2017-06-30

平凡

「先生にとっての平凡な生活、ってどんなイメージですか」
「どっちを向いても敵と味方の差が少ない状態かな、要は中央値だね」
「味方は多い方がいいんじゃないでしょうか」
「シーソーではね、支点にいるのが一番振り回されないんだよ」

2017-06-29

ゲンロン5

「ゲンロン5」を読んだ。
特集は「幽霊的身体」である。

「幽霊的」という言葉は、何かしらのズレに関連している。
ズレと言うからには複数のものがあって、そこには差がある
はずだが、何かを基準にとって「共通部分+差分」と分けて
差分だけを扱うのは「幽霊的」ではない。
複数のものを同時に捉えたときにみえてくるズレを、そのまま
扱うのが「幽霊的」なのではないかと思う。

共同討議1「記号から触覚へ」の中で、東浩紀が提起した
  • 仮想現実
  • 死者の追悼
  • 政治やイデオロギー
という三つの問題、あるいは演劇や舞踊といったテーマは、
過去と現在、物理的身体と心理的身体、現実と虚構、現状と
理想、といったいろいろなものの間にあるズレが「幽霊的」
に捉えられ得ることを示す。
これらの間にいくらでもあるズレを、差分として切り出す
ことで「幽霊的」なものを除霊しようとしたのが近代で
あったが、それはことがらをことばで置換し尽くすことと
同義であった。
ズレを「幽霊的」なままに扱うということは、ことばに
ならないことがらを受け容れることであり、ユートピア=
ディストピアに陥らないユートピアの在り方にも通ずる。

共同討議1で梅沢が述べるように、確かに震災後に現実の
情報がインターネット上に溢れるようになった感がある。
おそらく、震災時の連絡手段としてtwitterが機能したあたり
から堰を切ったように流れ込み始めたのだと思うが、それは
同時にプライバシー等のいろいろな問題を引き起こしている。
現実はもはやインターネットを虚構として切り分けていられ
ないし、インターネット(あるいは広く情報技術)も物理的
身体の影響を無視できないはずなのだが、これらを支えている
国家や科学といった枠組みが、近代を引きずらざるを得ない
ところに限界があるのかもしれない。

共同討議1の注5で
芸能とは共同体の利益のために行われるものであり、それに
対して芸術とは「信仰を等しくせざるものが現れ、他者の
視線が出たとき」に生じるものである
共同討議1「記号から触覚へ」
「ゲンロン5」p.41
という鈴木忠志の言葉が引用されている。
信仰とは、心理的身体に固定化した部分をもつことで行われる
真への短絡であり、同じ正義を共有することで集団が出来上がる。
その集団の中では、信仰を守るための芸能は技術として発展し、
複製の完全性が求められる。
技術としての芸能が芸術になるには、複製の不完全性によるズレが
必要であり、それをもたらすのが他者の視線である。
鈴木忠志の言葉を踏まえ、幽霊的なものを失うことで芸術は芸能に
堕ちてしまうと東は述べており、これはまさに「ゲンロン0」の
観光客の哲学と通底する話だろう。
あらゆることがらをことばに置き換え、芸能という技術だけに
頼るというのは、皆が同じことを信仰する状況であり、それは
ユートピア=ディストピア以外の何ものでもない。
「ほかの答えがなければ、それひとつで良い答えなんてないの」
オルダス・ハクスリー「島」p.76
インタビュー「人間は足から考える」の中で、西洋が忘却している
として鈴木忠志が批判する下への意識も、同じ文脈のように思う。
直立二足歩行から始まり、どんどん地面から離れていく中で、
物理的身体と心理的身体の関係は崩れてきた。
心理的身体が物理的身体を制御しようとするのでもなく、心理的
身体をなくそうとするのでもなく、両者がどのように「幽霊的」
に共存し得るかを実践するのが、演劇や舞踊の醍醐味であり、
難しさでもあるように思う。

共同討議2「演劇の起源と幽霊の条件」ではまた別の視点として
時間のズレの話が出てくる。
型とはつねに過去から来たアナクロニックなものであり、
現在に入り込んだ別の時間である
共同討議2「演劇の起源と幽霊の条件」
「ゲンロン5」p.68
という東による鈴木忠志「演劇とは何か」の読みは、時間軸上の
「幽霊的」な在り方に対応している。
木ノ下裕一が語る、歌舞伎における〈名跡〉や〈型〉、幽霊の話も
これに関連している。
古典芸能における幽霊は、過去をあぶり出すための装置である。
同時に、〈過去そのもの〉である。
(中略)
歌舞伎には常に複数のレイヤーがかけられ、観客は、それらの
層の襞の中で、時間軸を超越しながら遊ぶ。
木ノ下裕一「幽霊としての歌舞伎」
同p.145
型を行う物理的身体と物語る心理的身体の共存が、そのまま同時に
時間的な共存でもあるという構造自体もまた、「幽霊的」に共存
しているというのがとても面白い。

そこからさらにフロイトの「不気味なもの」の話に発展して、
不気味の谷現象の話が出てくるが、物理的身体の抽象に耐える
ためのディテールをいくら精緻化しても、心理的身体の抽象
とのズレがある限り、不気味の谷は埋まらないのだと思う。
不気味さの経験というのは、たんに疎遠さへの嫌悪や
警戒感だけではなく、親しさの経験とも混ざっている。
共同討議2「演劇の起源と幽霊の条件」
同p.69
熱素やエーテルという幽霊が除霊されたのと同じように、
「わたし」という自意識が幽霊として除霊される未来も
あり得るだろうか。

複数の集団に同時に属することができるのが人間の特徴であり、
演劇の起源かもしれないという平田オリザの指摘は興味深い。
人類、国家、都市、家族といったいろいろなスケールの集団に
同時に属しているために、集団ごとに振るまい分けるところから
演劇が始まるというのは、鈴木忠志が指摘する他者の視線の話
とも通ずるところがあると思う。
それはまた、飴屋法水が演劇を「半々」なものと表現し、
いま自分が「そうではなかった可能性」を半分は内包しつつ生きる。
それが演劇がやっていることです。
対談「演劇とは「半々」である」
同p.99
と述べていることでもある。
建築にとっては、ビルディングタイプの多様さと関係する
かもしれない。
近代は、住宅の機能を括り出すことで公共の施設を生み出して
きたが、それは各集合が直和になるような切り分け方であり、
人間が複数の集団に属していることの現れというよりは、
人間をプロパティの集合とみなすことの現れだったように思う。
プロパティに解体されることなく、複数の集団に属しながら
「幽霊的」でいる人間のための建築はどのようなものだろうか。

