啓
 ・無限と連続 遠山啓
 ・現代数学入門 遠山啓
 ・現代の古典解析 森毅
 ・思想の中の数学的構造 山下正男
 ・論理学史
 ・圏論による論理学 清水義夫
寄り道的な買い物が多く、明らかに買いすぎた。

「代数的構造」から読み始めているが、
遠山先生の文章はとてもわかりやすい。

数学者が構造を作り出し、物理学者が実在と結びつける、
あるいは物理学者が必要な構造を依頼し、数学者が創造する、
という例えは、建築家と構造家の関係にも似たところがある。

森敦の「現実的構造」と「実現的構造」をとれば、
実在する建築物や船、植物等から表面的な部分を捨象し、
そこに潜む共通事項を削りだしていくのが帰納による「現実的構造」であり、
応力伝達の在り方のようなものから公理を設定し、
トラスやラーメンといったものを創造していくのが演繹による「実現的構造」
なのだろうか。

2015-11-09

明・暗・照

三四郎池南側の池畔は、京都で寺院の中から見た庭と
同じ構造をしている。
光を透過させる障子と欄間の役割は植物によって果たされ、
光を反射させる畳の役割は地面によって果たされている。

明るい中心と暗い周辺という構成が日本人は好きなのだろうか。

ロラン・バルトの言う空虚な中心や
河合隼雄の中空構造論との関わりはあるのか。


p.s.
それにしても便利なものだ。
携帯電話のカメラでとった写真はGoogleフォトに
連動しているので、転送する手順を踏まなくても
PCから参照できる。

7で割り切れるかはグラフでわかる

Divisibility by 7 is a Walk on a Graph, by David Wilson
が面白かったので拙訳を。


--
Divisibility by 7
整数nを決める。
グラフの一番下の小さな白い点から
スタートして、nの各桁の数字dについて、
d個の黒い矢印をたどっていく。
そして次の桁の数字に行くときに、
白い矢印を1つ分進む。

例えばn=325なら、黒い矢印を3個、
白い矢印を1個、黒い矢印を2個、
白い矢印を1個、黒い矢印を5個、の順にたどる。

白い点に戻ってきていればnは7で割り切れる。
(訳注: 白い点から黒い矢印をいくつ進んだかが
7で割った余りに対応する)

特段びっくりするようなことじゃないけど、
グラフが平面で表せるっていうのはいいね。

--
What is the process of creating this automata for checking divisibility by 7?
に解説が出ているが、黒矢印は単純に1を足すことに対応していて、
白矢印は10倍した数字を7で割った余りに移動することに対応している。
つまり、
0→0

1→3 (10=7×1+3)

2→6 (20=7×2+6)

3→2 (30=7×4+2)

4→5 (40=7×5+5)

5→1 (50=7×7+1)

6→4 (60=7×8+4)

0→0
・・・
で、下に進むのが黒矢印、右に進むのが白矢印となっている。
これも当然だけど、7×xのxを白矢印の順にたどると142857になる。

借りてきた猫

かりてきたねこ

こりてきたかね
懲りてきたかね

2015-11-05

正義

「正しい」と「好き」の違いは曖昧だ。
強いて言うなら、正しいには意識されにくい主語が
常に伴うことだろうか。

その主語は、絶対君主制ではもちろん君主であるし、
民主制では多数派である。

勝てば官軍、負ければ賊軍。

正義とは愛の一形態であり、
愛とは一種のバイアスである。

絶対普遍な愛が存在しないのと同様に、
絶対普遍な正義もまた存在しない。
あるいは、絶対普遍な愛が存在するという信念のもとにのみ、
絶対普遍な正義は生まれる。
宗教を背景にした戦争が起こりやすいのも致し方のないことである。

2015-11-04

焦点距離・考

先日の京都には23mmと90mmを持っていった。
京都の庭は23mmの方が撮りたい絵が多い。

23mmは空間体験を切り取るイメージで、
90mmはふとした視覚体験を切り取るイメージがある。
今回訪れた寺院はどこも室内を含んだ庭の体験が
すばらしいところばかりだったので、
23mmが合っていると感じたのだろう。

90mmは視覚としては狭すぎるものの、何か気になった
対象それ自体を描き出すのには抜群だ。
そういう意味では、雑踏等の元々設計されていない
空間でこそ役割が際立つのかもしれない。
23mmは逆に視覚としては広すぎる。
普段視覚として意識的には捉えていない空間も
入ってくるおかげで、空間体験的な表現にはぴったりで、
設計された空間がよく似合うのだと思う。

視覚にぴったり符合するのはどのレンズだろうか、
と考えたとき、ふと昔使っていたハッセルブラッドの
ことを思い出した。
神保町の小さなカメラ屋で中古で買ったハッセルブラッドには
80mmのレンズがついている。これは35mm換算だと50mmだ。

5年以上前に、母方の実家が取り壊されるということで、
このカメラを片手に写真を残しに行った。
幼少の頃、よく遊びに行った家で、当時でもその面影が
至るところに残っていた。
ハッセルブラッドを構えて上からファインダを覗くと、
何の違和感もなく、淡々とその思い出の風景を切り取れて
いたなという記憶がある。
その写真はリバーサルで撮っていて、確か現像した写真は
母親にプレゼントしたはずだ。ポジはどこにやったっけ。

そんなことを考えると、やはり標準レンズという名は偉大というか、
私の目は35mm換算で50mmのような気がする。
今度発売するXF35mmF2ではどんな視覚が得られるだろうか。
倍率1倍の望遠鏡となることへの期待を込めて。

2015-11-03

まだ照り初めしもみじ葉の

ふと堂に入れることに気づき、
人気も少ない暗闇の中、堂の戸をゆっくりと開く。
既に夜も深いので、堂の内外での明暗の差はない。
敷居を慎重にまたいで、静かに戸を閉める。
ふと見上げると暗闇に浮かぶ黄金が現れる。
仏のようであるが名はわからない。
伏し目がちに正面まで歩を進め、その名を確かめる。
ゆっくりと見上げた先には、想像したとおりの、
だが温かいようで同時に薄ら寒い薬師如来像の顔が浮かんでいる。
2015年11月3日、齢二十八も半ばを過ぎて初めて、
恐れという感情がどのようなものであるのかを体感した。



朝は予定通り5:30に起床。
その後はスムーズにいき、チケットをとっていた新幹線よりも
一本前のものにして京都へ向かう。
車中では先日友人に勧められた森敦の「月山」を少しずつ
読み進める。
翌日に守山への出張が入ったため、急遽京都に前泊することにした。
久々の観光旅行である。一人旅はちょうど一年前の京都以来かもしれない。
土日に調べて瑠璃光院と蓮華寺に行くことを決めた以外は特に決めていないまま
京都駅についてしまった。
とりあえず荷物を軽くして烏丸線国際会館駅から大原方面のバスで
八瀬の辺りへ。
バス停から案内を頼りに瑠璃光院に向かうが、同じバスから降りた
ご夫婦以外は人がいない。本当にマイナな観光地のようだ。
瑠璃光院は山の斜面にそのまま建てたようなお寺で、高低差を利用して
幾つかの堂が建っている。
上から順にということで、瑠璃の庭を2階→1階の順に見た後で、
臥龍の庭を見ることになる。
紅葉はまだまだ盛ではないが、人もそれほど多くなく、
きれいな景色をゆっくりと見られるのがとても良い。

瑠璃光院を出たところで、延暦寺か大原の方へ向かうことを検討するも、
やはりそのまま蓮華寺へ。
蓮華寺は瑠璃光院以上に人が少なく、拝観料も安いというのに、
庭の美しさは瑠璃光院に引けをとらないくらいであると思う。

瑠璃光院と蓮華寺を見たままに撮れたら写真をやめてもいいと
書いている人がいたが、その気持ちもよくわかる。
いつか紅葉真っ盛りのときに訪れたいものだ。

蓮華寺を見終えた段階で12時過ぎ。早くも予定が終わったので
次の目的地を探す。正直この2箇所がまわれただけで
今回の京都旅行は大満足である。
秋の特別拝観をやっている中で近場ということで
慈照寺に決めてバスで移動。バス停を降りた辺りから
不穏な空気を感じるが、とにかく入り口まで行ってみる。
しかしというかやはりというか、案の定観光客が多く、
先ほどの2箇所とは全く違う雰囲気に、入って早々見る気が失せる。
写真を撮る気もなくなりかけていたが、慈照寺と言えば
建物よりも砂の庭だというイメージが強かったので、
そちらに集中する。慈照寺の波は見事だ。

結局特別拝観は予約が一杯で夕方まで待つようだったので諦め、
哲学の道を南行する。
あてもなく哲学の道の果てまで来た段階で、
去年結局行けなかった東福寺に行こうと思い立ち行動開始。
しかし、ここまで来てメジャーどころにいくのもどうなのかと思い始め、
いろいろと検索すると光明院というお寺がよさそうだという情報が。
そしてまたしても東福寺を諦め、日暮れ時の16時前に光明院に到着。
昭和時代に設計された比較的新しい庭園とのことで、
ところどころにモダンな感じが感じられなくもない。
個人的な違いとしては、朝の2つの庭は間違いなく横位置で撮りたい庭で
あるのに対し、この庭は縦位置の方が納まりがよいと感じる点だ。

