2018-04-29

範囲攻撃

ここで「範囲攻撃」と呼ばれているのは行き過ぎた演繹のことであるように思う。それは一種のハラスメントであり、論理的には大いに誤謬を含んでいる。

具体的なものをまとめて抽象的なものに置き換えるという「範囲化」をえいやでやってしまえるような、誤謬可能性をはらんだ投機的短絡の過程が意識であるとも言えるが、その範囲化の判断基準が変更可能であることもまた意識の特徴であり、変更可能性を失い投機性だけを残した範囲化は範囲攻撃へと転ずる。常識も慣習も言語も文化も宗教も科学も、意識的な行為は常にその可能性を秘めているはずだ(という指摘もまた範囲攻撃になり得るはずだ)。

自分がどんな判断基準に従っているか。
他にどんな判断基準があり得るのか。
それは常に気にしていたい。

2018-04-28

ハラスメント

ハラスメントとは、判断基準の押し付けである。

一方で、コミュニケーションが可能になるためには、常識、慣習、言語、文化といった、何らかの判断基準を共有することが不可欠であり、広い意味での教育は、常に判断基準の押し付けと隣り合わせでもある。

集団は、ハラスメントを指摘することで壊死を免れ、教育することで瓦解を免れるというバランスの上で維持される。

教育とハラスメントの境界線は常に変動しており、それを固定すること自体が一種のハラスメントになってしまうだろう。

2018-04-17

偏見

Text Embedding Models Contain Bias. Here's Why That Matters.

判断が一貫性をもつ限り、それは何らかの意味での偏見だと言える。「これは偏見である」という判断が一貫性をもつのであれば、それもまた偏見となるので、「偏見とは一貫性のある判断のことである」というのも偏見だ。

偏見に対する批判には、「その偏見は多数派の偏見と異なるからダメだ」と要約できるものも多いが、偏見であることに問題があるとすれば、一貫性は固定化につながりやすく、固定化した判断基準は忘れられがちだという点だと思う。この問題意識も、固定化することはよくないことだという判断基準に基づいているが、公理のない数学が存在しないのと同じように、どこかの段階では自分なりの偏見をもつしかないので、その偏見の裏にある判断基準を忘れないようにすることで、別の偏見があり得ることを憶えておくしかないのだと思う。

記事の中で出てくる「unwanted」という評価もまた一つの偏見であるから、何を「unwanted」としているのかという偏見を常に意識できるようでありたい。unwanted biasを取り除いた気になってそれを怠ると、本当にbiasが埋め込まれることになるのだろう。biasが埋め込まれた判断機構は、物理的身体に備わったセンサと同じく、ソフトウェアでなくハードウェアである。可視光線しか見えなかったり、人の顔が人の顔に見えたりすることを通常は偏見と言わないのと同じように、biasが埋め込まれたハードウェアによる判断は偏見と言われなくなるはずだ。

全ての判断をハードウェアで処理するべきという偏見が多数派になったら、意識なんてものは判断の一貫性をかき乱すバグでしかなくなるだろう。
判断基準とは、受け取った情報に対する判断の履歴が作り出す、判断の偏りのことである。それは、これまでもこれからも変化するものであるはずだが、変化は忘却されやすい。
An At a NOA 2018-02-25 “世界は上手くできている

2018-04-15

耳の焦点

つまり、無限の受動性(不可視の強制的な受容)こそが人間の聴覚をなしているということだ。煎じ詰めればこうなる。耳にはまぶたがない。
パスカル・キニャール「音楽への憎しみ」p.99
耳に欠けているのは、情報の選択的受容機構だ。耳に焦点を調節する機能があったら、聴覚だけで対象までの距離を測れるようになるのに。

聴覚デバイスの役目は、そこにあるだろうか。

2018-04-13

ある島の可能性

ミシェル・ウェルベック「ある島の可能性」を読んだ。

DNAと人生記に書き込まれた情報からまったくの同一人物を複製し、生殖や発生の省略と〈至高のシスター〉という基準によって徹底的にエラーを排除することで、ネオ・ヒューマンは不死となる。