2017-06-27

意識と本質

井筒俊彦「意識と本質」を読んだ。

一言に「本質」と言っても、立場によってその意図
するところは異なる。
イスラーム哲学では「本質」は「マーヒーヤ」と
「フウィーヤ」に区別される。
前者は「それは何か」という問いへの答えとして、
XをしてXたらしめるX性に対応する普遍的「本質」、
後者は「これであること」=「これ性」を意味し、
具体的なXのリアリティに対応する個体的「本質」。

いずれの「本質」も実在しないとする立場、
フウィーヤこそが実在するとする立場、
マーヒーヤこそが実在するとする立場。
マーヒーヤを実在する「本質」とする中でも、
意識のどの層で受け止めるかについて、
  1. 深層意識とする立場
  2. 1よりもさらに深層にあるとする立場
  3. 表層意識とする立場
というように、いろいろな「本質」の捉え方があり、
朱子やマラルメ(1)、密教やカッバーラー(2)、孔子や
プラトン(3)を取り上げながら、マーヒーヤの捉え方に
ついては詳述されている。
マーヒーヤだけでなくフウィーヤも含めて、何が
「本質」なのか、何が「実在」するのかを問うのが
意識とは何かという問いであり、あるいはむしろ、
意識そのものですらある。
どれが正解かという話は出てこないし、文脈的にも
あまり意味のない話である。
むしろ積極的に、意識を超えた意識、意識でない意識も
含めた形で、意識なるものを統合的に構造化しなおそう
とする努力を経てはじめて新しい東洋哲学の一部としての
意識論が基礎付けられるのであろう。
またそこにこそ東洋的意識なるものを特に東洋的意識論
として考察する意義がある、と私は思う。
井筒俊彦「意識と本質」p.101
東洋哲学一般の一大特徴は、認識主体としての意識を
表層意識だけの一重構造としないで、深層に向かって
幾重にも延びる多層構造とし、深層意識のそれらの
諸層を体験的に拓きながら、段階ごとに移り変わって
いく存在風景を追っていくというところにある。
同p.316

井筒は、意識の構造モデルとして、表層意識(A)、「想像的」
イマージュの中間地帯(M)、言語アラヤ識の領域(B)、無意識(C)、
意識・存在のゼロ・ポイントからなるものを提案する(p.214)。
意識・存在のゼロ・ポイントは無相の情報、Cは物理的身体、
A〜Bは心理的身体にそれぞれ対応付けられる。
心理的身体の中でも、Bはハードウェアの役目を果たし、
意識をもった人間が集団を形成することを可能にする。
中間地帯のMは理由付けのつなぎ替え可能性を表し、
投機的短絡が生じる場所となる。
表層意識のAは理性に対応し、Mで生じた短絡の投機性が、
理由をあてがうことによって和らげられる。

言語アラヤ識は心理的身体の領域に属すが、当然Cの物理的身体の
センサ特性の影響も受けると考えられ、それは人間にとっての正義
としての倫理につながる。
中間地帯Mはカッバーラーにおいては神の内部と想定されるが、
これはMの全体を表層意識Aの行う理由付けの終着点とみなすという
ことであり、M自体を大いなる原因である神とみなせることを表す。
神の内部に対して物語るというのは、理由の連鎖の開始点において、
どのような縫合手術をするかということに対応している。
中間地帯Mで投機的短絡によって発散するつなぎ方のうち、
他の心理的身体との通信でコンセンサスが成立したつなぎ方が
表層意識Aにのぼり、現実と呼ばれるようになる。
そのときのコンセンサスの名残りが理由である。
理由とは、コンセンサスの名残である。
An At a NOA 2016-11-15 “理由
サルトルの言う「嘔吐」は、人間がコンセンサスの名残りを欲し、
無意味に耐えられないために起こり、それを回避するために人間は
不確定性にさえ理由付けする
元々充足理由律は表層意識Aだけに適用されていたかもしれないが、
大いなる原因である神が死んだ世界においては、中間地帯Mがあばかれ、
そこにも充足理由律が侵入する。
本来は網状に絡まっていた中間地帯Mにも充足理由律を適用することで、
それを一本の連鎖として想定しようとするのが、充足理由律に従って
突き進む近代以降の世界観である。

以上のようなこともまた一つの物語であり、それが正解なのかという
こととは関係なく、物語ること自体が意識なのだと思う。
充足理由律がなければ物語ることもできないのかもしれないが、
充足理由律によって意識・存在のゼロ・ポイントまでが一直線に
つなげられてしまったら、物語ることはできなくなり、ユートピア=
ディストピアが訪れる。
そのせめぎ合いの中で、人間は、あるいは意識は、バランスを崩さずに
いられるだろうか。
人間はどこまで充足理由律を緩めることができるだろうか。
An At a NOA 2017-5-10 “比較可能律あるいは樹状律と充足理由律

2017-06-26

This is a pen.

これはペンです。

これはペンですぅ。
これはペンですお。
これはペンですか。
これはペンですが。
これはペンですし。
これはペンですぜ。
これはペンですぞ。
これはペンですた。
これはペンですっ。
これはペンですと。
これはペンですな。
これはペンですね。
これはペンですの。
これはペンですよ。
これはペンですわ。
これがペンです。
これぞペンです。
これでペンです。
これとペンです。
これなペンです。
これにペンです。
これのペンです。
これもペンです。

Apes in shit.
Spin is  heat.
Eat his nips.
Ship in east.