今回の京都旅行は、今まで訪れたことのないマイナなところをまわり、
フレーミングされた庭を落ち着いて眺めることが多かった。
畳、障子、欄間によってフレーミングされた庭を、
さらにファインダでフレーミングするというのは何か不思議なものである。
そういえば、ファインダというのは森敦が言うところの倍率1倍の望遠鏡たりうる。
90mmを構えている時にどうも違う感じがするのは、
換算135mmという焦点距離が、私の現実に接続しないからなのだろう。
かといって換算35mmの23mmもちょっと違う気がする。
換算50mmが仮に倍率1倍のレンズだったとして、それによって切り取る写真は
他のレンズの場合と何かが違うのだろうか。

そんなことを考えながら京都駅からホテルまで歩く。
強烈に腰が痛く、一刻も早く休みたいのを耐えながら。
大浴場で一休憩後、晩ごはんを終えて東寺の夜間ライトアップへ。
ISO1600で撮っても黒がちゃんと締まってくれるあたりはさすが富士フイルムである。
ライトアップされた五重塔は、闇夜に変に浮かび上がり、
もはや何かの模様のようでもある。

そしてオープニングの金堂へつながる。
期間が始まって間もない東寺のライトアップは人も車もまばらで、
臨時駐車場のあたりは星がよく見える。
東の空に上がり始めた冬の大三角を見上げながら、
恐れを噛みしめて帰路についた。

2015-11-02

構造

構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。

事象が多種多様になることで一般化されるに従い、
より内奥の構造が得られる。

例えば、私と全く同じ人間が二人いたとして、その二人の間に見られる
物理的な身体の構造とは即ち私の身体そのものであり、
構造と表現形式は同一である。
しかし、日本人、人間、脊椎動物と対象を拡げていくに従い、
その構造は削がれていき、背骨、脳、頭蓋骨、半規管等といった
より少ない要素に集約される。それに対応して、実際の表現形式は
一見すると全く異なってくるようになる。

建築を含む工学の分野では、構造という言葉は
いくつかの材料を組み合わせてこしらえたもの。
また、そのしくみ。くみたて。
(広辞苑 第六版)
という意味でも用いられる。
この場合の事象の一方はもちろん当該工作物であり、
他方は法律や規基準に示されたもの、これまでに作られたもの、
あるいは自然界に存在するもの等である。
いくつかの材料が組み合わさった状態に既にあるものを参照し、
それと似たような組み合わせとすることで
新しい組み合わさった状態が得られる。
この「似たような」という部分にこそ、構造がある。
何をもって「似ている」とするのかが、
作り手のセンスによるとしたものがブリコルールであり、
そこに理由をつけようとしたものがエンジニアである。

建築構造という言葉の表面的な意味としては、
鉄骨のラーメンフレーム、鉄筋コンクリートの壁床、木の軸組等が
思い起こされ、実際の設計では構造部材と非構造部材という
カテゴリ分けもされる。

しかし、構造という言葉の意味が上述のようなものであるとすれば、
建築においてある空間を成立させようとしたときに、
空間を成立させるための仕組みに対する、これまでの知見との共通事項を
探る行為にこそ、構造設計という言葉の本意があるのではないかと思う。

2015-11-01

覚え

見覚えのある顔。
聞き覚えのある声。
嗅ぎ覚えのある匂い。
触り覚えのある身体。
食べ覚えのある料理。

五感のうち、覚えがあると表現されることが
多いのは上の2つだろう。
残りの3つに比べてそれだけ発達してきたということか。

2015-10-31

nexus5xでドコモメールを受信

nexus5xに機種変更した。
指紋認証は意外とライフチェンジングだなと感じている。

ドコモメールのアプリがnexus5xに対応していないので、
ドコモショップで@docomo.ne.jpドメインのメールを
受信する方法を教えてもらう。
ちょっとつまずいたが下記の方法でできた。
2.と3.はWiFi接続ではなくspモード接続でないといけない。

1. docomo IDの発行
 元々利用していなかったので、まずはIDとパスを
 ゲットする必要がある。
 docomo IDのポータルサイトで新規発行。
2. ドコモメールを利用開始
 お客様サポートの各種設定→ドコモクラウド→ドコモクラウド設定
 でドコモメールが「停止中」の場合は「利用中」に変更。
3. docomo IDでドコモメールを利用開始
 お客様サポートの各種設定→通話・メール→メール設定
 →docomo ID利用設定の確認/変更で、
 「docomo IDでドコモメールを利用」を「利用する」に変更。
 この状態にすると、ブラウザ版のドコモメールも使えるようになる。
4. Gmailアプリの設定
 ここからはドコモショップで教えてもらった手順の通り。
 4-1. Gmailアプリを起動して、設定→アカウントを追加を選択
 4-2. 個人用(IMAPまたはPOP)を選択
 4-3. @docomo.ne.jpドメインのメールアドレスを入力し、
   手動セットアップを選択
 4-4. 個人用(IMAP)を選択
 4-5. docomo IDのパスワードを入力
 4-6. ユーザー名: docomo ID
   パスワード: docomo IDのパスワード
   サーバー: imap.spmode.ne.jp
   ポート: 993
   セキュリティの種類: SSL/TLS
 4-7. SMTPサーバー: smtp.spmode.ne.jp
   ポート: 465
   セキュリティの種類: SSL/TLS
   ログインが必要: チェックを入れる
   パスワード: docomo IDのパスワード
 4-8. 残りの設定はよしなにする。

ドコモショップでもらえる手順の用紙には4.の情報しか載っていない。
1.をやっていても3.をやらないと、4-6.の段階で「ユーザー名またはパスワードが
違う」となってしまうので、かなり戸惑う。
ネットを漁ると3.の情報は結構見つかるのだが、2.をやらずに3.に行くと
「docomo id 利用設定を行うにはドコモメールが利用されている必要があります」
とだけ表示され、にっちもさっちもいかなくなる。
ドコモショップを再度訪問したところ、サポートセンターに電話をしてもらい、
2.が必要なことが判明した。
難易度が高すぎる。

あとは、本当はGoogleアカウントで一括管理したい。
送信の方は受信サーバと送信サーバの情報がわかっているので
Gmailのメールアドレスを追加から設定できたが、できるだけ
リアルタイムで受信できるように@docomo.ne.jpドメインを
自動転送する仕組みを探している。公式ではやっていないようだ。
Thunderbird等のメールクライアントにやらせる方法も見つかるが、うーん。

2015-10-30

stをlinuxで

CUIのstをlinux mintに移植。
フォントのファイルパスを修正したのと
スクリプトのエンコーディングを直したくらいで動いてくれた。
numpyもreportlabもapt-getしたものでそのまま使えるのは便利。

os.listdirがソートされるかどうかがファイルシステムによるというのは
初めて知った。コードを直さなくては。

あと、vimで日本語の文字コードの自動判定がされていなかったのを修正。
@koronさんのencode_japan.vimを.vimrcからsourceすることで、
いい感じに判定してくれる。何と言う手軽さ。
autoloadにkaoriya/switch.vimも入れておく。

@ynkdirさんが実装したguess.vimもあったのだが、
とりあえず上記で動いたのでよしとする。

2015-10-29

?る












































2015-10-26

木枯らし一号

こがらしいちごう

ごこちがうらしい
五個違うらしい

2015-10-23

彼女は一人で歩くのか?

新レーベル「講談社タイガ」から出た森博嗣の新刊
「彼女は一人で歩くのか?」を読み終えた。


時代は二世紀ほど未来、
ウォーカロンと呼ばれる人工生命体が普及し、
人間が簡単には死ななくなった世界の話である。

最近、にわかに人工知能関連の情報が一般に広がりつつあり、
ニュースや本の量はこの一年で急増した感があるが、
そこで目や耳にする情報よりも二段階くらい先の世界を
想定しているように思われる。
人工細胞の生成技術が発展し、人工知能はもはや現在の
コンピュータの延長とは思えないほど生命体に近づいている一方で、
人間そのものに対しても人工細胞による治療が取り入れられ、
こちらはこちらでもはや現代の意味での生命体とは一線を
画している。
双方から歩み寄った結果として提示される哲学的な問題の数は、
おそらく今後衰退の一途をたどる宗教の力を
再び取り戻させるのに十分だろう。

ハギリの研究テーマである、人間とウォーカロンの識別方法。
それはウォーカロンを区別し、人間が人間であり続けたいという
自己防衛手段であると同時に、如何にしてウォーカロンと
人間が同化していけるかを探るための兵器にもなる。
果たして人間は優秀な道具を求めているのか、
自己の再生産を目指しているのか。

ウォーカロンに生殖機能がないことと、人間の生殖機能が
衰退しつつあることの類似性に関する提起も面白い。
死を受け入れることで次の生が得られるという発想は、
「スカイ・クロラ」シリーズに通ずるものがある気がした。