その不死性によって、ひたすらに壊死へと向かうネオ・ヒューマンに可能性の光明はなく、時間が媒介変数と化した「終わりのない静止状態」を生きる他ない。ネオ・ヒューマンは、「幼年期の終り」のオーバーロードと同じように、進化の袋小路に追い込まれている。

旧人類が夢に見て、ネオ・ヒューマンが辿り着けなかった、「時間の真ん中に存在する可能性の王国」に至れるものとして想定される未来人は、ネオ・ヒューマンの先には存在せず、まったく別のところから現れるのだろう。

2018-04-12

Looking to Listen

Looking to Listen: Audio-Visual Speech Separation

視覚と聴覚を組み合わせることで話し声を分離できるというのは、多様な情報の流れの中に何らかの一致を見出すことが、個を認識することにつながっていることを示唆しているようで興味深い。

センサの種類や数を増やすと、個の特定の精度は上がっていくが、精度を上げ過ぎると、人間が同一個体と判定する対象を別個体として判定するようになり、「精度の悪化」と表現されることになるだろう。精度の頭打ちを決めるのは、人間のセンサの仕様だ。

複数の情報の間での齟齬を察知して、個の同一性をチェックする仕組みも作れるだろう。「今日は風邪を引いているから聴覚情報がずれている」というように、理由付けによる一時的なパッチも当てられるようになるだろうか。その過程がブラックボックス化したものは、マガーク効果と同じであるように思う。

2018-04-11

資本主義リアリズム

マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」を読んだ。

資本という評価基準を、唯一かつ汎用なものにすることで、あらゆる秩序の更新過程を「消費consume」として抽象した資本主義は、その評価基準が当たり前のものとしてこびりつくことで、「この道しかない」ものになる。そのハードウェア化した資本主義が生み出すリアリティに対抗するには、リアルを暴き出す以外になく、著者は精神保健と官僚主義に着目する。

精神保険において、原因が政治的・社会的なものから化学的・生物的なものに変化していくように、責任を負い得る単位が個人へと収束していくと同時に、あらゆる仕組みが、官僚主義的に非人格化された構造として埋め込まれることで、原因となるべき「大いなる他者」には、ついぞ出会うことができない。

規律型から管理型へと移行し、脱中心化された社会では、もはや神も死んで久しく、「父親不在のパターナリズム」となっているにも関わらず、それでも「大いなる他者」という中心をみようとしてしまう。原因の追求を一点に集約するという、近代の一真教的な傾向を巧みに利用しつつ、その一点の先を雲散霧消することによって、抽象的な構造はますます強固なものとなり、資本主義リアリズムが強化される。
そこに中心はなくとも、私たちは中心を探さずにはいられないし、その存在を断定せずにはいられない。
マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」p.164
この中心を求める傾向は、一真教の後遺症だろうか。それとも、充足理由律という仮定に付随するものなのだろうか。もしこの傾向によって意識が互いを認識しているのだとしたら、意識と資本主義リアリズムは一蓮托生ということになる。

例えば、抽象的な構造を代表する中心としてAIを据えることで、表面上は構造を具体化できるかもしれないが、リアリズムへの陥りに対する有効な手段になるだろうか。

行為主体性を押し付ける対象が健康やAIなどになったとして、その状況がまた構造的に固定化してしまうのであれば、「新たな記憶をつくることができない」というリアリズムが何度も繰り返し到来するだけである。「ハーモニー」のような、主体性の解消という手段以外に、その状況を脱却する方法はあるだろうか。

2018-04-10

consume

consumeの語源をたどると、"to destroy by separating into parts which cannot be reunited"に行き着く。

消費者とは、己の秩序を維持するために、別の秩序を解体するものであり、更新され続ける秩序のことを生命と呼ぶのであれば、あらゆる生命は何らかの意味での消費者であるはずだ。

消費対象の秩序の再生速度を超えた消費を行い、消費対象が少なくなったら次の消費対象を探すという行為は、歴史的に何度も繰り返されてきたように思う。資本主義によって新しくなったことと言えば、唯一で汎用な評価基準が生まれたことで、あらゆるものが潜在的な消費対象になったことだ。