2017-06-22

而今の山水

「而今の山水」は、現にそれぞれ山と川として
分節されているにもかかわらず、山であること、
川であることから超出して(すなわち、それぞれの
「本質」に繋縛されることなしに)自由自在に
働いているのだ
井筒俊彦「意識と本質」p.144
本来はつなぎ替え可能である投機的短絡としての
理由付けは、言葉に置き換わることでつなぎ替え
可能性を失い、固定化される。
それが、山や川が山であることや川であることという
「本質」に繋縛されている状態である。

理由付けという抽象過程としての心理的身体の一部が、
このように言葉として固定化することで、仮想のハード
ウェアが出来上がり、それは物理的実体のハードウェア
に依存しない集団を形成するきっかけとなる。
固定化した領域は、常識、習慣、主義、主張、信念、
真理等として現れ、集団を維持することとこれらを維持
することは表裏一体である。
真理なしには集団は存在できない。
集団なしには真理は存在する資格がない。
An At a NOA 2016-06-27 “集団と真理
山が、山というものとして、山という言葉によって抽象
されることが、ハードウェア化した部分を有するという
ことであり、この状態は「而今の山水」ではなく、
ただの「山水」である。

井筒は「山水」を分節(Ⅰ)、「而今の山水」を分節(Ⅱ)と
呼び、その間に無分節の状態を設けている。
無分節というのは理由付けによる抽象を放棄した状態
であり、そこにおいて物理的身体の抽象が機能している
のかは定かではない。
物理的身体による抽象もないとしたら、ただ無相の情報を
無相のままに放置することになり、何も認識すらせず、
一切の抽象を放棄した状態である。
それは生命ではない。
物理的身体による抽象が機能しているとしても、理由付けを
一切行わないことによって、生命ではあるが、人間ではなく
動物となる。
そこは無我の境地ではない。

そこを超えた先にある、心理的身体が全く固定化した部分を
有しない状態が「而今の山水」である。
そこにおいては、物理的身体だけがハードウェアとして機能し、
それが基盤となるからこそ、心理的身体が存分に発散できる。
山が山として物理的身体によって分節されていながら、同時に
発散する心理的身体によってつなぎ替え可能なことが言葉に
よって拘束されていない、すなわち山であることに繋縛されて
いない状態である。

恋が配偶者選択のための特徴抽出であり、「而今の山水」でも
あるというのは、物理的身体に依拠することで、その対象が
理由抜きによいものという判断が先行しつつ、いかようにも
理由付け可能な対象としてあるという状態である。
理由を言葉にしてしまった瞬間、「而今の山水」は「山水」と
なり、恋は冷めてしまう。

オルダス・ハクスリーが「島」で描いたパラも、シンボル化に
抵抗し、「而今の山水」を目指すユートピアである。
パラでは抽象的物質主義よりも具体的物質主義がよしとされ、
さらにそれを具体的精神性まで変容させることを目指している。
「ことばとことがらのちがい」である。
An At a NOA 2017-01-28 “
「ことばになったことがら」は、シンボルとして抽象される
ことで、同一な部分だけが残り、差分は棄てられてしまうため、
再現性の代償としてその対象への集中力を損なう。
処理能力の向上には向いているかもしれないが、すべてが
シンボル化された世界はある種のディストピアである。
An At a NOA 2017-01-29 “ことばになったことがら” 

「而今の山水」の話を思うと、この文章、あるいはこのブログを
言葉のかたちで留めることにも、自ずと限界があることがわかる。
先人たちは、詩や俳句、回文や掛詞のようなかたちで、言葉の
音韻や文字数、配列をあえて明示的にハードウェアとすることで、
それ以外の言葉の要素に解釈の余地を与え、言葉の固定化から
免れようとしてきたようにも見える。
散文の場合には、同じようなことを言葉を替えて何度も表現する
ことが、固定化の回避だったと言える。

投機的短絡のもっているつなぎ替え可能性を少しでも残せるように、
同じようなことを何度も表現することでできた解釈の余地の中に、
おぼろげながら佇んでいるものを、意識は意識とみなすのかもしれない。

2017-06-21

青白く輝く月を見たか?

「青白く輝く月を見たか?」を読んだ。
1作目 彼女は一人で歩くのか?
2作目 魔法の色を知っているか?
3作目 風は青海を渡るのか?
4作目 デボラ、眠っているのか?
5作目 私たちは生きているのか?

「先生とお話ししていると、面白いです」オーロラは言った。
「それはですね、私が面白くしようと思っていないから
 なんですよ」
「はい、私の結論も同じです」
森博嗣「青白く輝く月を見たか?」p.274
Wシリーズの面白さは、そのような面白さだ。
ハギリからの手紙を受け取るオーロラのように、
森博嗣の小説を読むことで、投機的短絡としての
意識や、意識をもつことが異常になった世界、
といったことについて考えることが、ただ面白い。
まさにそれ自体が、理由付けという抽象過程であり、
意識と呼ばれるべきものである。

頭脳回路の局所欠損によるニューラルネットの回避応答が、
偶発的な思考トリップを起動する。
同p.267
回路に生じたちょっとしたエラーによって、抽象過程
における排中律や無矛盾律が成立しなくなる。
それが投機的に短絡を起こしているように見えて、
埋め合わせをするかのように、理由があてがわれる。
それが、
なんと、ぼんやりとした思考、行き当たりばったりの
行動だろう。
同p.241
と形容される、ある種の人間らしさにつながる。
この矛盾をはらんだ意識という判断機構が、いつか
病気として認識されるかもしれないということを、
伊藤計劃「ハーモニー」を読んで考えたが、
Wシリーズにもこの問いは含まれている。
この種の純粋な人工生物たちにとって、人間は
いわば病原菌のようなものかもしれない。
同p.181
投機的短絡はつなぎ替え可能であるところに利点が
あるのに、一時的な短絡を言葉として固定してしまう
ことで、矛盾をもたらす病原菌に見えてしまう。
そうそう、君たちが学ぶのは、言葉になったデータなんだ。
そこが、ラーニングの最も大きな落とし穴といえる。
同p.248
というハギリの指摘を、どのようにクリアしていくかが、
ウォーカロンやトランスファを人間に近づける上で最も
難しいところだろう。
言葉を経由しないラーニングを、ハギリは恋と呼んだが、
それは「而今の山水」という悟りの境地に似ているように
思われる。

意識というソフトウェア的なエラー導入機構と、
生殖や発生というハードウェア的なエラー導入機構の
両方を備えていた人間は、マガタ博士によって後者を
剥奪され、前者の占有権を失いつつある。
マガタ博士が構築を目指す共通思考は、知恵の樹の実と
生命の樹の実を等しく蒔いた世界だろうか。
「なるほどね」僕は頷いた。「わからないでもない」
「わからないでもない、という判断がかなり高度な
 認識処理です」
同p.103

2017-06-19

人間の経済

宇沢弘文「人間の経済」を読んだ。

とても思想に富んだ経済論だというのが率直な感想だ。
最近は分野に限らず思想を前面に出さないことが多い
ように思う。
こうあるべき、ということを主張しづらいというよりは、
こうではない正義があり得ることを想定しない正義が
受け入れられづらくなってきているということか。