英題は"Does She Walk Alone?"。
ウォーカロンには"walk-alone"という英訳が当てられているので、
これは同時に"Is She a Walk-alone?"でもあると思う。
この"She"も、ウグイでありマナミでありミチルであり、
もちろんミチルの保護者でもありうる。
いや、彼女Sheとあるから女性に限定して列挙したが、
本来はハギリも含めて登場人物全員であると思うし、
もしかしたら読者自身でもあるのかもしれない。
このネットが見せるものは、本当に現実の世界なのだろうか。
正しい情報だろうか。
疑えば、どこまでも疑わしい。
(p.200)

〈熊の生態〉に現れたあの文章。
「黒い魔法」とは暗闇。
「白い魔法」とはウェディングドレス。
「赤い魔法」とはレッドマジック。
「すべてがFになる」とどのくらい関係があるのかはわからないが、
そんなことを妄想してしまった。
そういえば「すべてがFになる」の中で、犀川先生は「赤」が象徴するものを
いくつか挙げたが、その中に「夏」がなかった。
今は夏。彼女はそれを思い出す。
夏にかけられた魔法だったからレッドマジックだったのだろうか。
その魔法は二世紀経っても未だ有効であり、
人類は限りなく延ばされた一瞬の中で、
それに対する答えを探り始めている。

2015-10-22

s&s

しらぬがほとけ
ぬけがらとほし
shell and star
he strands all

2015-10-21

実験

実験とは極めて厳密な経験のことである。
英語だとexperimentとexperienceだし、
日本語では(おそらくそれにならって)
同じ験の字が当てられている。

golangのbufio.NewReader,NewWriter

svgmodを組んでいたときに、
golangのbufio.NewReaderとbufio.NewWriterで
長い行を扱うことがあった。
bufio.NewReaderSizeでバッファサイズを指定しても良いが、
どのくらい長いかわからなかい場合でも
下記の方法で読み書きができる。

// inpから読み込んで、文字列置換してotpに書き出し
このgist-itというやつ、便利だ。

シェルスクリプト習作

abaqusのパラメトリックスタディをするプログラムが
/tmpにファイルを吐くのだが、一解析分で500MBくらいなので
すぐに/tmpの容量が足りなくなる。
ということで、ひねもす解析を回すために/tmpディレクトリに溜まる
特定の名前のファイルを指定数だけ残して自動削除する
プログラムを先日golangで書いて運用していた。

sort.Reverseに関する勘違いのために一晩の解析の約八割が
無駄になるという悲劇をみたものの、それ以降は特に問題なく
動いている。
// sort.Reverse(list)ではなく、sort.Sort(sort.Reverse(list))としないと
// 逆順に並ばない。

それを今日シェルスクリプトで書き換えてみた。
やはりこういうのはシェルスクリプトに一日の長があり、
golangで160行のプログラムとほぼ同等で機能的には十分なものが
40行くらいで書けてしまう。
シェルスクリプトの良い練習であった。

p.s.
gvimにおいてタブバー領域のみマウスをoffにする機能を探している。
Alt+Tabでウインドウを切り替えれば良いのだが、マウスで切り替えたときに
意図せずタブが切り替わってしまい困る。

サンプリング

お昼からの帰り道、構内でチアのマーチングバンド演奏を耳にする。

吹奏楽なのでもちろん歌詞はないのだが、
「ラララ」のあたりでこれはもしやと思い、
「空をこえて」の「ら」のあたりで鉄腕アトムの主題歌だと気付く。
メロディのようなものが聴こえてきた瞬間から、
無意識のうちに記憶のインクリメンタルサーチをしているのだろうか。

一音ごとに曲の候補が狭まっていき、その中でも吹奏楽の
定番曲という条件が付加されることで、かなり早い段階で
概ね正解にたどり着く。
正解がわかるケースでは一致する記憶があるため、
データベースの検索(select * from music where melody like 'fa mi le do%')の
ようなイメージで捉えやすいが、「聴いたことがある」という感覚は
これでは表現が難しいように思う。
ニューロンの発火パターンの強化具合に応じて「聴いたことがある」感じが
増幅されるのかもしれないが、そうすると発火パターンには時系列的な
記憶も刻まれていないといけない。

前後関係の記録はどんな形式で保存されているのだろう。
サンプリング周波数はどの程度だろうか。
知覚自体とそれを意識にのぼらせる処理ではきっと周波数が違うはずだ。

p.s.
鉄腕アトムの主題歌って谷川俊太郎作詞だったのね。

2015-10-20

ページ番号

講談社タイガのページ番号は下の外側に付いている。
上の外側に付いているときは「肩」と呼ぶ気がするけど、
下の場合は何と呼ぶんだろう。

個人的には「かかと」が好きだ。

どちらかというとかかとにページ番号がふってある方が好みだ。
マーカとして上を折ることが多いので。
そういえば、これは英語だとdog earだ。
その場合、対応するのはもちろんtailだろう。

白い

冷水を「白い水」と言ってしまう。
まったく不意に思い浮かんだので
説明が付かない。

タイガ

講談社タイガが発刊された。
買ったのはもちろん森博嗣の「彼女は一人で歩くのか?」である。
組版がきれいだ。何というフォントを使っているのだろう。


最近はjavaからabaqusを呼び出してパラメトリックスタディをする日々。
一系列回すのに4時間くらいかかるので、取り急ぎやりたい分の
半分くらいしか終わっていない。

解析を回している裏で、グラフ生成プログラムを書き始めた。
h2というデータベースを使っているのだが、
残念ながらgolangのdatabase/sql用のドライバが見つからない。

Postgresql形式でもアクセスできそうなのだが上手くいかず、
Kotlinでも使ってSQL文を投げてデータを返すだけのプログラムを
書いてみようかと思ったら、h2.jarを使ってできることが判明。

h2.jar→データ整形(sed&sort)→プロット(awk&gnuplot)→ラベル修正(svgmod)
という手順でグラフを作るためのシェルスクリプトを起こしていた。
シェルスクリプトは色々と文法が複雑であちこち調べて何とかという感じだ。
よくよく考えると、svgmodのところはsedで十分だな。

highway

また新しいgrepがきた。
highway という高速検索ツールを作りました

linux mintだと、

sudo apt-get install autoconf automake libgoogle-perftools-dev
git clone https://github.com/tkengo/highway
cd highway/
./tools/build.sh

でビルドできた。

ファイル名が各行にくるのではなくて、
ファイル毎に検索結果がまとめられているのは
見やすいと思った。
まあ、次にパイプしたりするのには不便だろうけど。

@mattn_jpさんが早くもwindows portingを済ませたようだ。

常識2

あるいは、ほとんどの人間は異常だ。
異常を平均したものが常識という幻想だといっても良い。
森博嗣「ジグβは神ですか」

2015-10-19

swift2.0?

まあ、比べるべきもの同士ではないのはわかるんだけど、
golangが1.0以降、backward compatibilityを堅持しながら
GCのパフォーマンスを劇的に改善したりしているのに対して、
swiftは早くも2.0が出て、もはや別言語になっているみたいな話を聞くと、
なんだかなあと思ってしまう。

個人的には、構文糖衣が多くて助かるのはインタプリタ型の言語だけで、
コンパイラ型の言語にとってはむしろ少ないほうが保守性が上がると感じる。

2015-10-16

git add

linux mintの端末上でgit addのファイル名をtabキーで補完。

既にgit addされているファイル以外の名前のみを候補として
挙げてきた優秀さに戦慄した。

これ、誰がやってるんだろ。

2015-10-15

地べた

ベジタブル
じべたぶる 地べた振る

割れ鍋に綴じ蓋
じべたとなにわぶれ 地べたと浪速振れ

2015-10-14

みつめる

目偏に密で「みつめる」。
密かにみつめあう二人。
親密な間柄。
眼差しは密着する。

冬、悔恨

さむいふゆはよねんまえ
けせぬきおくのかたすみにあるへや
つちもひろわれてほしとなり
そらめをこう

寒い冬は四年前。
消せぬ記憶の片隅にある部屋。
土も拾われて星となり、
空目を乞う。

春、別れ

さくらのはなまいおちるひに
きみともわかれ
すこしやせたてへ
あめつゆふりぬ
ねむけ
ほんをそろえよう

桜の花舞い落ちる日に
君とも別れ。
少し痩せた手へ
雨露降りぬ。
眠気。
本を揃えよう。

秋、散歩

いつのまにもうあきね
ひかりさすみちゆくわれら
せんろそめるはをふむおとたて 
なけぬこえやほしよへ

いつの間にもう秋ね。
光さす道行く我ら、
線路染める葉を踏む音立て
泣けぬ声や、星夜へ。

2015-10-13

夏、コミケ

なつのおわり
ことしもまた
ゆうひをせに
いくさかちぬけて
むすめらよ
きみはほんそろえ
へやあふれるね

夏の終わり。
今年もまた
夕陽を背に
戦勝ち抜けて。
娘らよ。
君は本揃え、
部屋溢れるね。

2015-10-12

写真撮影

「はい、チーズ」という言葉。
英語だとcheeseのiの長母音でのばすので、
自然と笑顔になるが、日本語だとウの母音なので、
あまり意味がないという話があり、
代わりに「1+1は?」なども使われる。
「はい、ケーキ」はどうかとか、情報関係の集まりでは「2の5乗は?」も即答できるか、
というくだらないことを考えながら目黒まで散歩中。