一度消費対象になってしまったものは、消費し尽くされるまで消費対象であることをやめられない。選択肢は、緩やかな解体と急激な解体のいずれかだ。緩やかに解体される合間に別のものを解体するのが、つまり「生きている」ということであり、その過程をひっくるめて抽象化したのが資本主義だと言える。

漫画の海賊版サイトは、資本主義の制御された解体の循環に対する乱獲であり、消費の急激な高速化を食い止めるための対策が取られようとしている。その一方で、常に単調に増加するという資本主義の前提を崩さないために、正規とされる仕組みの中では、瓦解しない範囲で極限まで消費を高速化する。

人間は器用だなと思う。

2018-04-09

VR, AR, Reality

現実は、入力される情報に応じて構成されるものであり、何らかの意味で「近い」情報のみが選択的に共有されることで、異なる現実が構成される。VRとARとRealityの違いは、距離空間の取り方の違いだと言える。

Realityの場合には、空間的、時間的に近いという物理的な制約によって、共有される情報が決まる。むしろ、Realityを構成する情報のことを、空間的、時間的に近いと認識すると言うべきかもしれないが、その違いはあまり重要ではない。

通信技術が変化することで、物理的には遠かった情報が共有できるようになったり、近かった情報を共有せずに済んだりするようになると、Realityは別の現実へと変化する。それは、新しい「近さ」や「遠さ」が設定されるということであり、現実の変化は距離空間の変化として捉えることができる。蓄音機、印刷、電車、写真、電話、ネットあたりは比較的わかりやすい例だが、眼鏡、耳栓、望遠鏡、顕微鏡、言語なども、現実を変化させる通信技術の一種だと言える。

VRとARの違いを生むのは、変化した距離空間において、Realityの「物理的な」距離空間がどの程度継承されているかということになるが、その閾値は曖昧であり、VRとARとRealityは、「物理的な」距離空間の影響度が小さいものから大きいものへのグラデーションとして捉えるのがよいように思う。

Realityの「物理的な」距離空間に生きる人間と、それ以外の距離空間に生きる人間との間には、「近くて遠い」という感覚が生まれる。それはつまり、不気味であるということだ。距離空間を一致させれば不気味さは解消されるが、別の距離空間の取り方があることを認識するだけでも、不気味さはある程度和らぐだろう。

2018-04-07

聴覚AR

スピーカとヘッドホンでは、音空間の再現の仕方が異なる。スピーカの作る空間は、聴く人間の位置や向きの影響を受けない固定された座標系をもつのに対し、ヘッドホンはこれらの影響を受けて移動と回転が生じる座標系をもつ。聴覚VRとはつまり、スピーカ的な音空間の座標系をヘッドホンで再現する技術である。

スピーカとヘッドホンでもうひとつ異なるのは、音空間の共有の仕方だ。スピーカがその場にいる人間に対して否応なく音空間の共有を強制するのに対し、ヘッドホンは基本的にはそれを装着した人間一人のための音空間を用意する。スピーカ的な音空間の共有をヘッドホンで再現する技術は、聴覚VRよりも聴覚ARに近い。

音空間を共有するにはヘッドホン間で音源の位置を同期させる必要があるが、両耳間のわずか20cm余りの間隔で音源からの距離差を測定しないといけないので、音源と各耳の三点に置いたデバイス間での通信にしないと、十分な精度が得られないかもしれない。

美術館での展示品の解説のように、大人数が集まる空間において、音源の位置が移動しない音を個々の人間に別々に聴かせるものは、聴覚ARと相性がよい。あるいは、待ち合わせ相手だけに聴こえる声を、声のする方向を指定して送るというのも、聴覚ARならではになり得ると思う。電話やチャットでは再現できないし、同じ機能を視覚ARで実装しようと思ったら、草食動物のような目が作る視空間に慣れる必要があるはずだ(それはそれで面白い視覚体験になるが)。