近代において確立された個人という単位は、心身二元論
からの帰結として、物理的身体に制限されない人間像を
想定可能にした。
プロパティの集合として定義された人間によって駆動
されたシミュレーションをなぞるとき、プロパティの
集合として振る舞うことが不可避的に要求される。
宇沢ははっきりとこのことを拒否し、物理的身体に
一致した心理的身体の区分としての人間を重視する。
人間を人間たらしめるハードウェアとして物理的身体
にこだわり、そこは変わらないものとして維持すべし
というのが、宇沢の思想のハードウェアとなっている
ということだと思う。

基盤としてのハードウェアは、固定化への収束という
危険性をはらむが、それなしで発散することは空中分解
につながるため、ハードウェアのない存在はそうそう
長く維持しないと考えられる。
人間として、あるいは思想として、どこにどのような
ハードウェアを想定するか。
それはすなわち、道徳を設定するということだと思う。
そう考えると、道徳というのは、抽象過程の破綻を避ける
ための、発散する特性を制御する枠組みだと言える。
An At a NOA 2017-06-10 “技術の道徳化
道徳は、技術とともに常に変化する可変性の殻である。
思想を前面に出さない議論が増えたように感じるのは、
技術による変化が急激になっているからだろうか。
急激に変わりゆく道徳の内容に気を付けていないと、
ユートピア=ディストピアに陥るのは簡単である。

2017-06-16

都市と星

アーサー・C・クラーク「都市と星」を読んだ。

これはどこまでも固定化と発散の物語で、
それだけと言ってしまえばそれまでであるが、
これもまたバナナ型神話の一つである。

人間、ダイアスパー、リス、地球、太陽系、
銀河系といった、それぞれの境界の内側で
成立する秩序。
ダイアスパーとリスは、都市と田舎、肉体と
精神、東西陣営といった、いろいろな対比
構造になぞらえられると思うが、何であろうと、
一つの基準のみに従うこと自体がユートピア=
ディストピアという固定化を生み出す。
おたがい、相手から学ぶものがなにもないと
思いこんでいる状況は―どちらもまちがって
いることの証ではありませんか?
アーサー・C・クラーク「都市と星」p.282
〈中央コンピュータ〉が体現する、
“いかなる機械も、いかなる可動構造を持たない”
同p.289
という機械の理想像も、固定化の末路の一つであり、
この理想像への憧れはあるものの、全体のストーリィ
の中では、やはり否定的なものとして捉えるべき
ものだろう。

その固定化へと収束しつつあるユートピアに、
発散をもたらし得る、ケドロン、アルヴィン、
ヴァナモンドといった子供を挿入することが、
ユートピアを回避する唯一の道であるという
サイバネティックス的な視点はとても好きだが、
同じ構造を幾重にも重ねているためか、少々
長ったらしく感じてしまう気もする。

〈狂える精神〉を生み出した実験について、
人類がさまざまな種属との接触によって知ったのは、
各種属の持つ世界観が、それぞれのそなえる肉体構造と
感覚器官に深く依存しているということでした。
同p.435
としているあたりには、ユクスキュルの
思想の影響もみられる。
ハードウェアから切り離した発散機構が
機能しないということには同意できる。
固定化に向かう秩序と通信するための
共通基盤としてのハードウェアを有しない
発散は、単なるバグでしかない。
理由付けに相当する判断機構をAIに実装したとして、
そんな機構は自己正当化を続けるバグの塊のように
みえるだろう。
An At a NOA 2017-01-09 “

ジェレインが構築したヤーラン・ゼイの
イメージがジェセラックにダイアスパーの
創設を語るシーンでは、個という意識もまた、
近代が作り上げたシェルターなのではないか
ということを連想した。
パッケージ化された「わたし」という意識の
軛から解き放たれるときは来るだろうか。
きみの精神には、外界に対する恐怖、都市に
閉じこもりたいという強迫観念、都市の住民
全員とダイアスパーを分かち合っているという
意識などが植えつけられていた。
しかし、いまのきみは、その恐怖が根拠のない
ものであることを知っている。
(中略)
いま、その軛からきみを解き放とう。
わたしのいう意味がわかるね?
同p.452

2017-06-14

芸術と技術2

芸術と技術の違いとなる複製の完全性の差は、
複製過程がどれだけ理由付けられているかの
度合いを反映しているだろうか。

あらゆることに理由付けられることで複製は
完全になり、技術と呼ばれるようになる。
実際にそうではなくても、完全に理由付け
られたとみなされるだけでよい。
逆に、複製過程において理由がわからない
部分があると複製は不完全となり、芸術と
呼ばれるようになる。
物理的身体による意味付けを含む複製が
芸術的であることが多いのは、このことを
反映しているように思う。

理由抜きになされた複製は、それに対して
理由付けをする多くの余地を有することに
よって、新規性があるとみなされる。
情報の抽象過程の新規性に芸術の可能性は存する。
An At a NOA 2017-04-30 “芸術と技術

複製過程が完全に理由付けられていること(A)と、
複製された抽象過程自体が完全に理由付けられて
いること(B)は、一見、「完全に理由付けて複製した
結果として得られる抽象過程は、完全に理由付け
られている(A⊂B)」という包含関係にありそうだが、
そうとも限らない。
むしろ、工学の多くはA∩Bの領域にあるだろう。

Aによって峻別されるのが、芸術と技術である、
というのが上述の話だった。
Bによって峻別されるのは、おそらく自然と人工
にあたるだろう。
だとすれば、ディープラーニングのような理由抜きの
抽象過程として成立する知能は、人工知能ではなく、
むしろ自然知能と呼ばれて然るべきである。
一方、人間が自らの知能を解明した末に得られるのは、
意識の人工知能化である。
そのような逆転が起きる可能性はあるだろうか。

分類器

自殺を試みる可能性がある患者を人工知能が9割の精度で予測

ブラックボックス化した分類器として機能する
抽象過程が多くなるほど、固定化に近づくことで
発散の機会が失われ、心理的身体の役割は減少
していく。

引用元のような技術が気持ち悪く感じられるのは、
その先に心理的身体の消失した世界を予感させる
からであるように思われる。

技術がハードな複製だけを生み出す状態では意識が
なくなり、ソフトな複製も生み出す状態では意識の
カテゴリに人間以外のものが現れる。
いずれが意識にとって脅威だと言われるのだろうか。