音楽と言葉

昨日、半年かけて準備をした演奏会を終えた。
9年前に歌った曲を指揮したが、
当時以上に曲についていろいろと考察をした。
千原英喜作曲のおらしょである。

そもそものきっかけとして、2014年2月の長崎旅行があった。
この旅行で外海付近を歩いていなかったら、あるいは
遠藤周作の沈黙を読んでいなかったら、
曲の解釈を進んでしていたかどうか定かではない。

その後、「オラショ紀行」という本にも出会い、
遠藤周作や間宮芳生らとの対談を通した皆川達夫の
解説にも触れることで、様々な知見を得た。


■言語表記
歌詞にはラテン語の部分と日本語の部分があり、
日本語の中でも、「ひとつ唄いましょ」のような、
民謡の歌詞の箇所と、「きりやれんず」のような、
ラテン語が変容した歌詞の箇所とがある。
日本語はカクレキリシタンたちの発した言葉、
ラテン語は天からの声(作曲者は「遠い過去から
呼び掛けてくる声」と表現している)になっている。
ラテン語が変容した日本語については、「オラショ紀行」
によればカクレキリシタン本人が唐言葉だと認識していた
ほどで、元の意味は消失し、もはや意味不明の呪文として
唱えられているのではないかと思う。

■拍節
「オラショ紀行」に、「言葉がわからないから拍節が
あいまいになる」という内容のことが書かれている。
この曲では2/4、3/4、4/4、5/4などの様々な拍子が現れる。
民謡の独特の節回しや、ラテン語から変容した日本語の
意味のあいまいさから、そういった拍子の混淆が発生している
のかもしれない。


■第一楽章
出だしでは、Alleluiaという天からの声が
4/4拍子で規則正しく歌われたあと、3/4拍子に変わって
民謡を唄うテナーの声が入ってくる。
第一楽章ではこのパターンは守られており、民謡部分では
2/4と3/4が入れ代わり立ち代わり現れるのに対し、
グレゴリオ聖歌のメロディの部分は必ず4/4拍子となっている。

■第二楽章
「きりやれんず きりすてれんず」という呪文から始まる。
ここは4/4拍子ではなく、2/4と3/4の混ぜあわせになっており、
この言葉がラテン語の"Kyrie eleison, Christe eleison."とは
全く別物であることを表している。
続く「ぐるりよざどみぬ」も元は"Gloriosa Domina"だが、
お祭りの囃子のようなリズムで作曲されており、
意味よりも言葉のリズムの良さを優先した表現になっている。
日本語の次に、元のラテン語の歌詞が出てくるが、この部分は
第一楽章のAlleluiaと違って拍子が安定しない。
「オラショ紀行」によれば、民謡的なものの拍節が安定しないのは
東洋西洋同じのようなので、グレゴリオ聖歌としては
割と普通のことのようである。
調が変わってまた出だしに戻った後、「みぜれめん」に入る。
この部分はほとんど音が一定で、音量はppで歌われる。
これは、カクレキリシタンが唱えている様子を的確に再現しているのでは
ないかと思うので、この部分は抑揚を全く付けず、発音すら
あいまいにした方が、雰囲気としてはあっているのではないかと思う。
「ばんじにかないたもう」からは日本語でキリスト教の教えを
伝える部分になっている。全体として女声と男声が交互に歌う構成だが、
「でうす」や「くろす」などの言葉は全パートで歌っているというところに、
カクレキリシタンにとってこれらの名詞が大事な言葉で、
これくらいは意味がわかっていたのではないかということを思わせる。
「たてまつる」の「る」の音で全パートが揃った後、
次の和音では天からさす一筋の光のような輝きが表現され、
さらに次の和音ではベースが入ることで安定感のある重厚な響きになる。
そこから立ち上がる「あんめいいえぞす」は、カクレキリシタンの
魂の限りの叫びとなっており、forteで各パートが下から順に
重なっていく。ここで楽譜の表記方法が切り替わるのが場面の転換を
表しており、「ばんじにかないたもう」を歌ったバスチャン屋敷のような
薄暗い場所から、天主堂のような響きの良い場所へと移動する。
「いいえぞす」の「す」の音が天主堂に満ち溢れた後、
その残響として響き渡る「まりや」の旋律はpianoで歌われ、
いつの間にか天からの声としての"Amen"に切り替わる。
ここで再び楽譜の表記が元に戻り、天からの声が"Kyrie eleison,
Christe eleison."と唱えて曲が終わる。出だしの「きりやれんず 
きりすてれんず」と呼応するように。

■第三楽章
この曲は遠藤周作による小説「沈黙」の世界である。
出だしのオロロンという言葉は、この地方のお子守歌に共通する
あやし言葉であると同時に、波を表現する。
それは「沈黙」の中で、
ただ私にはモキチやイチゾウが主の栄光のために呻き、
苦しみ、死んだ今日も、海が暗く、単調な音をたてて
浜辺を噛んでいることが耐えられぬのです。
この海の不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙を
―神が人々の歎きの声に腕をこまぬいたまま、
黙っていられるような気がして……。
と表現された海の波である。
浜辺にて「汐は半から満ちね」と歌い出すのはカクレキリシタン
だろうか。時代が下った視点になっていると思うので、
江戸時代に迫害された先祖を思う、カクレキリシタンの子孫なのだろう。
「瀬戸の潮騒ゃね」の後、「波打つ際によ」という部分では、
歌い手がふと我にかえって自問するかのようにpで歌われる。
モキチが磔にされた波打ち際を思い出してしまったのだろうか。
「アー 参ロヤナ」からのカタカナ表記になっている箇所は
先祖が歌った箇所になっていて、これは「沈黙」に出てくる
モキチをイメージしているのではないかと思う。
波打ち際に磔にされ、ゆっくりと死に近づく中で、
それでも俺はまだ生きているということを仲間に伝えるために
息たえだえに歌った「ダンジク様のお歌」。
この部分は必死さが出るように歌えると雰囲気が出ると思う。
その後、獅子の泣き歌に戻ったあとでは、モキチが浴びることの
できなかった朝日を大事にするかのように、「朝日」という単語
だけがritenされmfで歌われる。
最後は再び第一楽章から続く4/4拍子の聖歌に戻ってくる。
天からの声が消えゆくように終わっていく様は、
救いを表しているのだろうか。



以上、思ったことを長々と綴ってみた。
10年後に見返したとき、自分はどう思うだろうか。


演奏会後、合唱団の後輩と話した際に、音楽と言葉は
どちらが先なのかということを考えた。
どこから先を音楽や言葉と呼ぶのかにもよるが、
叫びのようなものを言葉と定義しなければ、
音楽の方が先行しているのが自然ではないかと思う。

叫びというのは他の動物にも共通する情報伝達手段であり、
コミュニケーションの原初になっていると思う。
そのバリエーションとして、音程や強弱をつけたりする中から、
音楽のようなものが生まれるというのはありうる。
あるいは道具を使うことで楽器のようなものも
生まれただろう。

意味を保存する手段としての言葉が発生するには
意識の誕生を待つ必要がある。
あるいはむしろ、言葉というプロトコルの誕生により
意識が存在できているのかもしれない。
このあたりはかなり微妙な問題で、よく理解しきれていないが、
死ぬまで考え続けられるよいテーマである。

2015-10-10

wedgwood

ショック。
3年前に引出物でもらったウェッジウッドの
お皿を割ってしまった。
まさに「アタシのウェッジウッドがーー」状態である。
ハンティングシーンの18cmのプレートでも買い足そうか。

すべてがFになる

アニメが始まった。

予想していたよりもできがよい。
これは毎週見れそうだ。

しかし時代設定崩してしまって大丈夫か。
登場人物の生年月日や事件の発生年月まで含めて
まるまるずらせばよいのだろうけど。

それにしても、もう小説の発刊から20年近く経つというのに、
去年はドラマ、今年はアニメと、メディア展開が急に拡がっている。
フジテレビに森博嗣ファンでもいるのか。


おー、そしてやっとジグβの文庫版が出るらしい。

p.s. 後日
ジグβを読み始めて、そこはかとない既読感をもっていたら、
やはりノベルス版を持っていた。
ちょっとショックだったけど、せっかくなので文庫版で
ひと通り読み返した。

2015-10-09

VAC

なぜ、IDEじゃなくてVimを使うか。
とってもいい記事。
いい記事なんだけど、VACが365日続いたのが
すでに2年前だという事実に驚愕した。

有るか無いか

動く歩道

ほどくうごう ほどく烏合

歩く歩道ではない。
歩道は歩かないか。
歩道は有るか無いか。

2015-10-08

飛んで火に入る夏の虫

とでんにひるなむつのいし 都電ニヒルな陸奥の医師
ひでるしつないのむにとん 日照る室内飲む二トン
ひでんのしるにないとつむ 秘伝の汁煮ないと詰む


Born to be burnt , summer moth.