各々が別々の音空間に閉じこもる状況を普及させたのはウォークマンだと思うが、聴覚ARによって、選択的に音空間を共有する状況が生まれる。この物理的な制約以外による選択的な共有というのが、ARをRealityやVRから隔てるaugmentの本質だと思う(以前、言語は一種のVRであると書いたことがあるが、むしろ言語は一種のARである)。

選択的共有であることによって、ARは常に不気味さを背負う運命にあり、全員がaugmentされない限り、その不気味さは消えないのだろう。
augmentされていない人には見えない何かが見えている人達が集まることは、それ自体が脅威になり得るだろうか。
An At a NOA 2016-07-29 “augmented

2018-04-06

我々は人間なのか?

ビアトリス・コロミーナ、マーク・ウィグリー「我々は人間なのか?」を読んだ。

作るものによって作られるもの。
本書で示される「デザイン」のイメージは、エッシャーの「Drawing Hands」に近い。

デザインする者とデザインされた物という区別があるのではなく、ものの相互作用の過程がデザインであり、その過程自体がほとんどもう人間なのだが、通常は敢えて者と物に分けて、者の側を人間と呼んでいるに過ぎない。「生命の内と外」と同じだ。

道具と装飾、あるいは機能と遊びの違いは、相互作用の途中で一時的に決まるものであり、装飾や遊びがエラーとして発生することで、相互作用は収束という死を免れることができる。エラーが引き起こす不確定性、不安定性が、すなわち思考である。

「我々は人間なのか?」という問いは、最大のエラー誘発装置となることで、人間という過程、デザインという過程を駆動させているように思う。

factorとcause

日本語だと、「要因」と「原因」。

因数分解のことをfactorizationと言うように、factorという語には、「全体とは部分の集合である」という発想があり、何らかの全体に対する部分を指す語であるように思う。

一方、causeという語には、「物事には順序がある」という発想があり、何らかの物事に対する前段階を指す語であるように思う。

factorは空間的、causeは時間的だと言える。factorは分類思考、causeは系統樹思考であると言ってもよい。

2018-04-04

情報共有

特定の情報は特定の人間だけが取り扱い、その情報を基に下した判断のみを、それ以外の人間と共有する。コミュニケーションの範囲が特定の人間に限られることで、特有の言語や常識の形成を通して、判断基準についてのコンセンサスを迅速に成立させることが可能になる。この抽象的な情報共有の仕組みによって、判断という抽象過程を効率的に洗練することができる。

近代は、この仕組みを専門分化と名付け、大いに利用してきた。近代的な一真教の教徒にとって、効率や洗練といった言葉が示す方向は一意的に決まるため、抽象的な情報共有は近代ととても相性がよい。

最近では特定の言語や常識をもつことが必ずしもよしとされず、情報公開が進められているが、情報公開というのは、情報共有の抽象度を下げることである。これまで具体的な情報を取り扱ってきた人間以外の人間とは、言語や常識を共有していないため、その情報をどのように抽象するかについてコンセンサスを取るためにはコストがかかり、それは効率の低下とみなされる。

コミュニケーションのコストが変わらないとすれば、判断基準のコンセンサスに関する効率の高さとは、つまりコミュニケーション主体の多様性の低さであり、具体的な情報にアクセスする主体の多様性を取るか、効率を取るかというのは、どちらがよいかという問題ではなく、どちらをよしとするかの問題であると思う。

巨人の肩の上に全員は立つことができない状況で全員がかなたの景色を見渡すには、どんな方法があるだろうか。あるいは、より上に、よりかなたに、という方向が一意的に決まるはずだという発想が、そもそも近代的なのかもしれない。

3D-Printed Steel Bridge

The First 3D-Printed Steel Bridge Looks Like It Broke Off an Alien Mothership

3Dプリントされた鋼橋。
さすがに現場でプリントするまでには至っていないようだけど、工場に置かれた橋は3DCGと見紛うばかりだ。

一本の直線もない形態へのこだわりは、非線形を線形の張り合わせに置換することこそ「理解」という言葉の意味するところであった「近代」という時代への決別を表明するかのようである。
直線の覇権とは文化一般にみられる現象ではなく、近代の現象なのである。
ティム・インゴルド「ラインズ」p.238
しかし、安全性の確認をはじめとして、あらゆる部分が科学や技術といった近代を受け継ぐものに支えられているはずであり、実際のところは、非線形の線形化がvirtualなレベルで高速かつ精密にできるようになったことで、actualなレベルでの線形化が不要になったということなのだろうと思う。