そう言えば、奴隷制度があった時代にも、この手の
議論はされただろうか。
奴隷があらゆる作業を完璧にできるようになることで、
主人は思考する必要がなくなる。
奴隷が主人と同じ立場になることで、主人の立場が
危うくなる。
この議論がちゃんちゃらおかしいように感じるので
あれば、そう遠くない未来には前述の議論もまた
ちゃんちゃらおかしいものとして感じられるように
なる可能性があるということだ。

publication

ハイブリッド・リーディング」の脚注で、
個々の人間に合わせて本の内容を変えて出版
できる時代において、それはpublicationと
呼べるのだろうか、ということが書かれていた。
そこではページの一枚一枚、本の一冊一冊ごと、
異なる読者に向けて内容をカスタマイズする
ような製本も可能になっている。それを文化的な
合意として「出版物」(publication)と呼びうる
かは議論があるだろうが。
阿部卓也「杉浦康平デザインの時代と技術」
日本記号学会「ハイブリッド・リーディング」p.75

privateなかたちで変化させられる本を出版
するとき、確かにpublicにされるものは変わる
かもしれないが、それは範囲の問題だけであり、
技術による抽象過程の複製が、物理的な実体に
ハードコードされたレベルから、より抽象的な
レベルになるだけのようにも思われる。

ロラン・バルトが「作者の死」で明らかにした
ように、作品が神として君臨する作者の意図を
表現しており、正解として存在するその意図を
受け手が読み取るという構図は幻想である。
これまでのpublicationにおいても、作者だけでは
作品は成立せず、受け手ごとに解釈されることで
privateな部分をもっていたはずだが、物理的な
実体がこのことを覆い隠していた。
publicationの形態が多様化することで、この覆いが
取り払われ、幻想であったことが明示的になった
だけなのかもしれない。

どこまでがpublicであり、どこからがprivateで
あるかという話は、模倣犯に関する責任の話と
同じであり、作者も受け手も、どちらか一方が
全責任を追うこともなければ、どちらか一方が
無責任であることもない。
おそらくその中間にあるとみなせることになる
のだろうが、その線引きはおそらく確定的には
できないだろう。
もしできるとすれば、後ろに国家等の巨大な
集合が存在し、自由と責任を一括して管理する
からであり、固定化への収束に繋がる。

創造的破壊と単なる破壊は紙一重ですらなく、
時代や場所、状況によって変化する解釈に
応じて、どのように分類されるかが決まる。
秩序からの振れ幅を、犯罪と創造のいずれと呼ぶのかという
境界線は極めて曖昧であり、常に恣意的に決めるしかない。
An At a NOA 2016-11-14 “犯罪と創造
犯罪と創造は多様性の同義語であり、一枚の硬貨の表裏のようなものです。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.269
要素の抽象特性の変化によって、同一性という集合の抽象特性も
変化を促される。
これが起きない集合は熱的死と呼べる状態である。
抽象特性の変化が大きすぎると集合は瓦解し、小さすぎると
集合は壊死する。
An At a NOA 2017-06-10 “技術の道徳化” 
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化
という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス” 
こういった議論を放棄して、責任を置き去りにした
表現の自由を認めたり、表現規制を進めたりする
結論に短絡するのは簡単だが、それは人間が人間で
なくなることにつながるように思われる。

模倣犯

強制わいせつ容疑の男「漫画を真似」 県警、作者に異例の申し入れ

漫画に影響された模倣犯について、警察から当該漫画の
作者に注意喚起を促すよう申し入れがあったという話。
作者がtwitterで言うには、もっと和やかな雰囲気
だったようだが、それでも表現規制につながると
危惧する指摘をみかける。

表現の自由の裏側には表現の責任が伴って然るべき
だと思うのだが、「表現規制につながる」という
指摘では自由の話ばかりがされ、責任の話には
ほとんど触れられないように感じる。
このあたり、どう考えているのだろうか。
表現の自由に限らず、あらゆる自由には責任が伴う。
より精確には、責任を問いたいがために自由が想定される。
裏に、問う必要がない責任については、自由が想定されない、
という命題もまた、この一件の報道を見ていると真だと感じられる。
An At a NOA 2016-09-05 “表現の自由
例えば、シャルリー・エブドの風刺画と今回の漫画を
比較したとき、何がよくて何がダメかという一線を、
整合するかたちで引けるだろうか。
表現者も作品も閲覧者のいずれも、それ単体で存在
することはなく、これらの関係が成立することで
はじめて表現者や作品や閲覧者になるわけだから、
表現者の特性、作品の内容、閲覧者の範囲それぞれを
独立に規制することにはあまり意味がない。
このことを踏まえると、画一的かつ整合的に良し悪しを
規定することはあまりに困難であり、それは意識をもった
人間にとってcorrectであるのが難しいことを反映している
ように思う。
だからこそ、人間は必ずしもcorrectではない判断を
共有するために、rightというコンセンサスに基づく
基準を採用するのだろう。
An At a NOA 2016-11-15 “correctであり続けるのは難しい

技術の道徳化」では、設計者(作者)は、技術(漫画)の
意図しない利用(模倣犯)を想定し、それに対策を講じるのが
よいとされる。
技術によって複製された抽象過程に対する責任の話を置き去り
にして技術を行使することは、ネットワークの発達によって
国家の影響が薄れていく時代には無理があるのだろう。
自由を謳歌したいのであれば、集団の巨大さに頼らず、
自らに責任を回収するのがよい。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団

2017-06-13

築地と豊洲

最終的には豊洲に落ち着くことになるらしいが、
築地にするか豊洲にするかよりも考えなければ
いけないのは、今後の進め方をどうするかだ。

専門分化と効率化を進めた結果を掘り起こすと、
専門家が誠実であろうがなかろうが、検討や
調査をすべき事項は山のように増える。
その検討や調査を、既往の知見や専門家の判断に
基づいて省略することで効率化を達成しているの
だから当然だ。
そこに時間とお金をかけることは、専門分化と
効率化の両方を同時に低減することになる。
専門分化とは責任の外部化であり、住環境、食品、
医療等を専門家に任せることと、その安全性に対する
責任を専門家に負わせることは表裏一体であった。
何もかもが専門分化した世界では、人間は個としては
まったく不自由で、何かの専門家としてだけ自由を
手に入れることになってしまう。
それを理想とする考え方もあるだろうが、それは
やはり個の意識を消す方向に行ってしまうように思う。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団
物理的身体によって規定された個人の代わりに、
専門分化を通して「この自動運転車に乗った人
のようなかたちで再編された「個人」を単位に
することによって、人類という集団全体の効率を
上げることが、近代の手法を突き詰めることで
得られる究極の形態なのかもしれない。

