2018-05-28

感応の呪文

デイヴィッド・エイブラム「感応の呪文」を読んだ。

周囲から受け取っている情報が同じでも、センサの特性が異なれば、受け取られ方は違ってくる。それはつまり、受け取るという過程が、抽象という不可逆な過程であることの現れだ。

抽象過程は、センサ特性に相当する「膜」あるいは「肉flesh」を挟んだ情報の流れであり、かたちが与えられることによって生じる膜の両側での情報量の差に基づいて、情報量が少ない方を「内」、多い方を「外」とみなすことで、内外の区別が生まれる。「情報を受け取るセンサ」と、「受け取られる情報である周囲」というのも、そうして生まれる区別だ。

更新される秩序としての生命は、抽象過程そのものを指すものであるはずが、膜が硬くなり、内外の区別が固定化されるにつれて、自らの内だけが生きているという錯覚に陥る。

言語、特に表音文字によって、
  • ギリシャ語のpsyche
  • ヘブライ語のruach
  • 日本語の気
という情報の流れが完全に複製可能なものとみなされるようになることで、人間という膜が硬直化し、内としての意識が閉じ籠もった結果として、人間と人間以上more-than-humanの乖離が生じたのだとすれば、これもまた複製技術の問題の一つである。

複製技術とは、「完全な複製」を定義する硬い膜をえいやで設定する投機的短絡である。それは、圧倒的大量の情報の流れが次第に定常状態へと収束する「局所的な膜の硬直化」の回避になることもあれば、それ自体が硬い膜として居座ることで、「大域的な膜の硬直化」をもたらすこともある。

局所と大域のいずれにせよ、膜が硬直化してしまえば、生命は壊死へと向かう他ない。

2018-05-24

納得

本来、納得は自分自身でするしかない。

それを他人に任せるところから、責任なるものが生じている。

自己責任というのはつまり納得のことであり、むしろ責任の方が委託納得なのである。

2018-05-23

潔癖症

必要十分なまでにパラメータが整理されている状態が「きれい」である。
An At a NOA 2016-02-08 “美しい/きれい
判断基準を固定することで「きれい」な状態が定まり、その判断基準に従って収束することで、だんだん「きれい」になっていく。

「清潔」や「きれい」をひたすらに目指す潔癖症は、一つの構造を抉り出す過程であり、とても近代的であるように思う。

2018-05-20

西部邁 自死について

富岡幸一郎編「西部邁 自死について」を読んだ。

仮説の形成と棄却の連鎖が織り成す精神という過程。
消化、吸収、代謝の連鎖が織り成す肉体という過程。
二つの過程はそれぞれに生命であるとみなせるが、両者がほとんど一蓮托生と言えるまでに混淆しているのが人間である。

しかしそこには、肉体が死ねば精神も死ぬのに対し、精神が死んでも肉体は死なないという違いがあり、精神と肉体は完全には一蓮托生ではない。その一蓮托生の不完全性をどのように捉えるかは、精神にとっての一大事であり、西部邁の思想、あるいはその表明としての自裁は、単なる精神への礼賛ということではなく、精神と肉体の一蓮托生を完遂することに人間の条件を見出すものだと思われる。

近代以降、肉体の代謝が無限に思えるほど長期化するにつれて、一蓮托生の不完全性の影響は増しているにも関わらず、専門人の烏合の衆となった近代的大衆人の精神は、各々が限られた対象と限られた発想だけに拘泥することで代謝が低下し、それについて考えることのできる精神が少なくなっている。個人レベルだけでなく、集団レベルにおいても、精神と肉体の一蓮托生が、肉体の側から一方的に解消される危機にあると言えるだろう。その極限には、精神が死に絶え、肉体だけが無限に生き延びるというディストピアが待っている。

一蓮托生の行く末の他の選択肢としては、精神と肉体の複製技術が発達し、ハードウェアからハードウェアへとソフトウェアを移植するように、精神を別の肉体へと移植できるようになることで、一蓮托生が双方から解消されるという可能性もある。精神にとっては肉体のドラスティックな代謝であり、肉体にとっては精神のドラスティックな代謝であるともみなせるが、それはつまり、マクロな不連続性をマクロな連続性で覆ったものを生命とみなすということであり、ミクロな不連続性をマクロな連続性で包んだものを生命とみなす現在の感覚からすると、大いに違和感を覚えるものであるように思う。

見ようによっては、あらゆる過程の連続性は、不連続に取得するデータに対して微分可能な解釈を与えることで仮想されているとも言えるが、そのような理解が普及すれば、もはや誕生や死の不連続性すら連続なものとして縫合されるような時代も来るのかもしれない。その時代においてこそ、永続しかねない連続性に対して不連続性を与えることが、思想の表明として効果的になるのだと想像される。

2018-05-18

〈危機の領域〉

齊藤誠「〈危機の領域〉」を読んだ。

「専門家specialist」が誕生したのは近代以降だろうか。generalな個人はspecialな専門家へと分化され、専門家は、各自の専門においてのみ、責任を負うことによって自由を手に入れる、という構図が出来上がる。膨大な情報の中から、何らかの判断基準に基づいて同一性を見出すことで情報量を減らすという「理解」や「判断」の過程を効率よく実行するには、専門分化という戦略はとても有効だと言える。