橋の側面がトラス状になっているのを見て、virtualなレベルでも保存される形式こそ構造的だと言えるなということを考える。
構造は、微分化différentiéeされていることで、潜在的virtualでありつつ実在的realでもある一方で、様々に受肉可能であるという意味で多様性をもつ、すなわち未分化indifférenciéeであるため、受肉の仕方によって様々に現働的actualなものになることができる。
An At a NOA 2017-08-18 “何を構造主義として認めるか
こうやって、複雑な形状でもトラスとして捉えてしまうのは、単純化という近代的な理解の一形態だろうか。でも、virtualにおいて高速化され精密化された線形化を人間が再現できなくなったときにこそ、人間の人間による人間のための単純化が必要とされるように思う。単純化とは、より離散的な記号への置き換えであり、つまりはdigitizedesignである。

理由が明快なものを「人工」、そうでないものを「自然」と呼ぶとすると、近代までは、人間の作るものはactualなレベルまで線形化された人工的なものばかりであり、何かを作るというのはすなわち自然の人工化ということだったと思う。専門分化が進むとともに、個々の人間レベルでは難しくなっても、集団としては依然としてかなりの程度に人工化していると思うが、人間の作るもの、人間の作るものが作るもの、人間の作るものが作るものが作るもの、というように、人工化のレベルがよりメタになっていくにつれて、actualなものは次第に人工から自然へと近づいていく。その過程の中で、次々と生まれる新たな自然の人工化を諦めたとき、「BLAME!」のような、かつての人工が自然化した世界が訪れ、「意識」や「理解」といったものが時代遅れになるのだろう。

こういう構造物の安全性については、壊れるところを何度も観察することで形成した力学的な直観で判断できることもあるだろうし、精緻なFEAモデルを用いた解析を通して判断できることもあるだろう。しかし、抽象化の解像度は、粗過ぎても細か過ぎても、その
判断を伝達するのには向かないように思う。個人的には、その両極の間にある、適度な単純化を通した判断もできるようでありたい。

2018-04-01

「百学連環」を読む

山本貴光「「百学連環」を読む」を読んだ。

西欧人が自然を読んで西欧学術をなし、西周が西欧学術を読んで「百学連環」をなし、山本貴光が「百学連環」を読んで「「百学連環」を読む」をなし、私が「「百学連環」を読む」を読んでこの文章をなす。

受け取った抽象から、それが想定していた具象を再構成し、自らの判断基準に従って、判断基準の変化も伴いながら、新たに抽象する。この抽象過程の連鎖は、学と術の連鎖であり、
文學なくして眞の學術となることなし。
西周「百學連環」第二一段一一〜一五文
というのは、抽象から具象を再構成する能力であるリテラシーの重要性を言ったもののようにも思える。言葉をつくるというのは、最も抽象的な行為であり、西欧学術の多くの概念を日本語に抽象した西周の抽象能力は抜群であると思う。

学術の分類について、普通commonと殊別particularの違いは抽象度の差、心理intellectualと物理physicalの違いは判断基準の固定度の差ではないかと思う。時代、場所、集団によって判断基準が異なることで、普通と殊別、心理と物理の境界は変化するはずであり、むしろその境界こそ、判断基準の個性にあたるものだと言える。唯物論とは、物理が幅を利かせ、判断基準が完全に固定化した世界観である。それを採用すれば、あらゆることがわかるものとして捉えられるようになるかもしれないが、ソフトウェアのないハードウェアは脆弱である。その逆もまた然りだ。

心理的な部分がなければ、集団は固定化し、物理的な部分がなければ、集団は発散する。心理と物理の均衡が取れていなければ、どのような学術も、壊死と瓦解の間で存続することはできないように思われる。