2018-05-07

系統体系学の世界

三中信宏「系統体系学の世界」を読んだ。

生物体系学が様々な判断基準に基づいて生物を抽象するように、生物体系学それ自体もまた、生物の抽象の仕方に応じて抽象することができる。体系学曼荼羅はそのようにして抽象された“風景”であり、本書は、言うなれば、生物体系学の体系学である。

体系学曼荼羅に記された多くの記号や矢印、あるいは文章によって描き出される経緯を読むにつけ、生物体系学という科学が一筋縄には抽象できないのだろうことを想像する。文字通り一筋のチェイン構造としてはおろか、ツリー構造としても表現しきれないのだろう。それはおそらく他の学問も同様であるし、生物だって本来はそうだろう。

それでも何かしらの抽象を行うと、判断基準に応じた構造が付与されると同時に、情報が失われる。抽象はデータ圧縮と同じだ。可逆圧縮であれば情報は失われないが、その抽象はおそらく実質的に無意味であり、不可逆圧縮によって情報を減らすことが理解や判断につながるのだと思われる。むしろ、不可逆な抽象の連鎖による情報の絞り込みこそ、理解や判断と呼ぶべきものだろう。

情報の欠落がある限り、理解や判断の仕方には唯一真なるものはなく、この基準に基づくとこのようにみえるということにしかならないはずだ。理解や判断の「正しさ」は、抽象による情報の欠落の仕方によって決められるかもしれないが、その「正しさ」もまた一つの判断である。別の理解や判断ができるようであるためには、理解や判断に伴って失われる情報を埋め合わせ、具象を想像できるだけのリテラシーをもつ必要がある。それは、判断基準をとっておくことで可能になり、その判断基準こそ、充足理由律が仮定する「理由」であるように思う。抽象から具象への復元の精度の高さを、より少ない量の理由によって確保しようとするのが、最節約原理だと言えるかもしれない。

科学史や科学哲学は理由を維持する営みであり、それによって別の理解の仕方が可能になる。著者自身が
本書に示した“曼荼羅”もまたいずれその誤りが指摘されることを私は切に期待しています。
三中信宏「系統体系学の世界」p.426
と述べるように、生物体系学の体系学もまた見る人間によって“風景”が異なり、生物体系学の体系学の体系学を描くことができるだろう。

そういった理由を維持する営みの連鎖が崩れ、抽象する際に基づいた理由を忘れてしまうと、何を理解しているのかを見失うことになる。それは既に意識的な抽象ではなく、無意識的な抽象だ。機械学習の分野での近年の成果をみていると、無意識的な抽象だけが重宝される時代が来ないとも言い切れないが、意識ある存在としては、意識による意識的な抽象を楽しめるようでいたい。

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