2015-10-06

goroutineの同時実行数

これ、やりたかったことだ。
Goroutine の同時実行数を制限する

バックアップ用の自作プログラムで
goroutineの数が多すぎて落ちていたのが
解消されるかもしれん。

p.s.
何故か昨日、ウクライナからのアクセス数が
とても多かった。謎

2015-10-05

linuxでvimのime制御

windowsのvimではノーマルモードに戻ったときに
IMを自動でOFFにする設定にしていたので、
Linuxでもそうしたい。
というかノーマルモードで日本語を使うケースは皆無だ。
(少なくとも自分のケースでは)

方法を探していたらFcitxの場合について
koronさんが記事を書いている。
FcitxでVimからIM制御する
便利。

古希

古希ん若衆

需要がない(確信)

2015-10-03

study04

たしにめをつけけつをめにした
他紙に目をつけ、けつを目にした。

たしにめをつけんかといわれわいとかんけつをめにした
他紙に目をつけんかと言われ、ワイと完結を目にした。

るすにだむをみるあるみをむだにする
留守にダムを見る。アルミを無駄にする。

アルミ缶

イルカショーにいるカーショウ
シルクロードを知る蔵人

2015-10-02

トナカイ

トナカイと仲良いんですね。


サンタクロースとかけまして、
おしどり夫婦とときます。
その心は、
どちらも
パートナーと仲良い/パートナートナカイ
でしょう。

vim

linux mintでvimをコンパイル。
長らくwindowsでコンパイル済みの+kaoriya版を
使っていたので、初めてだ。

これこれを参考にして少し調整して何とか完了。

後者に書かれているperlオプション指定時のエラーについてだが、
ここで指摘されているように、libperl.so.5.18のように
なっていたためのようで、
ln -s /usr/lib/libperl.so.5.18 /usr/lib/libperl.so
とすると解決した。

すでにvim自体がgithubに移行しており、今日時点での最新が
7.4.889なのに対し、google codeから拾ってこれたのは
7.4.827だった。

github移行後のものにパッチを当てる方法については
koronさんが直々に用意してくれている様子。
koron/vim-kaoriya

2015-10-01

流山おおたかの森

やなおまもりがおかれたの やなお守りが置かれたの
おれもおやのかたまりがな 俺も親の塊がな
なりたがれおおやまのかも なりたがれ大山の鴨

2015-09-30

nexus

Nexus5Xと6Pが発表になった。
5Xの方はdocomoが取り扱うみたいだけど、
あまり話題になっていない。
https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2015/09/30_00.html
iphoneと比べると出足は悪いだろうけど、
androidをしっかりバージョンアップしてくれる
端末は貴重なので頑張って続けて欲しい。

study03

足しました。
足しにした。
他紙でした。
他紙まで出ました。
他紙で記載、先でした。

高輪

高輪屋のやわな方

2015-09-29

Como estas?

無為鼻炎(鼻炎がひどい)。

お好み焼き

宮古の沖
隠岐の都
親子の幹
貴美子の親
おや君の子
親の着込み
お宮の子機 vs 巫女の親機 むしろ逆でしょう

タイル目地

たるいじめ 樽いじめ
いためじる 炒め汁
るいじため 類似貯め
めたるじい メタル爺
じめいたる 自明たる

2015-09-27

中秋

昨日の帰り道、霞んだ雲の向こうに見える月が丸いと思っていたら、
今日は十五夜でしたか。

2015-09-26

夜暗緞

あまりの暗さに存在が気づかれないわりには
包容力のある人物を指す。
対義語: 昼行灯
--
暗緞という言葉は実際には存在しない。
暗幕と緞帳の合成語。
宵、晩、夜の区別を調べていた際に、元はヨだったものが
ヒルとの対比で助辞ルが付いてヨルになった説を知る。
行灯との対比で帳トバリとすることも考えたが、
一般的に夜の帳という言い方もあるので、却下。
夜帳って響がリュードベリみたいだ。

flies like

Time flies like an arrow; fruit flies like a banana.
というのを初めて知った。
語感はan appleの方が揃うのに、あえてa bananaとしているのは
何故なのか。
外した感じも面白いけど。

wikipediaのGarden path sentenceのページに書かれている
この文の解説もユーモラスだ。
バナナの空力性能の低さに関して要出典が付いている。

2015-09-25

パティシエ

パティシエと谷繁って似てるな、というくだらない着想。

2015-09-17

小学生

安保法案関連のニュースがいくつか。
http://www.sankei.com/politics/news/150916/plt1509160079-n1.html
http://www.asahi.com/articles/ASH9K3FS6H9KUTFK003.html

野党の反発の仕方の論理が破綻しているのに、
本人たちは気付いているのだろうか。
野党ってことごとく男女共同参画社会に反対なんだったけか。

あと、審議拒否→時間ないので質疑時間無くします→猛反対の流れ、
意味がわからないでしょう。
ひたすら審議をした上で、それでも時間がないならわかるけど、
国の一大事なんだから両者もっと真面目に議論してくれ。

小学生の喧嘩かよ。

2015-09-09

mail

emailを手紙とみるか、電話とみるかで
書き出しが変わる。

多くの社会人は手紙としてみるように
しつけられるので、

○○様

お世話に云々
よろしく云々
☓☓

となる。

ところが、電話だと思うと、

☓☓です。
お世話に云々
よろしく云々

となる。
この後に署名を入れるかは悩みどころ。

まあどっちでもいいけど、電話の代替としての
emailが普及しないと、いつまで経っても
無駄な電話が減らない。

2015-09-08

you know...

「言葉ってすげーな。
 道路はroadだし、有能はyou knowなんだろ。」
「…何か違くね?」
(スッ)
「…湯呑みね。。。」

golangでpdfの現状

jung-kurt/gofpdf
signintech/gopdf
の2つがよさげなんだけど、今のところは一長一短な感。

前者は描画系が充実していて、draw2dのpdfバックエンドとしても
使われている(以前にも触れた)。

後者は先月頭にUnicode対応が反映されたため、日本語のttfフォントを
埋め込めるようになっており、fontmakerによるフォント生成を要しない。
手元で試してみたが、バッチリである。

両方のよいところが合わさらないだろうか。。。

2015-09-06

enjoy

en+joyでenjoy。
いい単語だ。
何事も、「joyにする」ことで楽しめる。

2015-08-31

ニューヨークまで

ヨルタモリ (ゲスト・沢尻エリカ)より

--
変に英作文するとわかんなくなる。

誰かが昔切符買うときに、
日本語で「ニューヨークまで」って言うからって
「あ、『まで』って言わなきゃいけないんだ」つって
    「トゥー ニューヨーク」
っつったら2枚きた。
「トゥー」じゃないんだって
    「フォー ニューヨーク」
っつったら4枚きた。
ついにドギマギして日本語が出て
    「えーっと」
っつったら8枚きたって。
--

すばらしいとんとん落ち。

2015-08-24

処暑

昨日は処暑だったようだ。
久々にクーラーをつけずに網戸にして寝たと
思っていたら、網戸も開けっ放しだったのに、
蚊もあまり入っていない。

麻布十番まつりに行った土曜日の夜は、
ゆく夏を感じるような蒸し暑さだったのに、
ふと気がつくと、蝉の声が止んでいる。
よく晴れた日の、雲の輪郭がぼやけ始めたら
もう秋である。

いつの間に、もう秋!
昨日は夏だった…
―立原道造「優しき歌Ⅱ」より

2015-08-18

構造体に埋め込みがある場合のフィールド名

golangで構造体を初期化する際に、
フィールド名を付けた方式で書きたいのだが、
埋め込んだフィールドの取り扱いが
ざっと調べても見つからなかった。

tl; dr
    型名を使う。

type Animal struct {
    Name string
}
type Dog struct {
    *Animal
    Age int
}

という構成で、

d := &Dog{
    new(Animal),
    Age: 10,
}

と書くと「mixture of field:value and value initializers」
というコンパイルエラーになる。
埋め込みフィールドのフィールド名がわからないのだが、
単に型名を書くので良いらしい。

d := &Dog{
    Animal: new(Animal),
    Age: 10,
}

2015-08-14

lens

XF90mmを買った。

里帰りついでに使ってみたが、
換算137mmという焦点距離は初めてというのと、
これまで換算30mm前後の単焦点しか使ってこなかったため、
切り取られる範囲の目測が全然うまくいかない。
一歩どころか五歩くらい下がらないと
思った絵にならない。

当たり前だが、焦点距離が長い分、同じような構図で撮るためには
対称から離れる必要がある。
被写体同士の距離が圧縮されて写るため、撮影者までの距離も
近いように錯覚されるが、実際には正反対であるというところが
非常に面白いと思った。