しかし、情報を欠落することが「理解」や「判断」である限り、そこには常に、欠落した情報に応じた〈危機の領域〉が存在し、その領域を覗くには、その「理解」や「判断」が基づいた判断基準、すなわち「理由」が必要になる。「理解」や「判断」の結果にはアクセスできるのに、「理由」にはアクセスできないという事態が生じると、リテラシーが失われてしまい、突如として直面することになる〈危機の領域〉において破滅的な状況を迎えるのだと思う。

専門分化によって高度に効率化した体系がもたらす恩恵に与るには、同程度に高密度なコミュニケーション=熟議によってリテラシーを維持しなければならない。熟議によって「理由」を共有し、リテラシーを維持することが、〈危機の領域〉に直面したときの納得や、「判断」の時間整合性につながるのだと思う。

もし熟議が効率を低下させるのだと言うのであれば、その効率は破滅をもたらすほどの高さに達しており、専門分化はもはや一種の虐殺器官になっていると言える。専門分化の発達と熟議の不足という不均衡は、資本主義によってあらゆるものが資本を介して「消費」できるようになったことで生み出されたと言えるだろうか。

自分の専門である建築構造からすれば、2章から4章の例はどれも身近であったが、高度に専門分化した現代においてどのように〈危機の領域〉と向き合うかという意味では、具体例が身近であるかどうかに関わらず、抽象的にはすべての人間にとって身近な問題として受け取ることができるはずだ。

2018-05-13

知識と教養

知識と教養は、いずれも言語化された記憶であるが、知識がspecialであるのに対し、教養はgeneralである。

教養とは、抽象化された知識である。

おそらく、本当に愛している対象については、知識の代わりに教養を欲することはないだろう。

抽象化の範囲

状況に応じて最適なspecialへと分化するだけでなく、generalへと抽象化することで局所最適化を免れることができるのは、人間の強みだろう。何でもかんでも抽象化しておけるのは余裕の現れである。

多くの抽象化の恩恵に与っている人間でも、自分にとって身近な対象は抽象化することができず、分化したspecialのままにしておきたいという傾向はあるように思う。一般論は、自分から遠くにあるものをみるときだけに持ち出されがちだ。

対象を抽象化から可能な限り遠ざけておく行為は、愛と呼べるだろうか。

2018-05-07

系統体系学の世界

三中信宏「系統体系学の世界」を読んだ。

生物体系学が様々な判断基準に基づいて生物を抽象するように、生物体系学それ自体もまた、生物の抽象の仕方に応じて抽象することができる。体系学曼荼羅はそのようにして抽象された“風景”であり、本書は、言うなれば、生物体系学の体系学である。

体系学曼荼羅に記された多くの記号や矢印、あるいは文章によって描き出される経緯を読むにつけ、生物体系学という科学が一筋縄には抽象できないのだろうことを想像する。文字通り一筋のチェイン構造としてはおろか、ツリー構造としても表現しきれないのだろう。それはおそらく他の学問も同様であるし、生物だって本来はそうだろう。

それでも何かしらの抽象を行うと、判断基準に応じた構造が付与されると同時に、情報が失われる。抽象はデータ圧縮と同じだ。可逆圧縮であれば情報は失われないが、その抽象はおそらく実質的に無意味であり、不可逆圧縮によって情報を減らすことが理解や判断につながるのだと思われる。むしろ、不可逆な抽象の連鎖による情報の絞り込みこそ、理解や判断と呼ぶべきものだろう。

情報の欠落がある限り、理解や判断の仕方には唯一真なるものはなく、この基準に基づくとこのようにみえるということにしかならないはずだ。理解や判断の「正しさ」は、抽象による情報の欠落の仕方によって決められるかもしれないが、その「正しさ」もまた一つの判断である。別の理解や判断ができるようであるためには、理解や判断に伴って失われる情報を埋め合わせ、具象を想像できるだけのリテラシーをもつ必要がある。それは、判断基準をとっておくことで可能になり、その判断基準こそ、充足理由律が仮定する「理由」であるように思う。抽象から具象への復元の精度の高さを、より少ない量の理由によって確保しようとするのが、最節約原理だと言えるかもしれない。

科学史や科学哲学は理由を維持する営みであり、それによって別の理解の仕方が可能になる。著者自身が
本書に示した“曼荼羅”もまたいずれその誤りが指摘されることを私は切に期待しています。
三中信宏「系統体系学の世界」p.426
と述べるように、生物体系学の体系学もまた見る人間によって“風景”が異なり、生物体系学の体系学の体系学を描くことができるだろう。

そういった理由を維持する営みの連鎖が崩れ、抽象する際に基づいた理由を忘れてしまうと、何を理解しているのかを見失うことになる。それは既に意識的な抽象ではなく、無意識的な抽象だ。機械学習の分野での近年の成果をみていると、無意識的な抽象だけが重宝される時代が来ないとも言い切れないが、意識ある存在としては、意識による意識的な抽象を楽しめるようでいたい。