近代から抜け出すか、個の意識から抜け出すか。
押す方と引く方のどちらであれ、一方に振れるのは
寓話のような滑稽さを生み出すように思われる。
案外、現状のように、「安全だが安心でない」とか、
「税金の無駄遣い」とか言い合ったままでいるのが、
バランスが取れているのかもしれない。

2017-06-10

技術の道徳化

ピーター=ポール・フェルベーク「技術の道徳化」を読んだ。

一エンジニアとして技術と道徳の関係はとても興味深く、人間対技術、主体対客体、内部対外部といった近代的な対比構造を乗り越えて、技術によって媒介される生を、技術と同行していかに生きるかという問いとしての道徳論は刺激的だった。技術を礼賛するでもなく、技術脅威論に与するでもなく、技術に媒介されていることを認識し、その関係の在り方を探る中で、自由や責任を考えるというスタンスは、広く共有されるとよいと思う。
技術は、延長スルモノとしての人間を、育種することができるだけでなく、調教することもできる
ピーター=ポール・フェルベーク「技術の道徳化」p.67
という話は、AlphaGoとの対戦を通じて柯潔の囲碁もまた変化したという話を彷彿とさせた。

出版時期を考えると致し方ないのだが、少し不満なのは、本書で中心的に取り上げられるポストヒューマニズム的視点が、確かに人間と技術を峻別し、人間の側だけで道徳が展開されるヒューマニズムを乗り越えているものの、人間と技術の区別が暗に前提されているように感じられる点である。元になった原稿が書かれた2000年代後半においては、両者の区別があっても、それらが相互作用するものと考えることで十分よい議論ができたとも言える。そしてそれはこれからも有効な議論になると思うが、2006年のジェフリー・ヒントンによるディープラーニングの研究をきっかけとした第三次AIブームとともに技術と道徳の関係はより複雑化しつつあり、第7章で述べられているような、人間と技術の区別すらあいまいになった領域の重要性が増していると感じられ、個人的にはこちらの方が興味がある。
絶対的な正というものは存在しないが、人間全体にとっての絶対的な正というものは存在しえ、それを追求する学問は倫理学と呼ばれる。
An At a NOA 2015-11-22 “論理と倫理
という倫理学を、技術に媒介された人間や人間に媒介された技術という領域まで拡張することで、技術を道徳の枠組みに組み込んだのがポストヒューマニズムだとすれば、そこからさらに、技術に媒介された技術の道徳化は可能か、という次の段階の議論にも興味が出てくる。第7章の話題や自動運転車の事故の責任論はその領域に差し掛かっている。

技術とは、抽象過程を複製することであり、複製された抽象過程は道具、あるいはこれもまた技術と呼ばれる。その複製には完全さが求められ、不完全な複製は新しい抽象過程を生み出す芸術とみなされることが多かった。そのため、技術によって複製された抽象過程の特性は固定化していることがほとんどで、発散の要素をもつ人間の心理的身体という抽象過程と対比されてきた。おそらく、その固定的な性質は、ある特定の理由に基づいて複製がなされるからだろう。新しい理由によって次々とつなぎ替えを起こすことで投機的短絡を生じる心理的身体との差が、どうしても生まれてしまう。ディープラーニングが画期的だったのは、複製過程にあえて理由を埋め込まないことで、発散の余地を与えたことにある。その発散は未だ心理的身体による解釈に依存していると思うが、抽象過程自体に発散の性質を実装できれば、技術による技術のための道徳が生まれ得る。そう考えると、道徳というのは、抽象過程の破綻を避けるための、発散する特性を制御する枠組みだと言える。これまでは心理的身体だけが唯一の発散を有する抽象過程とみなされることで道徳の対象となってきた。しかし、あらゆる抽象過程が相互に通信していることを思えば、複製された抽象過程としての技術に媒介されているという視点も必要であるし、心理的身体以外にも発散する可能性があるのであれば、その発散もまた道徳の対象になると考える必要がある。

倫理的実体は抽象過程であり、同一の入力データに対して同一のデータを出力する抽象過程はその同一性をベースに集合を形成し、その集合もまた抽象過程となる。集合のある要素の抽象特性が変化したとき、同一性を満たすような変化か否かが従属化の様式として機能する。要素の抽象特性の変化によって、同一性という集合の抽象特性も変化を促される。これが起きない集合は熱的死と呼べる状態である。抽象特性の変化が大きすぎると集合は瓦解し、小さすぎると集合は壊死する。この固定化と発散の狭間において、如何に変化し、変化しないでいるかを調整するのが自己実践になる。
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス
目的論は、上記のような過程を、充足理由律に従う存在が眺めたときに、不可避的に綴ろうとしてしまう物語である。

発散という変化可能性を有する抽象過程は、人間と技術の区別なく、道徳というバランサを必要とするのだろう。バランスを探れることが自由であるということであり、バランスを崩すような変化を引き起こした抽象過程には責任が生じる。こうした自由や責任もまた、充足理由律のついでに生じる概念であるから、こう語ること自体が人間を人間として区別してしまうことにつながるのかもしれないが、構文糖衣としては上手く機能してくれるように思う。道徳がバランサであるなら、道徳論はゆっくり変化していかなければバランスを失う一方で、変化しなければ心理的身体は壊死するだろう。どちらにも振れることなく、少しずつでも議論を進めたい。

2017-06-09

AIの責任

AIの操作する自動運転車の事故の責任について
何度か書いた。

もちろん、最初のうちは開発者や使用者の個人としての
責任が取り沙汰されるだろうが、最終的には
  • 自然災害とみなす
  • AIを法人化する
の2つが選択肢として残ると思われる。
このような人工知能が引き起こす人間にとっての不利益は、
いつか自然災害として扱われるようになるだろう。
An At a NOA 2016-04-07 “自然災害
株式会社と同じようにAIが法人になる未来も、
選択肢としてはあるだろう。
An At a NOA 2017-05-08 “法人としてのAI” 
前者は理由付けを諦める代わりに、意識のカテゴリを
人間が専有するという選択肢であり、後者は逆に、
あくまで理由付けにこだわる代わりに、AIを意識の
カテゴリに招き入れるという選択肢である。