里帰り

参道に
蝉しぐれ降る
里帰り

道端に
誘う香りは
焦げ醤油

嗚呼と泣く
声はカァだと
聞き取られ

今年は5年ぶりに盆に帰省し、
10年ぶりに祖父母の実家を訪ねた。

祖父母の年代の親戚づきあいの広さには驚く。
果たして自分が同じくらい年をとったとき、
こんなにも親戚同士の挨拶が残っているだろうか。

サマーウォーズが見たくなった。

2015-08-12

golangでdxf

golangでdxfを扱うためのコードをプログラム中。
github

dxfはENTITIES SECTIONの読み書きだけなら簡単だが、
他のSECTIONの構造について知らなかったので、
リファレンスを読みながら勉強中。
とりあえずacad2000のバージョンとしての
書き出しができるところまできた。

まだまだ対応している項目が少ないが、随時追加しよう。

佐々淳行

佐々淳行氏の「私を通りすぎた政治家たち」を読み終えた。

自衛官だった父方の祖父のことを思い出す。
祖父には芯の通った厳しさがあり、幼い頃から
よく注意されていた。
そんな祖父に感じていた厳しさに通ずるものが、
佐々さんの文面から感じ取れる。
祖父の正確な年齢は覚えていないが、
ざっと計算すると佐々さんとは同い年くらいかもしれない。
一自衛官だった祖父には、おそらく直接佐々さんと
交流する機会はなかったと想像するが、
同じ時代に国を想って生きてきた二人の老人の教えは、
少なからぬ影響を、私の考えに与えてくれている。

2015-08-08

勝浦

夕暮れの
森、ひぐらしが
鳴いている

わかしお

単線を
行く特急の
この旅情

2015-08-06

この国の空

映画「この国の空」の予告編を見た。

色が凄い。
フィルムで撮ったのか、デジタルフィルタだろうか。
懐かしさに溢れる色使いだった。
見に行こう。

大宮音頭

子どもの頃以来、久しく聞いていなかった
大宮音頭の音源がさいたま市のウェブサイトに置いてあった。
ネット上を探しても歌詞が出てこないので
起こしてみたが、ところどころ怪しい。
漢字もこちらで当てたものなので、
違っている可能性あり。

これを聞くと夏の盛りが来た気がする。



--

大宮音頭

1.
宮の大宮 氷川の社
空にはえます 大鳥居
武蔵のかなめで 栄えるまちは
つばさひろげて 飛ぶすがた
みんな輪になれ 大宮音頭
踊りゃ こころの花が咲く

2.
春の大宮 公園あたり
桜並木は 花ざかり
水面(みずも)にうつした ふたりの肩に
かかる花びら ちらちらと
みんな輪になれ 大宮音頭
踊りゃ こころの花が咲く

3.
夏の大宮 夜空に咲いた
花火 七夕 夏まつり
こころがふれあう 御輿と山車で
今日もふるさと 街づくり
みんな輪になれ 大宮音頭
踊りゃ こころの花が咲く

4.
秋の大宮 訪ねておいで
みどり豊かな 四季の道
かすりの着物で ほほそめもみじ
手にはひと鉢 植木市
みんな輪になれ 大宮音頭
踊りゃ こころの花が咲く

5.
冬の大宮 武蔵野木立
中で文化の 芽をのばす
豊かなみのりの めぐみを受けて
師走 感謝の 十日市
みんな輪になれ 大宮音頭
踊りゃ こころの花が咲く

6.
夢の大宮 笑顔をかわし
ひとがあつまる 明日の街
歴史の古株に 未来の若木
ついで育てる 心意気
みんな輪になれ 大宮音頭
踊りゃ こころの花が咲く


2016.06.20修正
4番の着物は「霞の着物」ではなく、「絣の着物」のように聞こえる。
というかその方が歌詞として自然だ。
予備知識があって始めて聞こえてくる歌詞もあるものだ。

2017.06.13修正
5番に出てくる「雲霞」はイネの害虫のウンカのことかもしれない。
「浮塵子」という当て字もあるようだが、とりあえずそのままに
しておこう。
だとすると、それに続くのは「目を飛ばす」よりは「芽を伸ばす」
の方があり得る気がする。

2019.06.27修正
5番
中で雲霞の→中で文化の
豊な祈りの→豊なみのりの
6番
歴史のとかぶに→歴史の古株に
未来のわかに→未来の若木
--
その他、漢字表記の修正多数
6番の歌詞はずっと疑問だったが、正しい歌詞を知ると腑に落ちる。
毎回この時期に修正があるのは、夏を前にこのページのアクセスが
増えるたびに何回も聴き返していたからだが、正しい歌詞を知った
ので、もうこれ以上修正することはないだろう。

2015-07-30

反対

似たもののサジェスト機能は
今やどんな場所でも見かける。
Google、Amazon、Youtube、等々。
「これを{検索した、買った、見た}人は
 こちらも{検索して、買って、見て}います。」

反対に、同じテーマに対して異なるアプローチを
しているものへのアクセスはあまりサジェストされない。
「これを{検索した、買った、見た}人は
 こちらも{検索して、買って、見て}みましょう。」

こういった絞り込みというのは、前者に比べて
難易度が高いのであろう。
例えば、サッカー日本代表の采配を賞賛する記事に対して、
批判する記事を絞り込むには、テーマは同じだが、
論調や結論が異なるものを探してこないといけない。
隔たりは大きい程よい。
関連性の薄さだけで絞り込むと、「おいしいラーメンの茹で方」
みたいな記事でもよくなってしまうからダメだ。

ある事柄に対して、いろいろな意見に触れておくのは、
自分なりの考えをもつための最良の手段だと思っている。
こういうサービスがもっと普及することを願う。

p.s.
ちなみに、「サッカーとラーメン」というのは
どっちが好きかを聞かれても違いすぎて優劣が比べられない例として、
ある人が挙げたもので、これを間髪入れずに思いつくのは
すごいなと素直に感心して以来、たまに使っている。

FTA

FTAっていうのは要するに、
国民国家が表向きは武力によって
国土を拡げ続けるのが難しくなったから、
仮想的に国土を拡げ、国民の数を増やすことで、
日々増加する国家破綻のリスクを低減するための
ある種の延命装置に過ぎないのでは。
各個人は、経済の世界で仮想的に複数の国家の
国民として生きることになるようなイメージで、
これによって、武力行使を伴うことなく、
ある国家は繁栄し、また別の国家は衰退する。

だけど、完全な自由貿易が成立したとき、
国民国家の存在意義はより少なくなるのではないか
という気もする。
だから、管理貿易協定のような性質を帯びるのは
致し方ないというか、そういうものなのだと思う。

第二次大戦で核兵器が使用され、冷戦期を通して
もはや武力による拡大が人類の終わりにつながっている
雰囲気が漂ったことで、戦争は物理的なものから
経済の世界に移ってきた。

この次が情報戦争だとすると、
その動きは既に始まっていると見るべきだろう。
政財がつながったのと同じくらい、情報界とつながれなければ、
国民はむしろGoogleやAppleの仮想的な帝国民であることを優先する。
GoogleがCNILの命令を拒否している理由にも、
そのあたりが端的に現れているのだろう。

アラブの春もそうだったが、新国立競技場の問題が
ここまで拡大したことに対するSNSの影響も、かなりのものであると感じられる。
この資料によれば、日本のtwitterユーザ数は、2012年には1350万人だったのが
2015年には2230万人になっており、倍弱まで増えている。
2011年の震災の折にも、twitterの果たした役割は指摘されたが、
5年前の時点では新国立の計画を左右する程の影響力はなかったように思う。
一つの政治形態の始まりになりうるであろうか。

増上寺

初夏や
蝉なく寺を
ゆく坊主

炎天下
苔むす地蔵の
手には花



--
並んだナランダ、赤白黄色

2015-07-26

白岡

白岡高校が浦学を破って決勝進出らしい。
その記事に「白岡市」という単語が出ていて、
はは、何を言ってるんだ、白岡は町に決まってんだろ、
と思ってたら、3年前に合併ではなく単独で
市に進化していた。
驚きである。

川辺

欄干に
もたれしばしの
沢涼み



--
猛暑日という言葉も、できて久しい。
連日の35度を超えるうだるような暑さの都会では、
高速道路の下を流れる川でさえ、
ひと時の涼を与えてくれる貴重な要素である。

2015-07-24

セッション

にわか雨
重ねて聞こゆは
蝉しぐれ



--
亜熱帯気候のように降るようになったにわか雨。
つられて鳴き始めるのは決まってツクツクボウシだと
感じているのはただの思い込みなのだろう。
雨がドラムスなら蝉はギターだ。
今日もまた気まぐれな真夏のジャズセッションが
始まろうとしている。
しばし店の軒先で耳を傾けようか。

2015-07-23

淡い

春よ来い
願う乙女と
麦帽子


--
遊び、部活、勉強に出かける学生が駅のホームにちらほらと。
世には夏来たるらし、乙女の春は遠かるらし。

花火

満開は
まだかまだかの
夏夜空



--
ヒューという音を立てて、
また次の打ち上げ花火が昇る。
火の玉が消え、ほんの一瞬訪れる静寂と闇。
一秒あるかないか。
花開くまでの時間は、緊張と期待に溢れ、
必要以上に長く感じられるものだ。

縁側

目を遣れば
うちわ風鈴
蚊取りブタ


--
梅雨が明け、雲が高く積まれるようになったある日の午後、
ふと縁側を見ると祖母が休んでいる。
右手にはうちわ、鴨居にはふうりん、
傍らにはブタのかたちをした蚊取り線香入れ。

いつか見たことがある気がしているが、
どのくらいの人が実際に見たことがあるだろう。
今年も夏がやってきた。

Go

Goに入ってはGoに従え
When in golang, Do as the gophers do.

