2018-05-18

〈危機の領域〉

齊藤誠「〈危機の領域〉」を読んだ。

「専門家specialist」が誕生したのは近代以降だろうか。generalな個人はspecialな専門家へと分化され、専門家は、各自の専門においてのみ、責任を負うことによって自由を手に入れる、という構図が出来上がる。膨大な情報の中から、何らかの判断基準に基づいて同一性を見出すことで情報量を減らすという「理解」や「判断」の過程を効率よく実行するには、専門分化という戦略はとても有効だと言える。

しかし、情報を欠落することが「理解」や「判断」である限り、そこには常に、欠落した情報に応じた〈危機の領域〉が存在し、その領域を覗くには、その「理解」や「判断」が基づいた判断基準、すなわち「理由」が必要になる。「理解」や「判断」の結果にはアクセスできるのに、「理由」にはアクセスできないという事態が生じると、リテラシーが失われてしまい、突如として直面することになる〈危機の領域〉において破滅的な状況を迎えるのだと思う。

専門分化によって高度に効率化した体系がもたらす恩恵に与るには、同程度に高密度なコミュニケーション=熟議によってリテラシーを維持しなければならない。熟議によって「理由」を共有し、リテラシーを維持することが、〈危機の領域〉に直面したときの納得や、「判断」の時間整合性につながるのだと思う。

もし熟議が効率を低下させるのだと言うのであれば、その効率は破滅をもたらすほどの高さに達しており、専門分化はもはや一種の虐殺器官になっていると言える。専門分化の発達と熟議の不足という不均衡は、資本主義によってあらゆるものが資本を介して「消費」できるようになったことで生み出されたと言えるだろうか。

自分の専門である建築構造からすれば、2章から4章の例はどれも身近であったが、高度に専門分化した現代においてどのように〈危機の領域〉と向き合うかという意味では、具体例が身近であるかどうかに関わらず、抽象的にはすべての人間にとって身近な問題として受け取ることができるはずだ。

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