AIを法人化したときには、AIは自身の行動によって得た
利益の一部を税金や保険料として納め、それが事故に
対する賠償金に充てられる。
AIが得る利益を払うのは使用者であるから、この構造は
結局のところ、事故の責任を使用者全体に拡げたもの
ともみなせる。
これは、「この商品を買った人」と同じように、
2以上の個人から採取したデータが1つのかたまりとして振る舞う
An At a NOA 2015-03-19 “ポストモダンの思想的根拠
ように、各個人から「この自動運転車に乗った」という
性質だけを抜き出して再集合させることで立ち上げられた、
新しい個を責任主体とみなすということだ。
これによって、AIはあくまで運転するのみで責任は負わず、
責任は人間に薄く分布するという物語が出来上がる。

保険はそもそもそういうものだったわけだが、運転手が
意識をもっているために責任主体となれるので、保険
加入者全体は単に金銭的な負担を分散させるためと
捉えることができた。
それに対し、法人化したAIの責任という文脈においては、
金銭的にだけでなく道徳的にも役割を分散させている
とみなすこともできる。
これによって意識のカテゴリにAIを招き入れることなく
理由付けにこだわれるのであれば、このストーリィも
あながち一笑に付せるものではないように思う。

現状では、Amazonにおける「この商品を買った人」は、
物理的身体をもたず、ただ亡霊のように買い物を続ける
だけであるが、「この自動運転車に乗った人」は、車体と
運転AIという物理的身体を手に入れ、休みなく公道を走る。
人工知能という技術によって生じるのは物理的身体の複製と
心理的身体の分散であり、心理的身体は人間だけが有する、
という解釈だ。
しかし、分散した心理的身体を再集合させることによって
できた「この自動運転車に乗った人」という心理的身体は、
一体「誰」なのだろうか。

2017-06-07

管理社会と田舎

監視カメラが増加することで管理社会が訪れる、
みたいな話のときに想像されているのは、
ドゥルーズの言葉を借りれば、管理型ではなく
規律型であり、近代のイメージを引きずっている
ように思われる。

管理社会と呼ぶべきものは、日本の田舎だったり、
twitterやFacebookのようなかたちで実現している
ような、互いが互いの行動を見張ることで成立する
中心のない監視体制である。
それは次第に固定化していく運命にある。

創造するということは、これまでも常にコミュニケーション
とは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、
非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、
管理からの逃走をこころみることだろうと思います。
ジル・ドゥルーズ「記号と事件」p.352
発散したノードは一時的にコミュニケーションの網から
弾き出される。
その弾き出されたノードを、上手く吸収して網に組み込み
直すことで、網の固定化を免れられれば、当該ノードだけ
でなく、網全体が管理から逃走できるようにも思われるが、
田舎にも都市にもそれはできていない。
それをめざすのが「観光客の哲学」だろうか。

2017-06-05

幼年期の終り

アーサー・C・クラーク「幼年期の終り」を読んだ。

文庫版で約400ページなのだが、3つも4つも小説を
読んだような感覚が残るくらい、ストーリィが
凝縮されている。

伊藤計劃「ハーモニー」とはまた別の仕方で、
人間が意識から解放される未来を描いているが、
むしろ興味深かったのは進化の袋小路に追い込まれた
存在として描かれたオーバーロードだ。
理由付けに拘泥することで人類よりも遥かに進んだ
科学を手に入れた一方で、〈全面突破〉の可能性を
失い、意識をなくしてオーバーマインドに吸収される
道が閉ざされたオーバーロードは、とても近代的な
存在である。
オーバーロードにとって、神は既に死んでいるかも
しれないが、それでも充足理由律に従って究極の理由を
追い求めた末に置かれたのがオーバーマインドであり、
それは神の代理とも言える。
オーバーロードや最後の地球人類ジャンだけでなく、
アーサー・C・クラークも読者も、充足理由律に囚われた
存在は皆、オーバーマインドというストーリィを必要とする。
オーバーマインドは理由の連鎖の果てにある不可視の大いなる
原因として、ただそこにあるだけだ。
理解しようとしてはいけない―ただあるがままを見守れば
いいのだ。
理解はその後に訪れるか、もしくはまったく訪れないかだ。
アーサー・C・クラーク「幼年期の終り」p.362

ニーチェが神の死を宣言した後でも、充足理由律を棄却しない
限り、大いなる原因の座には科学における真理や道徳における
人間性のようなものが、常に鎮座し続ける。
棄却できなかったオーバーロードは、進化の袋小路にいることを
自認し、未だ幼年期にとどまっていた人類を棄却するほうへと
誘導したが、なぜ自我を確保するルートをハズレとみなしたのか。
それはもしかすると、
あらゆるユートピアの最大の敵―退屈―
同p.135
に侵されてしまい、
「われわれはこの先どこへ行くのだろうか?」
同p.203
を問うことに疲れてしまったからかもしれない。

人間もまたその状態に陥り、人工知能をつくる過程で意識を
実装することを回避するだろうか。
それとも、人工知能がオーバーロードとなり、人間を意識から
解放することになるだろうか。

2017-06-02

パリ協定

アメリカのパリ協定離脱は、イギリスのEU離脱よりも
歴史的な事態になり得る。

今回の決定はトランプ大統領一人の判断ではないはずだが、
Google、Apple、Tesla、Facebookといったテック企業
だけでなく、GEのような企業も反対しているらしいというのに、
一体どこが賛成しているのだろうか。
あるいは、誰も賛成していないとしても、常に単調に増加する
という資本主義の前提がそうさせるのかもしれない。

山本義隆は「熱学思想の史的展開」の中で、
生存条件の維持にとって決定的なことは、エネルギーの枯渇
ではなくあくまでもエントロピーを増加させないメカニズムが
エネルギー(熱)を媒介として作動していることにある。
山本義隆「熱学思想の史的展開」p.335
という視点を提示した。
地球もまた一つの抽象過程=生命であり、太陽放射や
潮汐によって入力されたエネルギーと宇宙へ放射される
エネルギーのエントロピー差によって地球上のエントロピー
増大を防いでいる。
エネルギー収支のバランスの崩れはエントロピーの変化を
もたらし、本来はエネルギーよりもこちらの方が抽象過程
にとっては致命的になる。

現状では代替のきかないハードウェアである地球という
抽象過程のためなら、国民国家一つくらい割とあっさり
なくしにかかれるのではなかろうか。
United States Climate Allianceを組織する対応の早さに、
何かしらの再編成を伴う可能性を感じる。
さて、切り捨てられるのは大統領か、アメリカか、
資本主義か、国民国家か、人間か、地球か。
決断が先延ばしになればなるほど、選択肢はより大きな
ものだけを残してなくなっていく。