夕涼み
ひねもす鳴く音は
あと幾夜



--
最近では昼夜を問わず蝉が鳴いている。
黄昏時にボーっとその声を聞いているとき、
ふと七日目はいつかと思い至る。

私の七日目はいつくるのだろう。

2015-07-21

3D雨雲ウォッチ

NICTとMTIがフェーズドアレイレーダのデータを基にした
アプリを開発したらしい。
NICTが噛んでるあたり、ヴィジュアル的には期待大だが、
関西地域限定らしい。しかもAndroid4.4以上なので手元で
試せない。

さらなる発展に期待。

2015-07-19

環境

ネスカフェ原宿でやっている西表島のイベントが良さそうだ。

どんな感じを受けるのか、とても興味がある。

自分でもこんなのが作れると面白いが、
音響に関しては、BOSEのSoundLinkMiniIIで十分満足できる。
枕元に置いて波の音を流すと、かなりそれっぽい。
問題はプロジェクタで、なかなか良いものが見つからない。
ASUSのP2BみたいなものでWiFi接続できれるのがあればなあ。

2015-07-16

GitLab

GitLabのロゴが変わっている。
あの可愛らしさがかけらもない狐がいなくなった。
しかもロゴがsvgで作られていて、トップページだと
パーツごとに光る。クールだ。


golangでpdfに日本語を書き出す

しばらく見ないうちに、draw2dの開発が盛んになっていて、
Stani Michiels氏によってgofpdfを利用したpdfバックグラウンドが
実装されていた。

gofpdfの方で日本語関係の更新がないから期待はしていなかったけど、
やはり日本語が表示できるところまで行き着かない。
なので、draw2dのImageGraphicContextをほぼ丸々写して、
ストロークとして文字を書き出す方式で実装しなおした。
yofu/draw2d

これで一応golangからpdfに日本語の文字を書き出せるようになったが、
テキストとしてではなく図として書き出しているので、
当然文字列の選択等はできない。
良い方法が見つかるまでの代替案として。

2015-07-15

A/D

アナログとデジタルの違いって
解像度の違いのことでしょ?

梅雨明け

雲が夏の形をしているのに、
気象庁がまだ明けていないと言い張ることに
違和感を覚える初夏の午後。

2015-07-10

自動翻訳

英語の翻訳をしてみるとわかるが、
翻訳という作業は階段を何段か登って別のルートから
降りてくるような作業であるから、現在実装されているような
単語を一対一対応させたり、コンテクストに応じて
対応させる単語を変えたりする程度では大分限界がある。
インド・ヨーロッパ語族同士のように、文法構造が似通った言語
の間であればまだしも、日本語と英語のような場合は絶望的だ。


RBMを何層も重ねたようなかたちにして、
 表現の層⇔文法構造の層⇔意味の層
のような階段をある程度上まで登ってから、別のルートで降りる。
富士登山で、山梨側から登って静岡側に降りるような。
言語構造が近い場合は、あまり上まで登らなくても
すぐに同じ層に辿り着けるからすぐに降りてこれる。
果たして日本語と英語は意味の層まで登りつめれば
同じ所に辿り着けるだろうか。
だんだんサピアウォーフの仮説みたいな話になってきたな。

2015-07-03

someとany

「このライブラリ『誰か』使ってる?」

この記事で@lestrratがおっしゃっているように、
日本人は中学校くらいのときに
肯定文はsome、否定文と疑問文はanyと習う。

だけど、否定文や疑問文で使われるsomeもあるし、
肯定文で使われるanyもあるので、私の理解は
someが存在記号(∃)、anyが全称記号(∀)、である。

Somebody doesn't like this library.
Anything will do.
等が上記の例だが、
∃x, x doesn't like this library.
∀x, x will do.
と読めば良い。
Something will do.
という言い回しがあるのかは知らないが、これも
∃x, x will do.
と理解すれば良い。

例えば晩御飯のお使いを頼まれたときに、
Anything will do.
であれば「何でもいいよ」であるが、
Something will do.
だと、「(具体的には思いつかないけど)食べたいものはあるよ」
となる。そんなお使いはしたくないが。


そもそも両者は全く異なる概念だと思うんだけど、
ごっちゃになるという話を何故かよく聞く。

2015-07-02

news

Google Photo's mistake
こういう話が出始めたのを聞くと、
人工知能は着実に人間に近づいているなと感じる。
まさに、分別のない子供の失言に対して
親が陳謝する構図である。

■新幹線焼身自殺
■所沢市の育休退園
高齢者が年金が少ないと絶望して周囲を巻き込んで自殺し、
夫婦は子供も満足に産んで育てられない。
日本という船はもう沈みきったんではないか。
その割には、みんなおんぶにだっこで国に寄りかかろうとしている。
船が沈んでいるんであれば、自力で泳がないと助からない。

2015-07-01

mass

ギリシャ危機の裏でプエルトリコがひっそりとデフォルト宣言をし、
うるう秒がうんたらという話で少しだけ盛りあがっている最中、
マスコミへの圧力がどうのという話が出ている。

マスコミュニケーションという形態自体が既に大衆を扇動するための
構造をはらんでいるのに、なぜいまさら取り沙汰されるのか。
20世紀に生きた人は、比較的テレビや新聞を「正しい」ものとして
捉えていることが多い気がする。
おそらく、そんな人達同士で、圧力をかけるな、とか何とか
やりあっているんだろうなと、漠然と想像している(違うかもしれない)。

現在程インターネットへの接続が一般的ではなかった時代には、
親、教師、マスコミがおそらく三大情報源であった。
友人や近所のおじさんおばさんに比べて、ここから発せられる情報には
かなりの信憑性があったように感じられる。
そして、今から振り返ると、それはうわさ話と同等か、それよりは
多少信頼できるものとして受け取っておくのがよいなという感じだ。

子供にはインターネットへのアクセスを制限すべきというのは一理あるが、
その遮蔽フィルタにも当然ある種の意見が含まれているのは
忘れないようにしなければならない。

2015-06-30

vimでインクリメント/デクリメント

vim7.4.754で、ヴィジュアルモード中の
インクリメント/デクリメントが可能になった。

    a-1
    a-2
    a-3
で、1,2,3の部分だけ矩形選択してインクリメントすると
    a-2
    a-3
    a-4
になる。便利。

デクリメントしたときの挙動が怪しくて、
    a-0
    a-1
    a-2
の次は
    a-1
    a-2
    a-3
に戻る。

-1,-2,-3を矩形選択したときのインクリメントはもっと怪しくて、
    a-0
    a-3
    a-4
になる。謎。
vim_devの議論でも、0を選択したときに符号の付け外しが
おきないという話が出ていて、パッチもついているんだけど
反映されていないのか。
それだとしても、後ろ2行は明らかにおかしい。

あと、個人的には、
    0.100
    0.200
    0.300
で1,2,3を矩形選択したときに、
    0.200
    0.300
    0.400
になって欲しい。現状は
    0.101
    0.201
    0.301
になってしまう(これはおそらく仕様)。

p.s.
7.4.1721で試してみたら上記すべて直ってました。

2015-06-28

-face

mac book airの液晶が壊れて久しい。
最近はnexus 9でネットをすることも多いが、
やはりマルチタスクでないのが不便なときもある。

surface 3を導入することも検討しているが、
一先ずwindows10が出るのを待つかというところ。

現状、入力インターフェイスとしては、
・キーボード
・マウス
・タッチパネル
・音声
等が挙げられるが、先日のコミュニケーションの話からの
連想でいくと、視覚による入力インターフェイスは
この3つには含まれていない。
(あるいは、マウスやタッチパネルは視覚的とも
呼べるかもしれないが。)
瞳の動きをカメラで読み取って視線を追跡する技術は
あるようだが、あれを入力に用いるのは果たして使いやすいのだろうか。
脳から電気信号で直接入力するような案もそうだが、
意図しない入力を如何にフィルタリングするかが
かなり難しいと思う。

音声入力というのも、どの程度高速化できるのかはかなり疑問だ。
音声認識、自然言語処理がどれだけ高速化したとしても、
音声入力が伝言ゲームであることに変わりはない。
検索等は本質的に伝言ゲームであるから、音声入力とよくマッチするが、
ワープロのようなものが音声入力で済ませられる気がしない。