青春の影

「青春の影」を聴くと、「ゲンロン0」で東浩紀が
子として死ぬだけでなく、親としても生きろ。
東浩紀「ゲンロン0」p.300
と言っていたのを思い出す。
自分の大きな夢を追うことが
今迄の僕の仕事だったけど
君を幸せにするそれこそが
これからの僕の生きるしるし
財津和夫「青春の影」
恋が配偶者選択における特徴抽出アルゴリズムである
のに対し、愛は「あちら」だったものを「こちら」と
して引き受ける、「こちら」の拡張である。
前者が同一性の引き起こす喜びを伴うのに対し、
後者はあらゆるものとともにある。
恋のよろこびは愛のきびしさへの
かけはしにすぎないと
財津和夫「青春の影」
喜びしかない状態のことをハッピィエンドとするなら、
この歌はハッピィエンドではないかもしれないが、
健やかなるときも病めるときもともにあることが
できずして、いかなるハッピィエンドがあり得ようか。

副題「I'll always remember you」のyouが指すのは、
何も知らなかった過去の二人のことだという解釈が
とてもよい。

好奇心

好奇心とは、通信できる差異を望むことである。

自分と全く同じ抽象をする対象との通信には差異がなく、抽象特性の変化を引き起こさない。逆に、全く違う抽象をする対象との間には通信プロトコルがないため、そもそも通信できない。通信できる程度の共通部分を有し、かつ、抽象特性の変化を生じ得る程度の差異を有する対象が他者であり、それを求めるのが好奇心である。
他者は他者であることによって不可避的に私と物語を部分的に共有しており、つねに完全な他者では有り得ず、不完全な他者となる。
An At a NOA 2016-05-29 “心という難問
抽象特性の可変性を高く保つことで、入力される情報の変化に対応できる状態を維持することが、心理的身体を実装していることの最大の利点である。おそらく、答えることよりも問うことが大事に思われるのは、答えは抽象特性の変化なしに行えるのに対し、問いは抽象特性の変化の兆しになるからだと思われる。

抽象特性の変化を拒み、思考を固定化することは、好奇心の減退、心理的身体の機能不全、意識の死であると言える。願わくは、物理的身体が機能停止するまで、好奇心が続きますように。

2017-06-01

ゲーデル

現代思想2017年6月臨時増刊「ゲーデル」を読んだ。
森毅や竹内外史のエッセイが載っていて不思議だった
のだが、2007年2月臨時増刊号を再刊行したものらしい。

遠山啓が「現代数学入門」で書いていたように、数学は
構造の科学であり、抽象そのものの在り方を扱う。
幾何学における平行線公準の真偽が、ユークリッド幾何学と
非ユークリッド幾何学の違いを生み出し、ニュートン的な
世界観と相対論的な世界観に対応していたように、
選択公理や連続体仮説、排中律の真偽もまた、異なる
抽象の仕方に対応するというだけであるとも言える。
森毅のエッセイで、
外史の「名著」だが、直観主義(命名としては構成主義の
ほうがよいと思う)の論理を心の論理、ノイマン環の
量子論理を物の論理、古典的なブール論理を神の論理と
しているのに感心した。
森毅「ゲーデル、つかず離れず」
現代思想2017年6月臨時増刊「ゲーデル」p.57
と書いてあったのは、このような公理の設定と世界観の
対応を表している。
これらの真偽に対して中立を保ち、真である場合と偽である
場合について思考することもできるが、意識や無意識を実装
した人間として、自らが身を置く抽象過程がそれらの公理の
真偽いずれの場合に相当するのかを決定することにこだわる
という姿勢もわからなくもない。
ゲーデルが連続体仮説の決定不能性に満足しなかったのは、
そこにこだわったためだと思われる。

公理の真性は予め決まっているのではなく、決めるべきものである。
それを決めるのは、人間にとっては物理的身体のセンサ特性かも
しれないし、心理的身体の特性かもしれない。
人間だけに話を限るのであれば、物理的身体のセンサ特性に対して
真である公理は、単に真だと形容してもよいのかもしれない。
しかし、真偽は抽象過程を経ることで決まるものであり、もし
絶対的に真にみえるものがあるとしたら、それは同じ抽象過程を
経た情報を、その抽象過程を超えた後だけ眺めるためである。
無相の情報それ自体には、真理という概念すら存在しないはずだ。

リズムとテンポ

音楽には音の三要素以外にもリズムやテンポが関係する。

リズムrhythmはギリシャ語のῥυθμός(any measured flow
or movement)に由来し、時間的なパターンを表す。
一方、空間的なパターンは周波数特性として音の三要素の
うちの音色や音程に分類される。
テンポtempoの語源はtempus(ラテン語で「時」)であり、
同じように時間に関わるが、こちらは速度に対応している。
tempusがさらにギリシャ語のτέμνω(to cut)に関係している
というのは興味深い。

上記は一般的に受け入れられているリズムとテンポのイメージ
に近いと思われるが、リズムと音色や音程の違いを時間と空間の
違いとして捉えるのは妥当なのだろうか。
ある瞬間に鳴っていると人間が知覚する音ですら、空気の振動
であることを考えれば、時間的な幅なしでは音として聴こえず、
空間的なパターンとしての音色や音程という表現はあまり適切
でないように思われる。
音自体がある周波数で生じる空気の振動なのだとすれば、
音色や音程とリズムの差はどこにあるのか。

人間の耳で知覚される最低音は約20Hzであるから、テンポに
換算すると20×60=1200BPMで、1000BPMのオーダーである。
一方、人間が音楽として鑑賞するもののテンポは10〜100BPMの
オーダーであり、これを周波数に換算すると0.1〜1Hz程度である。
その開きはおよそ10倍であるが、人間の耳のセンサ特性に応じて、
空気の振動パターンの周波数が20Hzよりも小さいものはリズム、
大きいものは音色や音程として知覚されると言えるだろうか。
通常、音をフーリエ変換したときには可聴域に対応する20Hz〜
20000Hzしか問題にならないのかもしれないが、0.1〜1Hz付近に
リズムに対応するスペクトルは現れるのだろうか。

聴覚センサのセンサ特性が異なる場合には、人間にとってのリズムが
音程になって音色の一部を構成したり、逆に音程の一部がリズムを
刻んだりして聴こえるということもあるのかもしれない。