人間へのインプットのスピードを考えると、
情報量が少ないうちは音声>文字であり、
情報量が多くなるにつれて文字>>音声へと発散していく。
多分それは、コンテクストから得られる情報量の差のためであろう。

入力時にいかにコンピュータに対して与えるコンテクストの情報量を
増やせるか。
そこを突き詰めない限り、キーボードを手放せる日は来ないだろう。

2015-06-25

コミュニケーションの分類

コミュニケーションには様々な分類がある。

・知覚による分類:視覚、聴覚、触覚
・時間的隔たりによる分類
・空間的隔たりによる分類

電話が聴覚によるコミュニケーションのうち、
空間的には離れられるが時間的にはあまり離れられない
ものであるのに対し、
メールは視覚によるコミュニケーションのうち、
時間的にも空間的にも離れることが可能なものだ。

空間的には離れられないのに時間的に遅延可能な
コミュニケーションは、例えばかつて駅に設置されていた
伝言板のようなものだ。
このタイプには視覚的なものが多い。

遅延可能な手段があるのに、相手を時間的に拘束する
コミュニケーションを選択するのは、
親しい間柄ではよくみられる傾向である。
LINEのように、既読を知らせる仕組みを実装するのは、
時間的遅延を生じさせにくくするための、ある種のプレッシャ
みたいなものだろう。

今のところ、時間的・空間的に分離可能な触覚による
コミュニケーションは一般的ではない。
送受信地での情報変換のためのインターフェイスが普及していないし、
情報の伝達コストも視覚や聴覚に比べると大きいのだろう。
それが可能になったとき、それでも人が他人に会いたくなる
動機はどこからやってくるのだろう。

攻殻、あるいはharmony

広島さんにはがっかりです。 

それはそうと、攻殻機動隊の新劇場版を観てきた。
ラストのつながり方はこれまで攻殻機動隊を
観てきた人間にとってはとてもうれしかった。

第三世界の問題とは、つまり、人でも物でもなく、
情報としての存在可能性だろうか。
その区分における、人と物の境目はどこにあるのだろう。

・人とは、物理的インターフェイスを伴っていて、
 そこに意識を想定できる対象
・物とは、物理的インターフェイスを伴っていて、
 そこに意識を想定できない対象
・情報とは、物理的インターフェイスを伴っていないもの
としてみると、物理的インターフェイスを取り外されたときに、
意識があり続けられるかということになる。

FacebookやTwitterの投稿の向こうに、私はいつも
意識を想定してしまいたくなる。
明らかなbotを除けば、綴られているテキストには
それを打ち込んだ人間を想定するのが、現状は極自然だ。

だが、ある人が書き、話した言葉をすべてDeep Learningのように
学習させたものにTwitterをやらせたとしたらどうなるだろう。
そこに意識を誤認する人間がマジョリティになるときは
果たして何年後にくるだろうか。
果たしてそれは誤認なのだろうか。
なぜ、そこにもう一つの意識が生まれていると想定できないのだろうか。
多分それは程度の問題に過ぎない。

・認識された意味
・知覚された光
・モニタに表示された文字
・ネットワークを伝達してきた電子情報
・キーボードをタイプした指の動き
・腕の筋肉を動かす指令としての神経パルス
・テキストの内容を推敲したニューロンの網
・ニューロンの間を行き交う化学物質
一体どこに意識は意識をみるのだろうか。


かつて、コンピュータの黎明期には、研究所等に置かれる
メインフレームを中心に、小さなネットワークの中で
各端末がアクセスするという形態だった。
そこから、パーソナルコンピュータが普及したことで、
演算をする場所も記憶する場所も、物理的に拡散し、
その間をインターネットがつないだ。
そして今、クラウド化が進む中で、あらゆる機能が次々と、
再び集まりつつある。


意識の歴史がこれと符合するというストーリィは
とてもSF的だが面白くないだろうか。

かつて、意識が個体に実装される前に、例えば種に
相当する程度の大きさで共有される意識があった。
個体の脳は処理速度も遅く、記憶領域も狭いため、
その方式が現実的だった。

あるときから、脳が大きくなることで、意識を
埋込むことが可能なだけのリソースが個体に獲得された。
ちょうどwindows95が爆発的に売れたように、
あるタイミングでスタンドアローンで動ける個体が
爆発的に増えたはずだ。
この段階で、個体同士がそれまでは共有意識を介して行っていた
コミュニケーションを維持するため、言語を必要とし始める。

そんな時代が長く続いた後、変化のときが訪れる。
あまりにも処理・保存すべき情報が増えすぎたため、
個体は情報をアウトソースする必要が出てくる。

まず始めにアウトソースされたのは記憶だ。
DropboxやGoogleDriveのように、様々な知覚情報を
何らかのかたちで個体の外部に保存する。
文字、絵画、写真等、かたちある物に対して、情報を
埋込み始めていく。
物理的インターフェイスを脱ぎ捨て、電子情報で
保存できるようになることで、その傾向はさらに加速する。
石板に刻む文字、紙に書く文字、パソコンに打ち込む文字。
いずれも保持するデータ量が同じだとしたとき、
おそらく記憶媒体の大きさも、それを扱うのに個体に必要と
される情報も、右にいくほど小さく、少なくなるだろう。

次は演算能力がアウトソースされるだろうか。
その傾向がますます進むことで、個体の脳はより小さくて
済むようになる。
未来の意識は、コミュニケーション能力だけをもち、
判断は外部記憶を基にした外部での演算結果を受信することで
下される。
そこにはもはや今の意味での意識は見出せないのではないだろうか。
あるとすればクラウドの先のサーバの中だけだ。
そここそがまさに、第三世界たりうる唯一の場所かもしれない。


とてもharmonyの世界だ。

2015-06-24

落ちる

最近、golangで実装しているstがたまに落ちる。
スタックトレースにも何も吐かれないので、
原因を探りようがない。

と思っていたら、windowsでGCのバグ(?)があるらしい。

時間ができたらこれを見てみよう。

貯金

ついに貯金が底をついた。
24日に星燕鯉が勝つと全チーム借金。
かえって面白いからやってどうぞ。

2015-06-20

goroutineとDNN

人工知能学会誌のDeep Learningに関する連載を読んでいて、
Rob PikeのConcurrency is not Parallelismに出てきたイラストと、
Deep Boltzmann Machineのイラストが似ているなと思った。


2015-06-19

似顔絵と夢

Google Research Blogの6/17付の記事。
Inceptionism: Going Deeper into Neural Networks

BananaやScrew等の図を見たとき寒気がした。
バナナのイラストを判別するのではなく、
バナナのイラストが描けるようになるまで
もう少しではないか。

同時に、意識なんてこんなもんだと宣告されるときが
いずれ来るのではないかと戦慄する。

Iterationの節では人工知能が夢を見ている。

しかし、およそGoogleほどの、世界最高レベルの
知恵と資源が集まっているであろう企業でも、
現時点ではこのレベルということを考えると、
人間の脳内で行われている演算量の多さは
計り知れない。

人間だと3才にもなれば自我が芽生えると言われているが、
Google Photoの刷新で学習量が爆発的に増えたとして、
3年後のGoogleのAIはもう少しマシなバナナの似顔絵が
描けるだろうか。

変化

公式の情報がなかなかみつからないのだが、
IngressのRESとENLの比率は日本だと
大体2:1程度のようだ。
https://twitter.com/nakamukae/status/545885382944890880
http://kuni92.net/2014/12/ingress.html
http://www.darsana.club/

スマホやタブレットを駆使して先端技術のメリットを享受
している一方で、SF的にIngressの世界観を突きつけられると
RESを選ぶ人の割合が多いというのはとてもおもしろい。

海外でも概ね状況は同じようだ。
(というかredditにIngressのレベル表示がついている…)
http://www.reddit.com/r/Ingress/comments/208r00/just_curious_how_did_the_current_23_enlightenment/

利便性は最大限に受け取りたい、でもリスクなどあってはならない。
ここまで極端ではないものの、ものすごくざっくり言うと
そういった意見がまかり通るのが人間社会であるのかもしれない。

おそらく、常に技術の変化が先行し、人間の変化がその後をついてきた。
この話について考えるたび、最初にペンチをつかった人間のたとえが
思い出される(たしか森博嗣の著作のどれかだ)。

どうして人間の側は変わってこれたのだろう。
リスクは常に0にはならない。
リスクに対する利便性の比率の閾値のようなものがあるのだろうか。

100年後には、原発事故について、事故前のリスクヘッジの甘さと
事故後の過度な拒否反応のどちらも同じくらい時代遅れだなと
思われているだろうか。

2015-06-18

popcorn

popcornしかない(確信)


pop来ーn、おっと誰か来たようだ。
git stash
(あれこれ)
よしmulti stack rpnの実装に戻るか。
(カタカタ)
ハッ
_人人人人人人人人人人_
> pop/(^o^)\corn <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